第5話:ずっとちゃんと退勤できてない
「先輩……もうダメです。頭が重いです。どうして報告書なんて書かなきゃいけないんですか……」
机に突っ伏したキムはペンを口にくわえ、焦点の合わない目で遠くを見つめている。今にも昇天しそうな顔だ。
「俺たちは勇者とおままごとをしてるわけじゃない。スパイなんだ。情報は会社に上げるのが当然だ。」
タイガの町に戻ったあと、俺とキムは宿のロビーにやって来た。退勤まではまだ少し時間がある。この空き時間に報告書の書き方を教えるにはちょうどいいと思ったのだが、まさかあれだけ元気いっぱいのキムが、書類仕事になるとこんな有様になるとは思わなかった。
「私は子供の頃から宿題が嫌いなんです。」
机を軽く叩く両手が焦りを表している。仕方なく、俺は自分の業務報告を彼女の前に差し出し、丸写しはするなと念を押したうえで参考にだけ見るようにさせた。
「甘えても無駄だ。社会人になったら、わがままを言う資格はない。」
練習用だから気負うな、今日の流れや感想を書けばいいと言ったのに、どうやらそれすら難しいらしい。まだ一文もまともに書けていない。
「あーあ、大人になんてなりたくないです。」
羊皮紙に顔をこすりつけるキム。涙目で見上げられても、ここは心を鬼にして、成長させるしかない。
やがて覚悟を決めたのか、「見ないでください」と頬をふくらませて俺に背を向けさせてから、ようやく書き始めた。まあ、初出勤だし、このくらいのわがままなら可愛いものだ。
窓の外を見ると、沈みかけた夕陽が市場を橙紅に染めている。次第に人波は散り、満ち足りた表情を浮かべた人々が家族の待つ家へと帰っていく。
表向きはスパイだが、同じ営業部所属でもある俺は多少の商売の知識もある。だから町に着くと補給品の買い出しは俺の役目だ。そのついでに、ガス様へ連絡も入れる。
シロは干し魚の出汁のスープが好きで、メイスは甘い物に目がない。ジェシーとハンクは好みが正反対で、野菜の火の通し方で毎回言い争う。結局、俺が二種類作る羽目になる。
役に立たない情報ばかりだが、ガス様は満足げに受け取り、一字一句直さずそのまま提出している。
もし追い出されていなければ――
「先輩! 書けました!」
紙を振りながら歯を見せて誇らしげに笑うキムに、退屈な空想から現実へと引き戻された。
「どれ、見せてくれ」
「ちょっと待ってください、確認します」
と言いながら内容を見直すのではなく、なぜか窓の外をじっと眺める。数十秒後、力強くうなずき、さっと座り直して報告書を差し出した。
――
**業務報告書 キム**
今日は初出勤でドキドキでした!
道中ずっと先輩の顔を想像して胸がドキドキ、ドキドキしてました!
好きすぎて会った瞬間にプロポーズしました。
そのあと先輩からネックレスをもらって、勝手に愛の証だと思ってます! とても嬉しいです!
先輩は勤務中は我慢って言ってました。先輩に迷惑をかけないよう、ちゃんと守ります!
報告書で読んだ通り、先輩は本当に優しくて真面目で。
私の見る目は正しいです。一生先輩のことが好きです!
――
走り書きのそれは報告書というより幼児の恋文だ。顔が青くなったり赤くなったり、血圧が上がるのがわかる。
「キム、勤務中は――」
「わかってます! 忍耐ですよね。でも外を見てください」
怒られる前に言い訳。
「日が沈みました。もう退勤です。好きって言っていい時間です!」
抜け道を見つけたことを誇らしげに胸を張っている。その子供のように無邪気な様子に、どうしてもきつく叱る気にはなれない。
「キム。本物のスパイに退勤はない」
「え? どうしてですか? スパイには労働保障がないんですか?」
「今、目標の隣に潜伏してたらどうする? 日没だからといって正体を明かすのか?」
今日だけでも散々言い聞かせたが、キムが本当に理解したことはほとんどないだろう。上司というのも時々本当に疲れるものだ。
「うぅ……でも一日我慢したんですよ? 一日告白しなかったら病気になります!」
また机に突っ伏し、力のない拳で机を何度も叩く。駄々をこねる子供のように、泣きそうな顔で不満をぶつけてくる。
「……まあ、今は勇者パーティーにいないし、普通の勤務形態でも問題はないが」
腕を組んでため息をつく。部下に残業を強いる鬼上司にはなりたくない。
「やったー! 先輩大好きです!」
一瞬で復活。さっきまでのぐったりは演技だったのではと疑うほどだ。
「だが目標は復帰だ。実力向上を示し、上の命令を果たす。それは忘れるな」
「了解! 全力で先輩の指示を遂行します!」
朝と同じ眩しい敬礼。正しい呼び方を何度も教えたのに相変わらず無視しているくせに、こういうところだけ妙に従順だ。
「え? 何かおかしいですか?」
「いや。久しぶりにちゃんと退勤したなと思ってな。少し気が抜けただけだ」
「私のおかげじゃないんですか? いつでも好意は受け付けますよ?」
「調子に乗るな。勤務中は顔をしかめてるだけで、不満も怒りもちゃんとある」
「負の感情だらけですね! じゃあ飲みましょう。会社の愚痴でも聞きますよ?」
「会社よりシロたちに言いたいことが山ほどある。先にお前に聞かせておくか」
その夜はイノシシ料理をつまみに酒を飲み、深夜まで語った。同じ部屋で寝ると言い出すかと思ったが、「先輩がまだ結婚を承諾してませんから、当然別々に寝ないといけません」と妙に真面目に言い、結果的に俺の手間はだいぶ省けた。
「おやすみ。明日も仕事だ」
「はい! あ、復帰計画にいい案があります!」
解散する前に、キムがどこか意味ありげにそう言った。新人にできるだけ挑戦させるのも会社の方針のひとつだ。俺は深く考えず了承し、キムには明日実行すればいいと言っておいた。
あのとき即決したのは、酒のせいだったのだろう。あの表情を見ていれば、キムがどれほどの面倒を引き起こすか予想できたはずなのに。
◎
「先輩、おはようございます! これがあれば実力向上の証明になりますよね?」
翌朝、焦げ臭さをまとい、全身煤だらけのキムが元気よく扉を叩いた。腕に抱えていたのは、俺への“大きな贈り物”らしい黒炎龍の首だった。
「バド魔鉱山にいるって聞きました。討伐対象リスト常連らしいですね。強かったですけど、私のほうが少し上でした。功績は先輩のものにしてください! 一緒に勇者隊に戻りましょう!」
勝利のポーズ付きで、龍の頭を押しつけてくる。
俺は明らかに死んでいる黒炎龍を見下ろし、全身から冷や汗を噴き出しながらその場に崩れ落ち、魂まで抜けそうになった。
「キム……黒炎龍は会社が魔鉱山に配置した守護役だ……経理部長の愛玩なんだぞ……」
視界が暗くなり、龍の頭を抱えて絶叫する。
「え? じゃあ首輪つけとくべきでしたね。完全に誤解です」
「やっぱり……スパイに退勤なんてないんだあああ!」
怒りに燃えるガス様の顔が脳裏に浮かぶ。
今年のボーナスとは、本当にお別れだ……。




