第百十話 作為
長い夜が沈み、朝が光を連れて戻って来た。窓から差し込む光を浴びながら、ヴィタリーは協会の長い廊下を歩いていた。
戦闘で汚れた泥や埃を落とす間も与えられぬ呼び出しに、ヴィタリーは目の下に刻んだ疲労の色を一層濃くする。肌に注ぐ朝日の眩さとは違い、への字に曲がる唇から漏れる吐息は余りにも陰鬱だった。
──こういう場合、協会長の話が良いものだった試しがない。
それは予感などというあやふやなものではなく、経験則に裏打ちされた確信だ。呼び出しなど放棄して、今すぐにでも遁走したいというのがヴィタリーの本音だった。
──この程度で弱音を吐くなんぞ、我ながら情けねぇな。……そろそろ引退時かねぇ。
明けない夜が無いのと同じで、ヴィタリーには老いを食い止める術はない。緩やかに、しかし、刻一刻と戦士としての死を迎えようとしている。
ヴィタリーは鬢の辺りを掻く。ほんのりと色素が薄くなった髪は、近頃頓に張りを無くしてしまった気がした。
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「よぉ、ベロニカ。待たせたな……ん?」
叩扉と口上もそこそこに、ヴィタリーは局長室の扉を気安く開ける。そこにはベロニカ以外に珍しく先客がいた。後ろ姿で顔は見えない。しかし、見覚えのある黒髪のお陰で、それがロイだと即座に気付いた。
ヴィタリーは二人に声を掛けようとして、思い止まる。正面に座る彼を見つめるベロニカの顔が余りにも険しく、痛みを堪えるような表情だったからだ。
「……んん、お邪魔だったようだな。出直そうか?」
ヴィタリーが敢えて軽い調子で言うと、ベロニカがはっとしたように顔を上げた。どうやらヴィタリーの訪問にすら気付かぬ程に話し込んでいたらしい。深みのある海松色の目は秋霜で焼かれたように色褪せている。
「いや……ちょうど良かったよ。あんた達二人に話があって読んだんだ」
ベロニカは長椅子に座るよう目で促したが、ヴィタリーは固辞して長椅子の後ろに立つ。流石に、任務明けの服で高価な家具を汚すのは忍びなかった。
「……頑固だねえ」
「どうせなら義理堅いと言って欲しいもんだぜ」
ベロニカは苦笑し、それ以上何も言うことはなかった。ヴィタリーの性格をよく知るからこそだが、ベロニカの無駄を切り捨てる速度は恐ろしく早い。
「本題に入ろう。お前達、ザガ=テルメールを知っているかい?」
返答は、ロイが僅かに早い。
「貴族たちの保養地だろう」
「大きな温泉街ってことしか知らねぇな」
ヴィタリーの記憶が確かならば、クリステア王国の北東──辺境に存在する観光地だ。当然ながら、平民のヴィタリーには縁もゆかりも無い。
ベロニカは神妙な顔で頷く。無骨な指を絡めて膝の上できつく握った。
「本日未明、ザガ=テルメールが吸血鬼の襲撃により壊滅した」
装飾のない端的な報告が、却って被害の大きさを際立たせた。ヴィタリーの背に肌が粟立つような緊張感が走る。ベロニカの言葉を傾聴していたロイも同様である。
「犠牲者の大多数はそこで働く住民と狩人達だ。だが、貴族も少なからず犠牲になった。お前達には生き残った狩人と連携し、討伐に当たってほしい。お前達以外にも全国各地の狩人が集結する。うまくやってくれ」
特にロイは、とベロニカは釘を刺すの忘れない。この嫌味に対し、ロイの返答は無かった。
ちょっと待ってくれ、とヴィタリーは声を上げる。
「確か、ロイは別の任務に着いていたはずだろう。そっちはどうするんだ?」
ベロニカは冷徹にロイを見据える。
「当然、降りてもらうよ。件の任務とロイは相性が最悪らしいからね」
「……最悪? いや、しかしだな……ロイ程の手練が苦戦するのなら、人間の手にも余るんじゃないのか」
ベロニカは頭痛を堪えるように眉間を指で押さえた。
「それは分かってる。……だが、ロイは協会の切り札でもあるんだよ。死ぬと分かっていながら出撃させるわけにもいかないだろう」
「死ぬ……だと? ロイが?」
ヴィタリーは慌ててロイを──元相棒を見る。今はエリシュカにその地位を譲ったものの、彼の鬼神の如き戦いぶりは昨日のことのように記憶に焼き付いている。
その圧倒的な強さに憧れつつも嫉妬し、そしてじわじわと理想とかけ離れていく中年の肉体にヴィタリーは絶望したものだ。
ロイの口から否定の言葉が出るのを、ヴィタリーは固唾を呑んで待つ。こういう場合、ロイは不機嫌を隠さずにぶっきらぼうな物言いをするのだ。
しかし、ヴィタリーの希望を打ち砕く様に、ロイは長椅子に座ったまま、相変わらず微動だにしない。気まずそうに視線を逸らすことさえ無かった。
「降りてもらうって……おいおい、じゃあエリシュカはどうするんだ? まさかロイですら手に余る奴を相手に、一人で戦わせる気か?!」
ヴィタリーは黙っていられず、長椅子の背もたれを拳で殴った。その拍子にみしり、と長椅子の足が軋む。
手加減をしたとは言え、衝撃は腰掛けたロイにも伝わったはずだが、身動ぎもせずに沈黙したままだ。その様子が更にヴィタリーの胸を内側から捻じる。
「ロイ……お前、エリシュカの相棒だろ。何とか言えよ」
「俺の意見が必要か?」
「……はぁ?」
ロイの舐めた口の利き方に、ヴィタリーは我知らず剣呑な空気を醸す。
「もっと正確に言ってやろうか。今この局面で、俺の意見が通ると思っているのか?」
そこまで、とベロニカが両手を打つ。ヴィタリーは大きな破裂音に気勢を削がれて、いからせた肩を下ろした。
「全く……落ち着きな。仮にも【魔眼】持ち相手にエリシュカを一人でぶつけるわけがないだろう。急拵えの班だが、アイザック、フローリアン……それからイリーナ、ソフィアと組ませることにしたんだよ」
ヴィタリーは不満を隠さずに顎を擦った。夜から出ずっぱりで無精髭が一段と長く伸びている気がする。
「アイザック達はともかく、イリーナ達の階級は黒だぜ? 【魔眼】持ち相手にぶつけて大丈夫かよ?」
「ソフィアは防御向きだから階級が上がりにくいってだけで、能力だけを見れば銀に相当する。イリーナはソフィアと組むために昇級していないだけで、実力はフローリアン達に決して劣らないよ」
力強い言葉とは裏腹に、ベロニカの顔に楽観の色はない。ヴィタリーはそれを綺麗に読み取り、「反対だ」と素早く言った。
「それでも、ロイ一人分の働きに及ぶとは到底思えん。もう少し人数を増やした方が良くないか? 若い連中をあたら犠牲にするよりは──」
もうおよし、とベロニカは威厳を持ってヴィタリーの言葉を阻む。
「そもそも、犠牲はつきものだ。うちの連中の死亡率が低いのはロイとエリシュカが厄介な討伐任務を引き受けてくれていたからだろう」
ヴィタリーは返す言葉を見失い、息を呑んだ。吐いた息は音なき言霊を乗せて、ベロニカに届く前に敢え無く墜落する。
「他所の土地で沢山の狩人が死んだ。私達だけが痛みを差し出さず、死に怯える様な愚かな真似は出来ない。……私もすっかりその事を忘れていたがね」
ヴィタリーはちっと舌打ちする。
「……分かったよ。……それでも、嫌な感じがする。リュミドラの事件を思い出す」
「あぁ……エリシュカの……」
ヴィタリーは頷く。
「あの時も首都を大量の吸血鬼が襲ってギルドはガラ=ルミナスに応援を寄越せなかっただろう?」
ヴィタリーは当時の事を思い出して、左肩を擦る。洗脳された仲間の銃弾に撃ち抜かれた場所には、今でも微かに麻痺とぎこちなさが残っていた。
「何だか、あの時と同じ作為を感じるんだ。俺の気の所為ならいいんだが……」
「……それでも行かないという選択肢はない」
そして、ベロニカは二人の顔を見回す。
「……気をつけて行くんだよ。特にロイ、アンタの心臓に仕込まれた毒は二日で溶け出す。二週間分の薬剤をヴィタリーに渡しておくから、早く片付けておいで」
ロイは、頷かなかった。




