第35話:久しぶりだね
空を覆い尽くす大蜘蛛の群れが一気に押し寄せ、迷宮内の酸素が一瞬で吸い取られたかのようだった。咄嗟に動けたのはハンクだけで、凍りついた足を無理やり動かし、盾を掲げて必死に受け止めながら、巨斧を振るって横から部屋へ入り込もうとする蜘蛛をできる限り弾き返す。
「ジェシー! 子どもを守れ、近づくものは撃て! メイスは後方から俺とハンクを支援だ!」
ハンクが蜘蛛の海に呑まれかけているのを見て、我に返ったシロは即座に剣を抜き、指示が仲間の耳に届くより早く前へ出る。疾風のごとく振るわれた刃が、押し寄せる蜘蛛の群れを切り裂いた。
立て直した隊列は、ハンクが流入を遅らせ、シロが入り込んだ個体を斬り、最後にジェシーとメイスが取りこぼしを処理するという布陣で応戦する。単純で効果的な戦術は当初こそ機能したが、尽きることのない群れはやがて防線を突破し、戦況はさらに混乱した。
数で圧倒され、ついに均衡が崩れた。不意を突かれて倒れたハンクは、覆いかぶさる蜘蛛を斧で払いのけようとするが、ついに一匹に噛みつかれ、血が噴き出す。シロがすぐさま援護に入っても、出血は止まらない。
「おい! どこへ行く!」
追い打ちをかけるように、地に膝をついていた少年がジェシーの背後をすり抜け、まっすぐ蜘蛛の海へ走り出す。守りきれなかったジェシーは一瞬判断を誤り、その隙に背後から押し倒され、右腕を無数の脚に絡め取られ、そのまま噛みつかれた。
「ジェシー!」
メイスの魔力弾が正確に彼の周囲を吹き飛ばし、隙を突いて跳び退いたことで、辛うじて呑み込まれる事態は免れる。
崩れた均衡は心にも亀裂を走らせ、そこから滲み出る絶望が戦意を削っていく。激戦のさなか、飛び交う魔力弾がかろうじて長廊を照らすが、その先の底知れぬ闇にはなお無数の影が蠢き、抗いを嘲るかのように蠢いていた。
そのときシロは見た。蜘蛛の群れの中に身を置きながら、少年だけが無傷でいる姿を。なぜか、その目に溜まった涙の光がやけに鮮明に映り、張り詰めた時間が何十倍にも引き延ばされたかのように感じた。
……まさか。
根拠はない。ただ直感が、突破口を示していた。
「メイス! 今、魔力感知はできるか!」
「む、無理……! 部屋中がさっきの強い魔力で満ちてる、みんなを防ぐだけで精一杯!」
「解除してくれ! あの子の位置を特定して、一気に気絶させてくれ。ただし傷は負わせるな!」
「何だと!?」
ハンクが喉を震わせて叫ぶ。
「あいつの魔力には耐えられん! 気絶させてどうする!」
「他に手はない。」
メイスの魔力も間もなく底をつく。防御を失えば、燃え続ける火山に身を投げ出すようなものだ。彼女は決断し、杖を振って周囲を一掃して時間を稼ぐと、照明も防壁もすべて解き放ち、意識のすべてを感知に集中させた。
解除の瞬間、仲間たちは再び極度の圧迫と闇の中へ叩き込まれる。最初に膝をついたのはハンクだった。息が詰まり、抵抗もままならぬまま蜘蛛に覆われる。
シロとジェシーも同様に追い詰められ、力の乗らない剣に蜘蛛が絡みつき、胸や腰に噛みつく。叫び声が響く。
「見つけた!」
足首に牙が食い込む痛みに耐えながら、メイスは隠れた少年を捉える。極小の魔力弾を放ち、重なる群れを貫いて後頭部を正確に撃ち抜いた。
少年は力を失って崩れ落ちる。強大だった魔力も同時に霧散し、彼らを呑み込んでいた蜘蛛の海は塵となって空気に溶けた。
シロの策は成功し、全員が辛うじて命を拾う。しかし流れ出る血が、激闘であったことを物語っていた。緊張の糸が切れたシロ、ジェシー、ハンクは傷口を押さえることもできず、意識を失う。
残されたわずかな魔力で、まだ治療は可能だ。
メイスは杖を地に突いて身体を支え、大きく息をつく。額の汗が引いていくのを感じながら、最後の力を振り絞って治癒魔法を施し、仲間たちの出血を止める。
昏倒した少年にまで手を回す余裕はない。ジェシーたちが目を開けたのを確認したとき、ようやく彼女の意識も途切れ、シロの傍らに倒れ込んだ。
◎
すべての魔力を使い果たしたメイスが目を覚ましたとき、どれほどの時間が過ぎたのかは分からなかった。それでも、張り詰めていた空気はようやくわずかに緩んでいる。安堵したシロはすぐに背嚢からパンと水を取り出し、矢継ぎ早に質問を投げかけながら、彼女の体調を確かめた。
「メイスは今起きたばかりだぞ、そんなすぐ答えられるわけないだろ?」
ジェシーはため息をつき、双方に山ほど聞きたいことがあると分かっていながらも唇を引き結び、ハンクに説明を任せるよう視線を送る。
「あー、とにかく今は危険はないからな。まずは休め。」
「……短すぎるだろ。まあいい、体は大丈夫か?」
「ありがとう、私は大丈夫だよ。みんなは?」
疲労の色が濃く、傷もまだ癒えきっていない様子を見て、メイスは自分がそれほど長く気を失ってはいなかったと悟る。全員が無事だと聞いてようやく息をつき、続けて問いかけた。
「あの子は? 魔族なの?」
「それがな……」
その場の空気が少し沈む。最初に苦笑を浮かべたのはシロだった。彼は一歩横にずれ、いまだ地面に横たわり意識の戻らない少年を示しながら、頬をかきながら言葉を探す。
「まだ目を覚ましていない。だから詳しいことは分からない。ただ、こいつが間違いなく人間だということと……俺たちがここに閉じ込められている、ということだけは確かだ。」
「本当はお前たちを背負って撤退するつもりだったが、途中でもっと厄介なのに遭遇した。傷のある俺たちではすぐに片づけられなくてな。状態が戻るまで、ここで身を潜めている。」
ハンクの説明は相変わらず大まかで、ジェシーが続けて補足する。だが彼の口元は次第に下がり、最後にもう一度大きく息を吐くと、部屋の出口へと続く長廊を指さした。自分の目で確かめろ、ということらしい。
闇に慣れたとはいえ視界は心許ない。しかし魔法が使えるメイスにとっては問題ではない。ためらうことなく魔力感知を発動し、前方の「厄介事」を探る。
その魔力が黒い影に触れた瞬間、全身に鳥肌が立った。あの高密度の魔力塊が、精密に人の形を取り、長廊に静かに佇んでいる。動かずとも、重苦しい気配を漂わせていた。
今の状態で対処できる相手ではない――そう判断したが、実際はそれ以上に危険だ。影の正体は屈強な鎧の騎士。蓄えられた魔力量から見て、手にした剣をひと振りするだけで巨岩を断ちかねない。
しかもその魔力は、少年と同質だった。無意識のうちに放たれている魔法だと考えるのは難しくないだろう。メイスの視線が少年へ向いたのを見て、シロは彼女が状況を理解したと悟る。
「俺たちが部屋を出ない限り、あの影は攻撃してこない。ここにいる限りは安全だ。」
「それなら……どうするの?」
肩をすくめ、杖を抱き寄せたメイスは、少年を見ることも、仲間たちの表情を直視することもできない。
「万全を整えて倒す。それから迷宮を脱出する。」
シロはわざと声を張った。それが自分とハンク、ジェシーで何度も議論し、ようやく出した結論だとは悟らせないように。
その策が無謀であることはメイスにも分かっている。それでも、魔力の供給源を断つという選択よりは、彼らはより良い結末を選ぼうとしている。彼女は拳を握り、顔を上げて力強くうなずいた。
「はい。みんなで頑張ろう。」
◎
――そして、時は現在へ。
ハンクの号令のもと、準備を整えた一行は大きく息を吸う。荒れ狂う鼓動を押し殺し、シロが先陣を切った。雷のような速さで踏み込み、剣先を鎧の騎士の喉元へ突きつける。
二人を中心に強烈な風圧が爆ぜる。渾身の一撃は騎士の剣に受け止められ、そのまま刃を返されて平然と斬り返された。シロはかろうじてかわすが、地面に触れた刃先は床に深い斬痕を刻み、背筋が冷える。
息をつかせぬ猛攻を仕掛ける勇者一行。連携は完璧に近い。だが幾度となく重ねる攻勢は、そのたびに騎士にいなされる。変幻自在の剣技は、シロとハンクを相手にしてなお優勢を握っていた。
騎士は滑らかに持ち手を変え、本来なら隙となる左肩を守りつつ、右拳を振り抜いてシロを弾き飛ばした。
瞬く間に、騎士と至近距離で渡り合っているのはハンク一人だけになった。メイスの魔力弾は即座に放たれるが、隙を作ることはできない。騎士は両手で剣を握り直し、空気を裂いてハンクの脳天へ振り下ろす。並外れた威力にハンクは息をのむ。慌てて身をひねって回避するが、それはフェイントだった。後の先を取る蹴りが巨体のハンクを容易く吹き飛ばし、騎士は隊列後方のジェシーとメイスへと標的を移す。
戦線に戻ったシロは、ジェシーを貫きかねない一閃を即座に受け止める。幸い、ジェシーはすでに地面に騎士用の罠を無数に仕掛けており、相手の動きを鈍らせていた。
「今だ! 押さえろ、メイスに決めさせる!」
ジェシーが鋼線を引き、騎士に大きな隙を生じさせる。シロとハンクは当然それを逃さず、同時に騎士の脚を断ち切った。よろめく騎士は、最大出力の魔力砲の格好の的となる。
勝利まであと刹那――その瞬間、極度の冷気が全員を包み込む。騎士の面甲から凶光が噴き出し、死そのものを引き寄せた。
超高密度の魔力で構成された騎士そのものが一つの爆弾だった。少年と同じく、強烈な魔力を放つだけで、一行の動きを奪い、容赦なく苦痛の嵐へと引きずり込む。
衝撃に耐えきれない勇者一行は、騎士が両脚を再生させ、ゆっくりと剣へ魔力を圧縮していく様子をただ見ているしかない。迷宮を破壊してでも構わないと言わんばかりの構えで振り下ろされようとする刃が、全員の命を刻み始める。
ここまでか……すまない。
片膝をついたシロは目を細め、自分へと迫る刃を見つめながら、歯を食いしばる。最期の瞬間、心の中で仲間たちに詫びた。
「キム!」
次の瞬間、桃色の影が騎士の頭部へ拳を叩き込んだ。あまりの威力に騎士は壁へとめり込み、爆ぜるような煙が立ち上った。
突然の事態に反応できないまま、シロは口を開けて見上げる。彼女の歓声も笑顔も、視界に入らない。
「よう、久しぶりだな。シロ、ジェシー、メイス、ハンク。」
数秒後、長廊の奥からゆっくりと歩み寄ってきたのは、眉間にわずかな緊張を浮かべながらも、懸命に笑みを作る見慣れた顔だった。
「ソウル!」




