プロローグ
「帰る場所があるって、とってもありがたいことなんだね」
マンションに戻ってきてドアを開けると、エリーがそう言った。
俺の部屋を飛び出して、二度と戻れないと思っていたのだろう。エリーの顔はどこまでも安らかだ。
俺は微笑み、エリーに手を差し出す。
「これからもここが――いや、俺が、エリーの帰る場所になるからな」
「……うん」
サファイアの瞳を涙で潤ませて、エリーが俺の手を取った。
「おかえり、エリー」
「ただいま、養一」
帰ってきた俺たちはキッチンに向かい、冷たくなった肉じゃがを温め直す。
「肉じゃが、作ってくれたんだな」
「うん。養一、肉じゃが好きだから」
はにかみ笑顔でエリーが続けた。
「清香先生に会える今日は、養一にとって特別な日になるだろうから、もっと幸せな日になるようにと思って作ったの」
「けど」とエリーが笑顔を曇らせ、シュンと肩を落とす。
「わたしが台無しにしちゃった……ごめんなさい」
「いいよ。ちゃんと特別な日になったから」
穏やかに言うと、エリーが「ふぇ?」と顔を上げた。
「エリーが不安を吐き出してくれて、より心の距離が縮まった気がするんだ。だから、俺にとって今日は特別な日だよ」
慈しみを込めてエリーの頭を撫でる。
「あぅ……ありがとう、養一」
エリーの頬は、なぜか赤く染まっていた。
温めた肉じゃがを皿に盛り、俺たちはリビングダイニングで遅めの夕食をとる。
箸でつまんだジャガイモは、つゆが染みて柴犬色になっていた。見ているだけでヨダレが出てくる。
「いただききます」
「ど、どうぞ」
ジャガイモを口にする俺を、エリーが緊張した顔つきで見ている。
ジャガイモを一噛みすると、口のなかでほろっと崩れた。ジャガイモは具材のうま味を全部吸っていて、ホコホコしっとりで極上の味わいだ。
これが米に合わないはずがない。俺は白飯をかき込み、ジャガイモとのマリアージュを楽しむ。
「どう、かな?」
「うまい」
「ほ、本当!?」
「ああ。よくできてるよ」
俺がニカッと歯を見せると、エリーはパアッと顔を輝かせた。
俺が作ったものと遜色ない出来だ。一回習っただけでこれだけ上手に作れるのだから、感心するほかにない。
「よかったぁ」と胸を撫で下ろすエリーもジャガイモを一口。ホフホフと頬張って、「んー♪」と頬に手を当てる。
可愛い。愛おしい。癒やされる。この光景をいつまでも眺めていたい。
しみじみと思いながら、俺は口を開いた。
「ひとり暮らししていた頃はさ? 不満はなかったけど、やっぱりちょっとさみしかったんだよ」
誰とも会話することなく黙々と食事をとる時間は、どこか無機質だった。
煩わしさこそないけれど、ひとりの時間は味気なくて、ふとした拍子にむなしさを感じたのものだ。
「だから、エリーがいてくれて嬉しいんだ。エリーと一緒にいる時間は、俺にとって安らぎなんだよ」
エリーが目を丸くして、ふわりと笑顔を咲かせる。
「わたしも、養一といる時間が一番幸せ!」
俺とエリーは互いに笑い合う。
ピピピピピポーン!
俺たちが穏やかな時間を過ごしていると、インターホンが忙しなく連打された。
この鳴らし方は――
「悠莉か」
「――――っ!」
俺が呟くと、エリーは肩を跳ねさせた。
自分が行方を眩ませたことで、悠莉に迷惑をかけたとエリーは考えている。咎められるのではないかと怯えているのだろう。
苦笑しつつ、俺はエリーを宥める。
「大丈夫だ。悠莉は許してくれるよ」
「う、うん」
怖ず怖ずとエリーが頷き、俺は悠莉を出迎えるため席を立つ。
俺が玄関へ向かうより早く、ガチャリと音がして、ドタドタと足音が聞こえ、悠莉がリビングダイニングに飛び込んできた。
こいつ、ちょっとは待てんのか。
げんなりする俺に、肩で息をする悠莉が詰め寄ってくる。
「エリーちゃんは無事ですか!?」
「ああ。大丈夫だから落ち着け。それより悠莉、お前、靴を履いたままなんだが?」
「そんなこと気にする余裕なかったですよ!」
「気にしろよ! 気持ちはわかるけどさ!」
俺たちがギャイギャイ言い争っていると、エリーがキュッと胸元を握りながら、悠莉に歩み寄った。
「ゆ、悠莉……迷惑かけて、ごめんなさい」
カタカタ震えながら、エリーが頭を下げる。
悠莉は唇を引き結び、勢いよくエリーを抱きしめた。
「心配したんだから! エリーちゃんが事件に巻き込まれてるんじゃないかとか、もう会えないんじゃないかとか、心配で心配で仕方なかったんだから!」
エリーが息をのむなか、悠莉が抱きしめる腕に力を込める。
「いい、エリーちゃん? エリーちゃんはここにいてもいいの。エリーちゃんがいてくれるだけで、あたしたちは温かい気持ちになれるんだから」
エリーが「すんっ」と鼻を鳴らす。エリーも悠莉も涙ぐんでいた。
「ごめんなさい……もう勝手にいなくならないから……ちゃんとお返しできるように頑張るから……っ」
「ゆっくりでいいからね。頑張ってくれるだけで、あたしたちは嬉しいんだからね。戻ってきてくれてありがとう、エリーちゃん」
まるで姉妹みたいなふたりを眺め、俺もまた涙ぐむ。
そんな俺に、悠莉のあとからリビングダイニングに入ってきた清香先生が、微笑みかけた。
「一件落着ですね」
「ええ。お手数かけてすみませんでした」
「お気になさらず。養一くんはご存じでしょう? 困っている子どもを助けるのが教師の務めなのですよ」
清香先生がなんでもないように言い切る。
やっぱり、俺にとって清香先生は憧れだ。
俺と清香先生は、泣きじゃくる悠莉とエリーを見守り続けた。
○ ○ ○
しばらく談笑してから、悠莉と清香先生は帰っていった。
俺とエリーはそれぞれ入浴し、パジャマに着替えて眠りにつこうとしていた。
ちなみにエリーは、シャワーやシャンプーの使い方などを一通り悠莉から学び、ひとりで入浴できるようになっている。
部屋の電気を消し、ベッドの隣に敷いた布団に横になろうとしたところ、エリーがパジャマをつまんできた。
暗がりのなかに、眉を『八』の字にしたエリーが映る。
「どうした、エリー?」
「養一に添い寝してほしいの……ダメかな?」
不安そうに見上げながら、エリーが尋ねてくる。
俺と離ればなれになりかけた恐怖が残っているのだろう。エリーが添い寝してほしがっているのは、おそらく、俺の側にいると実感したいからだ。
流石にこんな顔をするエリーを放っておけない。俺は苦笑した。
「前にも言ったけど――」
「悠莉には内緒?」
「よろしい」
クスリと笑みを漏らし、俺はエリーと横になる。
掛け布団をかぶると、すぐさまエリーは身を寄せてきた。
ジッと見つめてくるエリーの背中を、俺は優しくポンポンする。程なくして、エリーの目はとろんとなり、まぶたが伏せられていった。
「……養一?」
「なんだ、エリー?」
「養一は、ずっと一緒にいてくれる?」
「ああ。俺はエリーの側にいるよ」
エリーの口元が柔らかな笑みを描き、まぶたが伏せられる。
穏やかな寝息が聞こえはじめ、俺もまたまぶたを伏せた。
「おやすみ、エリー。また明日な」
○ ○ ○
鳥のさえずりと太陽の眩しさが、覚醒を促す。
目を覚まし、ベッドサイドの時計を見ると、時刻は八時を過ぎていた。いつもより少し遅い時間だ。昨日、エリーを探して街中を走り回ったため、疲れていたのだろう。
あくびをかみ殺していると、胸元に温もりを感じた。
エリーが俺の胸に頬をすり寄せている。愛らしい仕草と天使の寝顔に、朝からほっこりした気持ちになり、俺はエリーのゴールデンブロンドを優しく撫でた。
安らかな寝顔を眺めながら、ふと気づく。
そういえば、昨晩はエリーが跳ね起きることがなかったな。
俺に引き取られた日から、エリーは毎晩、異端審問官に襲われる悪夢を見て、夜中に飛び起きて暴れ回っていた。
だが、今回はそれがなかった。トラウマから解放されたのだろうか?
「……ん」
考えていると、エリーがもぞりと身じろぎする。
まぶたがゆっくりと開けられ、宝石みたいな碧眼が姿を見せた。
「悪い、起こしちゃったか?」
気まずくて謝ると、「気にしなくていいよ」と言うように、エリーは首をユルユルと横に振って、ポワンとのどかな笑みを浮かべる。
可愛すぎて尊死しそうだ。
「おはよう、養一」
「おはよう、エリー。昨日は悪夢を見なかったみたいだな」
「んぅ?」
エリーがコテンと首を傾げる。
パチパチと瞬きをしてから、寝ぼけ眼が徐々に見開かれていった。エリーの頬が、ポッと赤らむ。
「そ、そうだね、悪夢は見なかったよ」
「悪夢『は』ってことは、違う夢を見たのか?」
エリーが小さく頷いた。
「どんな夢だったんだ?」
尋ねると、エリーはチラチラと俺の顔を見ながら口にする。
「……幸せな夢。いつか、こうなったらいいなって思う夢」




