第百六話 喜劇にもならぬ群像劇
貧民窟での悪夢から半刻が経過していた。
エリシュカはフィリカと共に辻馬車に乗り込み、急ぎ吸血鬼狩りの協会へと向かっていた。
夫エドワードの訃報に動揺したガブリエラを官憲達が宥めている間にフィリカが意識を取り戻し、協会での治療を望んだのも大きい。
更にエリシュカは未亡人の慟哭で消耗した官憲達に『聴取の際は官憲の同席を取り計らう』という条件を持ち掛け、見事彼らを出し抜いたのだ。
「あの……フィリカさん? 右手の痛みは大丈夫ですか? 応急処置はしましたけど……」
エリシュカは気を遣って声を掛けるが、フィリカが明確な反応を示すことは一度としてなかった。痛いほどの沈黙を、車輪の回る音が掻き消してくれたことはエリシュカにとって僥倖であった。
──ロイと同席してもここまで苦痛じゃないわ。
ロイは決して饒舌ではないが、エリシュカを無視するほど薄情ではない。だが、今のフィリカは心を閉ざして簡単な意思表示すら放棄している。配慮しようにも、その気遣いをフィリカ自身が拒んでいるのだ。
二人分の沈黙を引き連れて馬車は疾駆する。馬の嘶きが不穏な夜に木霊した。
■□■
エリシュカ達の乗る客車の窓から規則正しく並ぶ灯火が見え始めた。例え人通りが絶えていたとしても、見慣れた建物の並びに迎えられるとエリシュカはほっと安堵する。
深く傷付き悄然としていたフィリカでさえ、灯火に照らされて瞳に柔らかな光が宿った。
やがて、辻馬車は吸血鬼狩りの協会の前でゆっくりと止まった。
エリシュカは客車の扉を開けた馭者にかなり多めに運賃を支払い、怪我人が馬車を降りるのを支えてくれるように頼む。これには夜間走行の危険手当も含まれていた。
馭者は笑みを浮かべてこれを了承し、踏み段を支えてフィリカの手を取る。馭者はまるでフィリカが貴族の令嬢であるかのように恭しく頭まで下げる。その挙動はまるで洗練されておらず、本物を知るエリシュカから見れば噴飯物であったが。
「それじゃ、行きましょう」
エリシュカはフィリカを伴い協会の入り口を潜る。その瞬間、エリシュカの視界が鋭く白んだ。
闇に慣れた瞳は光の洪水に耐えきれなかったようだ。恐る恐る目を開けると、既に夜も更けて久しいにも関わらず、協会内部は昼下がりのように明るい。
「……あ、あれ、エリシュカ? 相棒はどうしたの?」
声をかけてきたのはイリーナである。その隣にはソフィアの姿もあった。
彼女達も任務帰りだったらしく、戎衣は汚れ、あちこち裂かれていた。特にイリーナは腹に血止めの包帯が巻かれていた。未だに止血に至っていないらしく、赤斑の染みは今も少しずつ広がり続けている。そのせいで、周囲には血の臭いが一段と濃い。
「……フィ、フィリカ?! ちょっと、あんた……どうしたの、その怪我?!」
イリーナはエリシュカに寄り添う人物がフィリカだと気付いて声を上げた。
フィリカはその問いには答えず、イリーナから視線を逸らして黙りこくった。
エリシュカはさりげなくフィリカを背後に庇う。いくら親しい間柄とはいえ、イリーナにフィリカが連続妊婦殺人事件の被害者になるところだったと馬鹿正直に告げるわけにはいかない。
「彼女……大怪我をしていたから、協会に来てもらったの。医務室に連れて行かないといけないから、詳しい話は──」
でしたら、とソフィアの声は場の空気にそぐわず、楚々として淀みがない。
「私たちもご一緒していいですか? ご覧の通り、姉さんも医務室行きですから」
「あ……」
その瞬間、フィリカの怯えたような目がエリシュカを縋るように見る。
それを見てエリシュカは確信する。やはり、双子の同道はフィリカの精神に良い影響を齎さない。だが、ソフィアの善意の手は今にもフィリカの肩に触れようとしていた。
しかし、彼女たちをかわす上手い言い訳がこういう時に限って何も浮かんでこないのだ。
「待て! 駄目だ!」
割って入った鋭い声に、ソフィアのみならず、フィリカとエリシュカでさえびくりと震えた。
エリシュカが振り返ると、血相を変えたロイが、フィリカとソフィアの間に身体を滑り込ませた所だった。ロイは如才なくフィリカの腕に手を回し、傍に引き寄せる。
エリシュカはその光景にぎょっとした。
ロイには怪我はないのか、逃走した犯人らしき人物はどうなったのか、吸血鬼は討伐出来たのか──聞かなければならないことは山程あるというのに、胸の中で小さな嵐が吹き荒れ、言葉が出てこない。
何より、人に追い立てられた狼のようなロイの形相が、エリシュカの追求の手を緩ませてしまった。
「手当てはフィリカが最優先だ。エリシュカ、イリーナの血止めはお前がやれ」
「え? で、でも……」
イリーナとソフィアは困惑を露わにする。既に応急処置を施されたフィリカと腹から血を流すイリーナでは、より重傷のイリーナが先に治療を受けてしかるべきである。
「ロイさん、どういう了見です? 姉さんの怪我は決して軽くありません。キィさんの適切な処置がなければ、治るものも治りませんよ」
だが、ソフィアの苦言に対してロイは余りにも冷淡であった。
「医療に繋ぐ必要が無いとは言っていない。これは優先順位の問題だ。お前たちは後だ」
ロイはそれだけ言ってフィリカをエントランスの奥へと誘う。フィリカは抗わずにロイに付き従った。
「何で?! 何でなのよ?!」
イリーナの悲痛な叫びがエントランスを震わせる。叫んだ拍子に白い布に染み込む赤が一層濃くなった気がする。
「いつだって皆に平等に冷たくて、誰にも興味ないって顔して、他人を遠ざける。確かに、エリスが来て少し変わったけど……それがロイ──あんたの本質でしょ!?」
フィリカがちらりとイリーナを伺うように振り返ったが、ロイの歩みは止まらない。
「姉さん、落ち着いて」
「イリーナ……イリーナ、お願いよ、あまり叫ばないで。怪我に障るわ」
エリシュカは傷には触れないよう注意しながら、イリーナを抱きしめて押し留めた。
イリーナは歯噛みして悔しさを露わにする。一年余りの短い付き合いとは言えエリシュカが初めて見る顔であった。
「……どうして……よりによってフィリカばかり選ばれるのよ」
「え?」
エリシュカはイリーナの意味深な言葉の真意を問おうとしたが、ソフィアが首を振って押し留めるのでそれは叶わなかった。
「とにかく、今はイリーナの止血をしないと。空き部屋の利用許可をもらってくるから、少し待っててもらえる?」
エリシュカは宥めるようにイリーナの背中を撫でるが、イリーナの腕力はエリシュカでは到底振り払えないほど強い。
それ以上に、イリーナは親に見放されそうになった子どものように泣きじゃくっているのが、余りにも気の毒で胸に迫った。エリシュカには到底冷たく突き放すことは出来になかった。
「その必要はないよ。申請書は俺達が代わりに提出しておいたから」
ロイ達と入れ違いにやってきたのはフローリアンとアイザックである。去っていく二人を横目で冷たく見送り、エリシュカ達に早足で近づいて行く。
「アイツ、何様? エリシュカさんの騎士からフィリカの王子様に鞍替えした? 流石に最低過ぎない?」
「……確かにあの男が世話を焼いてやるほどの怪我だとは思わなかったが。相手は既に狩人ではなく一般人だ。それなりの配慮は必要だろう」
「アイザック、君は誰の味方なんだ?」
「強いて言えばお前だ、フローリアン。だが、それとは別に苦言は言わせてもらう」
フローリアンとアイザックの小競り合いはものの数秒で終わった。エリシュカの目には二人の間には火花が散ったように見えたが、次の瞬間にはフローリアンは甘い茶金色の瞳をイリーナに向けていた。
「俺が手当てしてあげたいけど、流石にエリシュカさん達に任せるよ。包帯やガーゼは足りてる? 足りないのなら俺とアイザックのを分けてあげるから」
「助かります。行こう、姉さん」
「イリーナ、ゆっくりでいいからね」
エリシュカとソフィアに促され、うん、とイリーナは頷く。歩みが遅いのは傷のせいだけではないのかもしれなかった。
エリシュカはこっそりとイリーナの表情を覗き見る。彼女の顔は先程よりも強い嫉妬と憤懣で強く彩られており、赤い頬を熱い雫が静かに伝う。
エリシュカから見てフローリアンの優しさは本物だ。傷付いたイリーナのために慣れぬ糾弾を行い、不便が無いようにと心を砕くのは、青くも尊い親愛故だろう。
だが、肝心のイリーナがそれを特別な優しさではなく同情としか受け取れない。フィリカに対する敵愾心と、劣等感に押し潰されているように見える。
──一体、イリーナとフィリカさんの間に何があったの?
だが、エリシュカは事情を問い質そうとは思わなかった。最もイリーナに近く、全ての事情を知り得るソフィアは頑なに口を閉ざしている。
それを、無理やり暴いて良いものか──それによってイリーナを更に深く傷付けはしないか。
エリシュカにとって、動かない理由はそれで十分であった。




