第百七話 神の加護を一身に受けし子
フィリカにとって幸いなことに、協会の奥まった所にある廊下は、人通りが絶えて水を打ったように静まり返っていた。それでも、尚、フィリカは毅然として顔を上げる事は出来なかった。
惜しみなく灯された燭台の灯りが、フィリカ自身が抱える闇さえも暴いてしまうような気がしていた。
──嫌だわ。
古巣を歩くというのはこんなにも苦痛を伴うものだっただろうか。
それに、とフィリカは苦い思いで腕を抱くロイの手をそっと見る。
傍目から見ればロイは連れ添う女を守っているように見えるだろう。だが、この手は違った。優しさなどは微塵も伝わらず、寧ろ頭の中には捕食という不穏な言葉がちらついている。
医務室とは別の場所に連れ込まれ、襲われても不思議ではない。何故なら、ロイは忌まわしき吸血鬼で、男なのだから。
イリーナよりもフィリカを優遇した様に見せかけて、新人から引き離したのも、やはり──そういうことなのではないのか。
「あの、私やっぱり──」
行かない、と言葉が続くことはなかった。
ロイの赫い瞳が軽蔑を露わにフィリカを睥睨していたからだ。
「この期に及んで下衆の勘繰りとは、随分と余裕だな。余計な心配だ。黙って歩け」
フィリカの頬に朱が差す。心の内を読まれたことも、下衆と括られた恥辱も大したことではない。それよりも、女としての自尊心を踏み躙られた事のほうが余程辛辣で、余りにも耐え難かった。
フィリカが悶々と屈辱に耐え忍んでいる間に、医務室の扉は彼女の前に恐ろしい形相で立ちはだかる。
狩人であった時分はあれほど暖かく迎えてくれた場所が、まるで敵の様にフィリカを拒む。そう感じてしまうのは、フィリカの中に色濃く刷かれた罪悪感のせいだろうか。
フィリカの躊躇いなど易々と飛び越え、ロイはその扉を開ける。室内には部屋の主であるキィとフィリカの知らぬ若い狩人の姿があった。
どうやら狩人は中央に置かれた丸椅子に腰掛け、治療を受けていたようだ。右手首から腕にかけて仰々しいほどに巻かれた白い包帯が痛々しい。
「ロイ? 何しに──」
「今すぐに出ていけ」
有無を言わさぬ口調でロイは新人を恫喝する。未熟な若者はその迫力に竦み上がり、悲鳴を上げながら逃げ出した。
キィが横暴を咎める間もなく、ロイは寝台仕切る帷幕を乱暴に開け放つ。中に誰もいないことを確認し、それで気が済んだのか今し方入ってきたばかりの扉へと向かう。
フィリカは狂人さながらのロイの振る舞いに終始怯えていた。だが、この奇行を目の当たりにしてもキィは涼しい顔をしている。
「……付き添ってあげないのかい?」
「そんな義理はない」
ロイはぴしゃりと言い放つと、医務室を後にする。扉の閉まる音だけは、本人の機嫌とは違い存外静かだった。
「あの……お久しぶりです」
フィリカの挨拶に、キィはうん、とだけ返した。その声は相変わらず優しく耳障りが良い。居心地の悪さが少しだけ薄まり、フィリカは口角を緩めた。
「あの、協会を離れた身でお願いするのは心苦しいですが、手当てをお願い出来ますか?」
フィリカは包帯の巻かれた右手を差し出す。応急処置を施しただけの掌には、未だじくじくと沁みるような痛みが残っている。
「いいよ、座って」
相変わらずキィの治療は手際が良かった。エリシュカの腕も悪くはないが、矢張り本職には及ぶべくもない。患部の消毒は肩先が強張るほど痛かったが、包帯を巻く早さは勿論、強さも見てくれも不快な所が一切ない。
「──痛くないかい?」
「大丈夫です。仕事にはすぐに戻れるでしょうか?」
「腱は無事のようだけど、暫くは酷使しないほうがいい。一週間は休んだ方がいいだろう」
フィリカは唇を噛む。それは想定よりも随分と長い。一週間も休むとなれば、今勤めている店にも迷惑が掛かる。
──何より……ペトリュスに負担を掛けてしまうわ。
ペトリュスはフィリカの夫である。大衆食堂の料理人を担っており、狩人時代、イリーナ達と共に客として通っていたフィリカを見初めてくれたのが縁で結婚へと至ったのだ。
ペトリュスは顔貌は整っているものの、生来の人見知りで到底接客向きではない。そんな彼にフィリカの穴埋めをさせるのは、流石に酷でしかないだろう。
「それよりも、右手の怪我以外に体調で気になることはあるかい?」
衝撃は唐突にフィリカを襲う。胸を突かれ思わず両手を握り締めた途端に、鋭い痛みが全身を貫いた。
「ど、どうして? 何でそんなことを聞くんですか?」
情けない程に声が震えたが、フィリカには最早動揺を隠す術が無い。
「ロイが怪我人に付き添う時は、大体そうなんだよ。誰も彼もが、身体に何かしらの不調を抱えている。僕も面と向かって問い質したことはないが……」
キィは机の腕に広げた衛生用品の数々を片付けた後、フィリカの向かいにゆっくりと座った。
「彼は吸血鬼だ。恐らく、血の匂いから本人も気付いていない不調や異変を感じ取ることが出来るんじゃないかな」
それを聞いて、フィリカは思わず左手で腹に触れる。直後、顔を真っ青に染めた。これでは思う所があると告白したも同然だ。
フィリカの反応が余りにも分かりやすかったせいだろう。キィは少し困ったように笑った。
「わかるよ。体調なんて個人的なこと、他人……まして吸血鬼に暴かれるなんてたまったものじゃないだろう。だから、君が知りたくない、聞きたくないと言うのならこのまま帰ってもらっても構わない」
ただ、とキィは無精髭を撫でる。
「僕はあのロイの心配そうな顔を初めて見たからさ。出来れば杞憂であって欲しいし、そうじゃなければ手遅れにならない内に診察させてもらいたい。……もう一度聞くよ。フィリカ、体調はどうなのかな?」
フィリカは怪訝に眉を顰めた。医務室に連れて来てくれたことは感謝しなくもないが、ロイは終始無愛想で言葉には優しさの欠片もなかった。あれはどう見ても不調を抱えた人間を心配している者の態度ではない。
だが、フィリカの頭の中には冷静な声もある。果たして、一時の悪感情に任せて診察の機会を逸してもよいものか。
それに、もしかしたら、キィならば秘密裏に全てを闇に葬ってくれるかも知れない。フィリカの裏切りも、遂に愛することの出来なかった命も、引き裂かれそうな罪悪感でさえ全て無かった事に出来るなら──
フィリカは服の裾をぎゅっと掴むと、覚悟を決めたようにキィを見据えた。
「その……私……今、に、妊娠していて……」
キィはうん、と相槌を打ったが、おめでとうとは言わなかった。恐らく、キィが言祝ぎを憚る程に、フィリカの顔色は酷いものだったのだろう。
──ううん、酷いのはきっと私自身だわ。
フィリカの眦を熱い雫が伝う。自分にその資格はないと知りながら、はらはらと静かに落涙した。
「でも、堕ろしたいんです。出来ることなら、誰にも知られずに」
キィは何故とも早まるなとも言わなかった。ただ、理性的な碧眼に哀しみを静かに混ぜ込む。
「たまにそういう訳ありの人を処置することもあるから、僕でも力になれると思う。ただ──此処はあくまで病院じゃなく吸血鬼狩りの協会だ。此処での中絶が許されるのは、あくまでも胎児の吸血鬼化を確認出来た場合に限る、という鉄の掟があるんだ」
「そんな……!」
キィの答えはフィリカを失望させるのに十分であった。肩を落とし、汚れた靴の爪先を呆然と見つめるしかない。
腹の中の子どもは正真正銘夫ペトリュスとの間に出来た子であり、私生児などではない。神の加護を受けながら生まれるに足る子だった。
「ただ、ロイの様子がただ事ではなかったのが気に掛かる。それに、確かロイは今、連続妊婦殺人事件の犯人を追っていたはずだが……まさか……」
フィリカは逡巡した末に、観念して頷く。貧民窟に堕胎を請け負う“魔女”がいると聞き、訪ねる途中で案内人の男に殺されかけたことを告白した。その瞬間、何故かキィはさっと顔色を変えた。
「あの……それがどうかしましたか?」
キィはフィリカの質問には答えず、机の上に置いた聴診器を握り締める。
「すまないが、状況が変わったかもしれない。君の身体の安全の為にも一度診察をさせて欲しい。……杞憂であってくれればいいんだけど」
毅然と言うキィの顔は優しい男のそれではなく、冷徹な医師の顔になっていた。




