第百八話 罪と罰※
(中絶等精神的に重い描写があります。過度な自己嫌悪、およびそれに伴う精神的苦痛の描写が含まれます。苦手な方や、心身の調子が優れない方は閲覧をお控えいただくか、ご注意してお読みください。)
医務室には葬儀を営んでいるかの様な陰鬱な空気が漂っていた。この空気の中に余人が立ち入れないよう、扉にはしっかりと鍵が掛けられている。
机の上に置かれたフィリカのカルテにはあらゆる検査の結果が記載されており、医師でなければ読み取ることさえ出来ない数字で埋め尽くされている。
キィは一つひとつ丁寧に解説する優しさを見せたが、フィリカの耳には殆ど理解出来る所など無かった。否──脳が、理性が、我が身に起きた異変を受け止められず、じりじりと痺れているようだった。
フィリカは死んだような目で小さな文字列を追う。少なくはない数の数字が書き殴った様な丸で囲まれており、更に輪をかけてキィが深刻そうに何重もの線を引く。そこには"兆候あり"という絶望的な言葉が礼儀正しく居座っている。
ロイが──そして、キィが恐れていた通り、フィリカの腹に宿った胎児は吸血鬼化していたのだ。
「わ……私の赤ちゃんが……な、何で?」
フィリカは恐る恐る下腹に手を添える。それらしい膨らみもなければ、胎動が感じられるわけでもない。にも関わらず、キィはフィリカが化け物を孕んでいると言う。
宿したフィリカですら実感が無いのに。朝の我が子と何が違う。どこが違う。どうして──
「あぁ……うああぁぁぁ……っ」
フィリカは罪を懺悔するように両手を組み、首を差し出すように項垂れる。
「赦して……この子だけは赦して……私は今此処で神の雷に打たれてもいいから……」
フィリカの胎児は中絶の適用となったものの、最早そこに安堵はない。人としてすら未熟な身体に杭が打たれるのは余りにも哀れだ。名すら与えられず、化け物として葬られ、天の国にすら拒まれるのは──もっと哀れだ。
「この子は何も悪くない……悪いのは全部私なのよ……キィさん……お願い……助けて……この子……助けて……いや……」
フィリカは椅子から滑り落ちるように床に跪き、キィの足元に縋る。キィはその背中をそっと撫で、瞑目しながらゆるゆると首を振った。
「助ける、ね。何を以て助けたと呼ぶべきか計りかねるところではあるが。……しかし、医師として言わせてもらう。胎児が吸血鬼になってしまった以上、これ以上の妊娠継続は推奨しかねる。出産なんて以ての外だ」
キィの目には既に同情の色はない。あるのは確実にフィリカの胎児を処置するという意志と使命感だけだ。
「でも──」
「その子が邪鬼だったらどうする? 例え比較的無害な戦鬼だったとしてもだ、君は我が子に修羅の道を歩かせたいのかい?」
フィリカは泣きながら喘いだ。産むか堕ろすか──それすらも未だに惑う自分に、将来のことなど考えさせないで欲しい。何も考えたくない。いやだ。もう──無理だ。
気付けば、フィリカは病的なまでに頭を振り乱していた。曲がりなりにも母となったというのに、熟すどころか頑是ない子どもに戻ってしまった様な気がする。
「……今なら、薬品で中絶することが出来る。それだけは伝えておくよ」
フィリカはついに床に額を押し付け、自分の身体を抱きしめて泣き叫んだ。零れ落ちた涙は振り注ぐ雨のように乾いた床に染み込んでいく。
やがて、一頻り泣き喚いた後フィリカは顔を上げた。額も瞼も頬も腫れたように赤くなっている。視界は光が滲んで輪郭がぼやける。まるで世界から爪弾きにされたかの様だった。
「…………堕ろします」
長い瞬きと共に宣言すると、視界を覆っていた涙滴が零れ落ち、フィリカの眼前には残酷な世界が戻ってきた。
キィは静かに跪き、フィリカの手を取って立ち上がらせる。だが、フィリカはその手を振り払い、その胸の中に飛び込んだ。
「全部、全部私のせいなの。私が悪いの……だからこんな罰が下ったんだわ」
「そんな風に自分を追い詰める必要は──」
キィの慰めを遮り、フィリカは口を開いた。
「私、知ってたの。イリーナはペトリュスのことを憎からず想ってるって」
大衆食堂に行こうと言い出すのはいつだってイリーナだった。フィリカはしつこく誘われて、仕方なく着いて来ていただけだ。
応援してやろうという気はフィリカには更々無かった。あの騒がしい女が寡黙に働く男の様子をただ眺めるだけで満足だと言い、胸を詰まらせている様子が余りにも滑稽で、フィリカはイリーナを心底馬鹿にしていた。結婚を夢見るくせに擦れておらず、男に媚びることも出来ない愚かな女だと。
「でも、ある日……ペトリュスが私を呼び止めたの。……告白されたわ。イリーナと楽しそうに笑う私に一目惚れしたんですって」
ペトリュスは無口で、フィリカはその日初めてペトリュスの声を聞いたくらいだ。想われていたなど露ほども気付いていなかった。
普段のフィリカならばその告白を受けたりはしなかっただろう。しかし、フィリカは頷いた。
「告白を受け入れたのは……やっとイリーナに勝てると思ったからよ」
フィリカは陶然と笑った。今でも人生で初めて味わった勝利の美酒の味は忘れられない。
戦闘力も討伐数も、イリーナは同期の女達の中では頭一つ抜きん出ていた。明るく人懐っこいせいで男女問わず人望もある。
そのせいで、フィリカは長くイリーナの陰に甘んじていた。引きずり落とそうにもイリーナの隣では常に妹のソフィアが目を光らせていたので、それも上手くはいかなかった。
「だから、あの子が一番欲しいものを利用して幸せになろうとしたの……」
だからこそ、フィリカはペトリュスとの結婚も了承した。彼との付き合いが存外悪くなかった、というのも決め手だった。そして、白いドレスに身を包んだ時、勝てたと確信した。
だが、彼に抱かれ子を宿したと分かった時、“それ”は一気に押し寄せてきたのだ。
「でも……ペトリュスとの子どもを産むのが怖くなった。産んで終わりじゃない……私はあの人との子どもを育てるために、二十年近い時間を犠牲にしなきゃならないんだ……って」
フィリカは、余りにも手前勝手だった。イリーナの人生を壊し、ペトリュスの人生を玩弄しておきながら、自分の人生が潰えることだけは、どうしても我慢ならなかった。だからこそ、短絡的に堕ろすなどと言えたのだろう。
その結果──フィリカは化け物の母となった。罪の重さを考えれば当然の帰結なのかも知れない。
「イリーナにもペトリュスにも……この子にも本当に申し訳ないことをした……どう償えばいいの……私、私……っ、もう、生きていけな──」
ねぇ、と医務室の扉の向こう側で騒がしい女の声がする。廊下に誰か立っているらしい。
フィリカは慌てて口を塞ぎ、女が通り過ぎるのを待った。だが──
「ちょっと、ソフィア……何か……フィリカ泣いてない?! ねぇ! 大丈夫?! ロイやキィに変なことされてない?!」
イリーナが扉を叩くと、みしりと枠や鍵が軋む様な音が聞こえた。
キィは慌てて扉に駆け寄り、鍵のつまみを捻る。顔の半分が見える程度に扉を開けて、騒音の元凶をじとりと見つめた。
「……イリーナ、頼むから静かに。ノックに力は必要ないよ。今は処置中だから──」
フィリカはキィを押し退け、扉から飛び出す。ソフィアには目もくれずイリーナに縋り付いて、ぼろぼろと止め処なく涙を溢れさせた。
「違うの。ごめんなさい……ごめんなさい、イリーナ」
「え、え? なに? なんなの?」
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……!」
イリーナは暫く呆然としていたが、フィリカの泣き腫らした顔を見た途端、溜め息と共にフィリカの背に腕を回した。
「もう……あんたにそんなに泣かれたら、怒るに怒れないじゃん。そもそも何で謝ってるのか分かんないけど」
イリーナは唇を尖らせ拗ねた様に呟く。その声音が余りにも優しく、フィリカは一際大きな一粒を目から零した。
──どうして私はこの子に勝ちたかったんだろう。最初から勝ち目なんてなかったのに。
フィリカが白旗を掲げた瞬間、あれ程フィリカの身の内でかま首をもたげていた確執がどろりと溶ける。
泥のような悪意が心から剥がれ落ちた今、フィリカの目が初めて開いた気がする。
開いた目で眼差した胎児はもう虚栄の証でも人生の足枷でも無くなっていた。未熟な母親のせいで産まれることが出来なかった哀れな子どもだ。
化け物と蔑まれる存在になってしまったことは悲しい。それでも──せめて愛しい我が子として見送ってあげたい、とフィリカは初めて思った。




