第8話:楽しいか?
「俺の町は魔族に滅ぼされて、今は行く当てもないんだ。仲間に入れてくれないか。故郷のみんなの仇を取りたい。」
夕日が沈みかけるこの時間は、男の涙を流しながら、強がって笑みを浮かべるには絶好のタイミングだ。これほどの演技なら、きっと心を動かせるはずだった。
「何言ってるんだ? 俺たちはもう仲間だろ?」
そう言って、あの颯爽とした姿で手を差し出してきた。後ろにいる仲間たちも笑顔でこちらを見て、俺の加入を歓迎してくれていた。
ぼんやり覚えているのは、その瞬間に「仕事が正式に始まった」という感覚だけだった。
企みが成功した喜びも、ほくそ笑む気持ちも、手のひらに残る温もりも、俺にとっては余計なものだった。
これまでのスパイ任務は、ブディン共和国の各大都市に派遣され、商人や高官、名家の人間に化けて情報を集めるものばかりだった。勇者のそばに潜り込むのは今回が初めてだ。目的はまったく分からないが、もし正体がバレれば確実に死ぬ。そしてその危険な任務の裏には、とてつもなく高額な報酬と福利厚生が用意されていた。
スパイ課は俺を含めてわずか四人しかいない。課長でありながら金欠気味の俺が、この仕事を引き受けるのは当然の流れだった。会社の業務は残りの三人に任せて出発した。出発の日、俺は机の上にあるサボサボテンに水をやっておいてくれと頼んだ。あいつら、ちゃんと覚えているだろうか。
「シロ、ハンク、起きろ! これ以上ぐずぐずしてたら宿代を追加で取られるぞ。」
リュウタン村に滞在していたとき、トロル討伐の成功を祝って、村では三日間も宴会が開かれていた。前日の夜、酒樽を抱えて騒いでいたハンクがシロに飲ませ続けた結果、翌日の昼になっても二人とも完全に伸びていて、こちらは頭を抱える羽目になった。
「いっそ頭に矢でも撃ち込めば起きるんじゃないか。」
ジェシーが肩をすくめ、本当に長弓を取り出して構え始める。
「ま、待ってよ! そんなに急いで出発するわけでもないんだし、もう少し寝かせてあげてもいいんじゃない?」
メイスは杖を抱えたまま慌てて止めに入り、シロの隣にしゃがみこんで額をそっと撫でた。照れたように小さく笑う。
片思いの少女と鈍感な少年。社会人になって何年も経ったのに、こんな青春みたいな光景を見るとは思わなかった。少しだけ、あの単純さがうらやましくなる。
勇者シロの弱点その一、酒に弱い。
魔法使いメイスの弱点その一、シロに恋心を抱いている。
弱点報告書を思い出してみても、会社にとって役立つ内容はほとんどない。しかもそんな中身の薄い情報でさえ、数えきれない日々の中から無理やり絞り出したものだ。
長く続けていれば、いつかは役に立つ情報も持ち帰れるだろう。
そんな気持ちで、勇者たちとの旅はさらにしばらく続いた。
ジェシーが狩猟大会に出場したり、ハンクが偶然ドワーフ一族の家宝の大盾を拾ったり、メイスが勘違いして、シロの故郷の風習を愛の告白だと思い込んだり――本当にいろんなことがあった。
ただし、そのほとんどで後始末をしていたのは俺だ。スパイというより、職業ベビーシッターみたいなものだった。
少しでも油断すれば、その境界線は連中の笑い声であっさり曖昧になる。
それでも踏みとどまれていたのは、会社への忠誠心と、分厚い年末ボーナスのおかげだ。
会社に入ったばかりの頃の俺は、こんなにも意味のない任務を任されるなんて想像もしていなかっただろう。
あの頃の若い自分が、勇者のそばに潜伏する仕事がこんなにも空虚だと知ったら、どんな顔で上司に抗議しただろうか。
湖の水面に映る自分の目の中に、あの頃の勢いを見たのがいつだったのか、もう思い出せない。
ただ一つ分かっているのは、スパイの給料は本当にいいということだ。だから意味があるとかないとか悩むこと自体が、いちばん意味のないことなのだ。
◎
日が経つにつれて、会社へ送る報告書もきっと少しずつ厚くなっているはずだ。
中身はシロの情報だけでなく、メイス、ジェシー、ハンクについても欠かさず書いていだが、その八割は生活習慣や食べ物の好みといった、どうでもいい内容ばかりだった。
それでもガス様に目を通してもらうと、特に何も聞かれることはない。
たまに「こんな細かいところまでよく気づいたな」と褒められるくらいだった。
「ソウル、楽しいか?」
ある日、シロがそんなことを聞いてきた。
話の流れもなく、まるで俺がどの野イチゴが好きかでも確かめるような聞き方だった。
「楽しい? 何か遊んでたか?」
俺は意味が分からず聞き返す。
「この旅のことだよ。楽しくやってるかって。」
「……ああ、楽しいよ!」
俺は考える間もなく答え、ついでに一番明るそうな笑顔まで作ってみせた。
「よかった。みんな、何かあるたびに君に世話をかけてるから、嫌になってないか心配だったんだ。」
人って若い頃は、あんなにも素直な顔ができるものなんだな。シロは果物の皮をむく手を止めたまま、そんな顔で笑っていた。
その言葉を聞いたとき、俺はいつも自分に言い聞かせている決まり文句を思い出していた。もう無理だと思ったときでも、給料日を思い浮かべればもう少し頑張れる。そして給料が入ったら、少し奮発して高級な焼き肉でも食べて自分を労うのだ。
「君は? 勇者って危険な仕事だろ。今やめても、適当な町で普通に暮らせば十分幸せに生きられるんじゃないか?」
余計な考えを振り払おうとして、つい口から出た言葉だった。言ってから、自分が馬鹿な質問をしたことに気づく。
「それはそうだな。」
シロは大きく伸びをして、みんなの寝床を整えながら続けた。
「たぶん、俺がそうしたいからだと思う。元の世界じゃ、俺はただの普通の人間だったんだ。勉強もあまりできないし、運動でも人に勝てないし、特別な才能もなかった。でも今は、思いきり力を試せるチャンスがある。だから、じっとしていられないんだ。」
照れくさそうに頭をかきながら、自分でも話に筋が通っていないと思ったのか、すぐに話題をこの前の町で会った頑固な老人のことへと変えてしまった。
俺は自分を「経験豊富な社会人」だと思っている。だから目の前の少年に、何か特別な感情を抱くべきじゃない。
彼は勇者で、魔王株式会社の敵だ。知っておくべきことは、表面の情報だけで十分だ。
そこで俺は、心の中で自分の設定を簡単に復習した。
俺は、友達の世話だけが取り柄の、何もかも平均以下の普通の村人。
故郷が魔王軍に滅ぼされたという作り話で同情を買い、勇者シロの仲間に加わり、魔王討伐の旅に出た男。
そしてその正体は、魔王株式会社・営業部情報課の課長――ソウル。
若者の理想に口出しする必要はない。黙って夕食を作り、みんなが眠ったあとでスパイ報告書を会社に送ればそれでいい。
ちなみに、シロの鼻毛が一本はみ出ているのを見つけた件は、ジェシーにツッコませればいい。
これ以上、報告書の中身を薄くするわけにもいかないからな。




