第33話:キムはどんな立場でも、ただのキムだよ
もしかしたら、もっと前から違和感には気づいていたのかもしれない。なぜあの時リム副社長は一目で俺の悩みを見抜いたのか。なぜキムは家で俺の間諜報告書を読めたのか。そしてなぜ二人はあれほど親しげで、何度も似たような言葉を口にしていたのか。
真実を実際に目の前に突きつけられると、思わず目眩を覚える。必死に表情を固めて平静を装ったが、力の抜けた足が心情を裏切った。地面にしゃがみ込み、キムの苦笑を見上げる。つられて口元がひくりと引きつり、笑い声とは到底言えない、妙な声が漏れた。
「先輩? 大丈夫?」
「やっぱり、少しは驚くよな……姫殿下。」
「あ、そんなふうに呼ばないでよ。キムはどんな立場でも、ただのキムだよ。」
何度も深呼吸を繰り返し、混乱した頭をどうにか落ち着かせる。体についた砂埃を払いながら立ち上がり、意識して声を安定させて言った。
「一度口にしたことは、引っ込めない。どんな身分だろうと、君への接し方は変えない。それに魔王の娘という背景は、シロたちに誠意を示すにはこれ以上ない材料だ。ただ、自分の身は守れ。怪我だけはするな。」
「了解です! でも先輩にはもっと情熱的に接してほしいな。できれば私みたいに三食きっちり、愛を伝えてくれるくらい!」
これでようやく、キムのお嬢様じみた奔放さの出どころが理解できた。敬礼しながらも隙あらば距離を詰める彼女は、満面の笑みで先ほどの重大発表を軽やかに塗り替えてしまう。
「魔王様が言っただろう。仕事に支障を出すなって。少しは自重しろ。ほら、急ぐぞ。」
最初の約束通り、俺は勤務時間を理由にキムを制する。きっと彼女は、言いたいことの全部を日没後にまとめてぶつけてくるに違いない。
そうだ。俺がキムと出会った最初の日から、彼女は自分の特別な立場を気にしたことなんて一度もなかった。いつだって思うままに行動し、他人の目など意に介さない。
確かに彼女の言う通りだ。キムは、どんな肩書きでもキムのままだ。
◎
「だってママの名前がMAOだから、パパがからかうたびに真っ赤になって怒るんだよ。『魔王(MAO)様って呼ばないで!』って。面白いでしょ?」
「そうなんだ。」
キムが話の合間に作るわずかな間が、俺の相槌のタイミングだ。本当は雑談を聞き流すのは失礼だと分かっているが、今は勇者一行の動向の方が気がかりで、点滅する位置情報を睨み続け、眉間に皺を寄せていた。
「でも名前が変なのはパパも同じだよ。竜人族なのにUMAなんて名前つけられてさ。別に未確認生物ってわけでもないのに、おじいちゃんとおばあちゃん何考えてたんだろ。」
「……ああ、確かに。」
「……先輩、魔王様の名前、なんだっけ?」
「面白い名前だな。あっ!」
額を軽く弾かれて、俺は位置特定装置を下ろした。少し後ろめたくなりながらキムを見ると、さっきの話をほとんど聞いていなかったことを素直に認めた。
怒られるかと思いきや、キムは、家で魔王様が延々と語り続ける時も、本に没頭している社長によく無視されているのだと笑いながら言う。それは運命づけられた夫婦のやり取りなのだと。
どんな展開でも、最終的には恋愛に結びつけるあたり、実に彼女らしい。
マガロン城を離れてから、二日が過ぎた。シロたちが滞在している迷宮までは、残り二時間もかからない距離だ。ガス様の情報によれば、会社が放棄したその迷宮は地形こそ複雑だが、長居するほどの価値はないという。一見ただ迷っただけにも思えるが、ハンターのジェシーがいる隊がそんな初歩的な失敗をするだろうか。
いくら考えても答えは出ない。俺は思考を打ち切り、位置特定装置をしまってキムの雑談に加わった。気持ちをできるだけ落ち着け、これからの再会が円滑に進むよう整える。
その地下迷宮は会社が建設したものではなく、利用に適していると判断して一時的に研究所として使われていたらしい。移転後は文献資料も重要資産も残されていないという。今ごろは巨大アリやゴブリンの巣になっていても不思議ではない。
生い茂る森は、静まり返っていた。気づけば俺とキムは迷宮の入口へ辿り着いている。洞口の岩は蔦と苔に覆われ、長く放置されてきた様子がうかがえる。地面に大型魔物の足跡は見当たらず、ひとまず危険の有無は判断できない。
「何か感じるか?」
魔力感知が得意でない俺はキムに尋ねた。
「ううん、特にないよ。先輩、緊張してる? よかったらぎゅっと手をつないであげよっか?」
「用心に越したことはない。」
冗談は受け流し、異次元ポケットから照明器具を取り出して階段を一段ずつ降りていく。
「おおっ、いよいよ冒険って感じだね!」
キムは後ろで軽やかに跳ねながら周囲を見回し、今の空気を楽しんでいるようだった。
「暇なら地図を見てくれ。ここで俺たちまで迷ったら洒落にならない。」
地図を手渡し、現在位置の記録と脱出経路の確認を任せる。
迷宮内部は想像以上に広く、壁には松明を掛けられる溝もある。照明を増やしやすい構造だ。そのせいか吸血コウモリや巨大な蜘蛛といった下級魔物が寄ってきたが、俺でも対処できる程度なので問題はない。
「先輩、見て!」
さらに奥へ進むと、キムが石柱の焦げ跡と矢を指差した。戦闘の痕跡だ。
「ああ、これはジェシーの矢だな。残留魔力は感じ取れるか?」
床に血痕はないが、矢じりにははっきりとした擦過痕が残っている。出現した魔物は皮膚が相当硬かった可能性が高い。だが俺にはそこまでの知識はなく、種別までは判断できなかった。
「はあ、探索や追跡みたいな繊細な操作が必要な魔法は一番苦手なんだよね。でも、何かを灰にするなら、絶対役に立てるよ!」
キムはあっさりと掌に膨大な魔力を帯びた火球を凝縮してみせた。少し離れていても、はっきりと熱が伝わってくる。
「しまってくれ。メスは魔力感知が得意だ。見つかれば先に気絶させかねない。厄介なことになったら、できるだけ拳で片付けてくれ。」
言い終わるより早く、天井から巨大な蜘蛛が落下した。牙をむき、前脚を高く掲げて威嚇する。あの火球がどれほど危険か、理解していない様子だ。
「先輩、私がやろうか?」
「いい。虫型は砕くと臭い体液を撒き散らす。力任せには向かない。」
巨大蜘蛛は不用意に近づかず、まず毒液と糸を放って俺の動きを封じにかかった。この程度なら回避は難しくない。隙を見て一気に踏み込み、脚を一本斬り落とした。痛みによろめいた瞬間を逃さず油を浴びせ、小さな魔力弾で着火した。数歩下がり、炎に包まれて動かなくなるのを見届けた。
「え? 先輩は魔法使ってもいいの?」
「俺が魔法を使えることは知られていないし、この程度の魔力弾ならまず感知されない。問題ない。」
キムはずるいと言いたげに頬を膨らませて、腹いせに蜘蛛の死骸を何度か蹴った。だが力加減を誤り、死骸は砕け、強烈な臭気の体液が飛び散る。俺が任せなかった理由が、見事に証明された。
軽口を叩きながらさらに奥へ進む。現れる魔物は次第に手強くなったが、ゴーレムすら一撃で粉砕するキムの前では大した問題ではない。
だが次の瞬間、異様な魔力が波のように迷宮の奥から押し寄せた。冷たく暗い深海に沈められるような感覚に、全身が粟立ち、足が止まる。
「先輩、今の魔力……シロたち、大丈夫かな?」
キムが少し身を寄せ、小声で尋ねる。
「ああ。勇者は強い。それより、平気か?」
額から流れた冷汗が眉まで落ちている。キムに答えるというより、自分を落ち着かせるための言葉だった。
「ぜーんぜん心配いらないよ。私、黒炎竜を単独で討伐できる女なんだから。」
胸を張って言うその調子は、場を和ませるためのものだとしても十分な効果があった。
「じゃあ俺を守ってくれ。」
無理に笑みを作り、迷宮の奥へ急ぐ。いつの間にか歩幅は広がり、気づけば走り出していた。
くそ……お前たち四人、どうか無事でいてくれ。




