中世から来た魔女は、決意する。――2
午後から漢字の勉強をはじめ――夜になった。
「そろそろ慣れると思っていたんだが、いまだにエリーの学習力には舌を巻くばかりだな……小学校低学年向けの漢字は、もう完璧なんじゃないか?」
エリーが解き終えた漢字ドリルを見ながら、俺は戦慄する。
最初は正解率三割程度だったが、いまは満点だ。エリーは学んだ内容を、スポンジの如く吸収していた。
「養一の教え方が上手いんだよ」
悠莉が持ってきてくれたピンクのパジャマを着たエリーが、はにかみ笑顔でとてつもなく殊勝なことを言う。
天才なうえに謙虚とか人格者すぎるだろ! 人類がみんなエリーみたいな性格だったら、世界平和が実現されるんじゃないか?
エリーが決意してから、俺たちはひたすら漢字の勉強に取り組んだ。
途中、訪ねてきた悠莉と夕食をとったのだが、その頃には小一の漢字をマスターしていたので、俺は三〇分ほどノンストップでエリーの自慢をした。
なぜか悠莉は面倒くさくて堪らないと言いたげな顔をしていた。
悠莉にエリーを入浴させてもらってから俺たちは勉強を再開し、いまに至る。
大分熱中していたが、何時になっただろう?
凝り固まった体をストレッチでほぐしながら、棚の上に置かれた時計に目をやり――俺はギョッとした。
「もう零時過ぎてる!?」
置き時計の短針はてっぺんを越え、日付が変わったことを示している。
これはいけない。子どもの成長において、夜更かしは厳禁だ。早くエリーを寝かさなかればならない。
「今日も頑張ったな、エリー! そろそろ寝るか!」
慌てて言うと、「うん!」とエリーは素直に返事した。
エリーに歯磨きをさせて(昨日レクチャーした)、俺たちは俺の自室に移動する。
「それじゃあ、お休み、エリー」
ベッドで横になったエリーの頭をポンポンすると、エリーはキョトンとした。
「養一は眠らないの?」
「俺にはやらなきゃいけないことがあるからな。もう少し起きてるよ」
微笑みかけると、エリーは心配そうな目をする。
「大丈夫? 無理してない?」
「全然大丈夫だぞ? 元気いっぱいだ」
俺はニカッと歯を見せながら、エリーの髪を優しくすいた。
「お休み、エリー」
「……うん。お休み」
眉を気遣わしげに下げていたが、エリーは頭を縦に揺らす。
俺は自室をあとにして、ドアを閉め――深く溜息をついた。
「流石に疲れてるな」
目がしょぼしょぼして、体が重く、頭がぼんやりしている。
それでも俺は、教師としての仕事をこなすため、仕事部屋に向かった。
○ ○ ○
仕事部屋は七畳の洋間だ。
片方の壁際に四台の本棚が並び、参考書や教育書、教師の仕事術に関する本が敷き詰められている。
向かい側の壁際には、仕事で使うプリントやファイルなどが大量に収められた、収納棚があった。
俺はデスクチェアに腰掛け、テーブルに積んだ参考書をめくりながら、デスクトップ型パソコンのキーボードを叩く。
ふー、と一息つき、デスクチェアの背もたれに体を預ける。背伸びをすると、関節がパキパキと鳴った。
「まだ一割も終わってないのか……」
進行状況を確認して嘆息する。
俺が行っているのは、ゴールデンウィーク明けにある実力テストの、問題作成だ。
教師の仕事は授業だけじゃない。教材研究をして一年の授業計画を立てたり、生徒や保護者に配るプリントを作ったり、テストを作成するときに備え、問題集を自分で解いたりしなくてはならない。
部活動の顧問になれば、さらに忙しくなる。教師は意外と重労働なのだ。
どんどん回らなくなっていく頭にブラックコーヒーで活を入れ、俺は後頭部をガシガシと掻いた。
「エリーへの教育に時間を割いた、ツケだよなあ」
エリーの勉強に付き合っていたので、自分の仕事をする時間がなかったのだ。そのしわ寄せがきて、無理をするしかなくなった。
だが、エリーに責任転嫁するつもりは毛頭ない。エリーを育てるのも、勉強に付き合ったのも、俺が自ら望んだことなのだから。
パソコンの画面の右下に目をやると、時刻は深夜三時を回っている。
「これは徹夜だな」
覚悟を決めて、マグカップをあおり、ブラックコーヒーをおかわりするためにキッチンへ向かう。
冷蔵庫からブラックコーヒーのボトルを取り出し、キャップを開けようとした――そのとき。
『いやぁあああああああああっ!!』
自室から、フランス語の悲鳴が聞こえてきた。
「今日もか!」
舌打ちとともにブラックコーヒーのボトルを手放し、俺は急いで自室に向かう。
ドアを開けると、エリーがベッドの上で、無茶苦茶に腕を振り回していた。
悪夢に見舞われたのだ。
明るくなり、笑顔を見せるようになったが、それでもトラウマを拭いきれないのか、エリーの悪夢は一向に収まらなかった。
『来ないで!! お願い、許して!! 誰か助けて!!』
『大丈夫だ、エリー!』
ベッドに駆け寄って抱きしめ、暴れ回るエリーの背中をさする。
『俺がここにいる。だから心配するな。エリーはもう助かったんだ』
しばらく宥めていると、エリーは暴れるのをやめ、俺に体を預けてきた。
エリーの着ているパジャマは、汗でビッショリになっている。
エリーがひどく申し訳なさそうな目で、俺を見上げてきた。
「……またわたし、迷惑かけちゃった」
「いいんだ。俺は迷惑だなんて思ってないから」
消え入りそうな声で謝ってきたエリーを慰め、目尻の涙を指で拭う。
「お仕事の邪魔して、ごめんなさい」
「気にするな。エリーを放っておくほうが、俺にはつらい」
「ありがとう」と礼を言って、エリーが口元を緩める。
その顔が、不意に強張った。
「養一、隈ができてるよ!?」
俺はギクリとする。
エリーを県警に預けた翌日から、俺は寝不足に陥っていたのだ。
一日目はエリーが心配で眠れず、二日目、三日目は、夜間に暴れ出したエリーを宥めるため、起きることを余儀なくされた。
エリーにつきっきりだったため昼寝もできず、今日もこの時間まで起きている。これで寝不足にならないほうがおかしい。
それでも俺は、エリーを安心させるために微笑んだ。
「心配するな。この程度なんでもないよ」
「で、でも……」
「これでも体は丈夫なんだ。エリーが案ずることはない」
嘘をついた。
正直、かなりキツい。明るく振る舞っているが、体の重さは相当なものだ。
しかし、仕事をおろそかにはできない。エリーを育てる以上、職を失うのは絶対にNGなのだから。
「だから、エリーは安心してお休み?」
「……うん」
まだなにか言いたそうだったが、エリーは弱々しく頷いて、ベッドに横たわった。
エリーの頭を優しく撫でて、俺は部屋を出る。
襲いくる眠気を気合で押さえつけ、ブラックコーヒーを取りにキッチンに向かった。




