第百九話 離れ難き指先
医務室を後にしたロイは、逃げるように協会の中庭に駆け込んでいた。相変わらず中庭に人影はないが、その分空気は清浄だ。余人を交えなければ望まぬ吸血の衝動に煩わされずに済むので、かえって都合が良かった。
ロイは丁度中庭と同じ広さしかない夜空を見上げる。そこには大玉の真珠を思わせる月が浮かんでいた。とろりとした光がロイの青白い頬を撫で、ささくれていた心が少しばかり凪ぐ。
この慈光は、ロイにとって文字通り生命線だ。決して怪物たちに屈さぬ力を与えてくれ、今日まで吸血を拒む臆病者を生かし続けて来た。
しかし、今宵──ロイは敗北した。今この瞬間、再び協会の地を踏めたのは決して幸運などではない。
敵側に何らかの目論見があり、ロイは連中に利用されるためだけに見逃されただけだ。エリシュカに命を惜しまれたと知った時の、万倍の屈辱が今も毒に冒された胸を押し潰している。
──アレは必ず殺さなければならない。だが……アレを殺すつもりなら、月光では足りない。
月光の冷たい光を一身に受けながら、ロイは俯き瞑目する。人たろうと足掻く怪物を嘲笑うかのように、心の奥底で物騒な声が響いた。
──血を…………運命を…………受け入れろ。
──そうすれば…………【魔眼】を奪える。
──“使徒”をも、殺せる。あの娘の骸を………永遠に手元に置くことさえ…………難しくない。
何度聞いたか分からない、呪わしい誘惑を断ち切るようにロイは頭を振る。
──どれ程人間を模倣しても、一皮剥けば本音はこんなにも穢れている。
吸血鬼が人の骸に血を与え、血族を増やすという行為は必ず本人以外の死が介在する忌まわしいものだ。しかし、一方で人間が子々孫々へと命を繋いでいく行為に等しい、本能的な営みである。
誘惑や衝動は理性で捻じ伏せることは出来るが、綺麗さっぱり削ぎ落とすことは出来ない。いかにロイと言えど、本能から逃れることは難しいのだ。
ロイは長椅子に身体を投げ出すように座る。片手で顔を覆い、自嘲するように笑った。
「……は、何が欠陥品だ。……本当に、醜い。吐き気を催す程に、立派な化け物じゃないか」
その言葉を聞き咎めたように、中庭に通じる扉が軋みながら開いた。蝶番が錆びているのか、ロイ以外が開けると不気味な唸り声を上げるのだ。
「……ロイ?」
ロイの指がぴくりと引き攣る。己の名を呼ぶ囀りは耳によく馴染んだが、今だけはこの声を聞きたくはなかった。
「やっぱりここにいたのね。もう、吸血鬼がいるかもしれないのに一人で犯人を追うなんて無茶して! ……心配したのよ」
エリシュカは軽口を言うが、夜にも関わらずロイの弱りきった有様を見てさっと顔色を変えた。
「ちょっと、何処か怪我でもしたの? 大丈夫?」
「近寄るな」
ロイは鋭い声で威嚇する。その声に気圧されてエリシュカの気配が一歩下がった。
ロイは長椅子から立ち上がる。彼女を迎えるためではない。彼女に背を向け、視界に入れないようにするためだ。その顔が悲しみに歪むのを見たくはなかった。
「…………お前に合わせる顔がないだけだ」
「……え?」
エリシュカの怪訝そうな声がロイの胸に刺さる。これ以上失望されたくはなかったが、黙っていることは許されない。情報の不足はエリシュカの生存率に直結する。
「お前の知人の警部補──」
「……ハジ警部補さんのこと?」
「そうだ。弾道をねじ曲げたのは、やはり吸血鬼だった。本来、あの銃弾は連続妊婦殺人事件の犯人を貫くはずだった。だが、吸血鬼が犯人を逃がすために──奴の代わりに警部補が死ぬよう、運命まで捻じ曲げたようだ」
「そんな……!」
エリシュカはそれきり言葉を失ってしまったようだった。
そもそも、エリシュカはロイとばかり組んでいるせいか、吸血鬼狩りにしては、仲間の死に触れる機会が極端に少なかった。
そのせいで中堅以上なら誰もが経験する喪失──とりわけ、目の前で他者が死ぬという光景自体に慣れていないのだ。
しかし、ロイは敢えてそんなエリシュカを叱り飛ばした。
「動揺するな、気をしっかり持て。……いいか、連続妊婦殺人事件の犯人は……バージル・スターンだった」
は、とエリシュカの声が短く震える。一拍置いた後、言葉の意味を漸く理解したのか、呼吸に動揺が滲み始めた。焦りのせいで肺を大きく広げることが出来ずに、エリシュカが小さく喘ぐ。
「……っ、で、でも! バージルはロイが捕まえたのよね? ねぇ……もうこんな事件は起こらないわよね?」
エリシュカの縋るような声にロイは歯噛みする。
「すまない。……【魔眼】の幻覚に呑まれて──取り逃がした」
貴族から平民になったエリシュカに忌憚なく接してくれる人間は多くないはずだ。数少ない一人が、恐らくエドワードだった。
だが、ロイは凶行を目撃したにも関わらず彼を守れなかった。そればかりか、仇を取り逃がした上おめおめと逃げ帰って来た。
「バージルは自分の正体が露見したことを知っている。今後バージルからエリシュカに接触してくることはないだろう。暫くは──いや、これ以降一切の殺人を控えるかもしれない」
ロイはやるせなさを隠さずに吐き捨てる。
「このまま手詰まりとなれば……吸血鬼に繋がる手掛かりも失われて、任務失敗も有り得る。……俺の弱さが招いた結果だ。本当に、すまない」
ロイの謝罪は最後まで紡がれることはなかった。
いつの間にかロイの背後にはエリシュカが立っており、上着の裾をごく控えめに引かれる。くい、と軽い引きにはどこか不安そうな子どもの幼さと甘さがあった。
「…………お願い、もう謝らないで。任務の失敗なら、二人でベロニカ協会長にごめんなさいって謝ればいいのよ」
それとも、とエリシュカの声色に不安が混じる。
「もしかして、任務に失敗したらお仕置きがあるの? 毒の中和剤を貰えなかったりするのかしら?」
「…………いや」
ロイは思わず否定したが、実際の所どうなるかは分からないというのが実情だ。何せ、ロイはこれまでいかなる無茶な任務をも成功させ、生還してきた。
人間よりも遥かに頑強な吸血鬼でありながら任務に失敗したなど、言い訳を口にすることすら赦されないと信じ切っていた。
「いいわ。もしまたベロニカ協会長やキィさんに意地悪されたら言って。もう一度直談判しに行くから」
「おい……!」
聞き捨てならない台詞に、ロイは思わず後ろを振り返る。エリシュカは、眦に大粒の雫を溜めながら、ロイを上目遣いに睨め付けている。
「……やっと、こっちを見てくれた」
エリシュカは上着を掴む手を離し、月よりも美しく笑った。
ロイはその笑顔に呑まれ、呆然とするより他ない。
「……きっと、貴方は今までたくさん傷付いて、自分の命を大事にする方法を忘れちゃったのね。頑張っても、その生き方はもう変えられないかもしれないけど──いいのよ。その分私が貴方のことを大事にするから」
ロイの手にエリシュカの手が触れる。その手は最早令嬢のものではない。男のように剣胼胝を作り、すっかり硬くなっていた。だが、その掌の何とあたたかいことか──
しかし、その瞬間、ロイはエリシュカに贈った魔除け《アミュレット》の存在を思い出す。エリシュカに対し良からぬ衝動を抱えた化け物を、天眼石が見逃すはずがない。
また指が爛れ、エリシュカに要らぬ心配を掛ける前に振り払うべきだ。
だが、天眼石は沈黙していた。まるでロイという怪物を赦したかの様に。
何故、と困惑を露わにした刹那、エリシュカの目が妖しく光る。普段は清楚な彼女が決して浮かべることのない、この挑戦的な瞳は──
「今だけは私が赦してやるよ。どうやらお前を守るためなら、この器はどこまでも強くなれるようだからなァ」
「“御使い”──?!」
「え? 何?」
エリシュカはきょとんと目を瞬かせる。
エリシュカにはアレスに主導権を奪われた自覚がないようだ。アレスが余程上手く立ち回ったのか、一年という年月が彼女達の境界を曖昧にしてしまったのか──どちらにせよ上位の存在相手にあまりにも無防備なのは良い兆候とは言い難いのではないか。
ロイは胸に過った微かな不安をエリシュカには悟られぬよう、そっと手を離す。
名残惜しむようにエリシュカの小さく細い指が指先に吸い付いてきた。あるいは──そう錯覚するほどに離れ難いのはロイの方だったのかもしれない。




