第31話:俺の働きはむしろ非常に優秀だったようですから
「副社長……俺の人を見る目が足りませんでした。失礼がありましたら、どうかご容赦ください。」
一瞬で背中に冷や汗が広がり、俺は慌てて立ち上がって頭を下げた。さっき食べた焼き魔キノコを吐き出しそうになるほどの重圧だ。
「いいのよ。私、あまりみんなの前に顔を出さないしね。座って。ガスも。」
リムは背もたれに身を預け、顎を少し上げてくすりと笑う。俺の緊張を楽しんでいるようだ。そしてガス様に向かって言った。
「ガスに任せるより、私が自分で説明したほうがいいわ。それに、このスパイに会ってみたい理由も他にあったし。あまり気にしないで。」
ガス様は唾を飲み込み、ぎこちなくうなずく。俺と同じく上司の前ではどうにもぎこちないらしく、リム副社長に促されてようやくメニューを手に取り、注文のふりをしながらちらちらと様子をうかがっている。
「今は就業時間外よ。私の肩書きは気にしなくていい。言いたいことはもう全部言った? 社員のために職場環境を良くするのは大歓迎なんだから、遠慮なく愚痴っていいのよ。」
「い、いえ……もう話しました。むしろ、今は別の質問が増えてしまって……」
おそるおそる答えると、硬すぎると注意されてしまう。こんなとき、キムみたいに笑って酒を飲めたらな。
リムは数回笑い、ガス様がこちらを気にしているのを見て、あっさりメニューを閉じて店員を呼び、焼き串とスパークリング酒を追加で注文した。四天王すらこうして抑え込むのだから、さすがは副社長クラスだ。
「えっと……何か?」
不意に沈黙が落ちる。困惑しているのはこちらなのに、なぜかリム副社長のほうが不思議そうな顔をする。ガス様が慌てて俺に目配せし、場を切り開けと合図する。
「さっき、私にも同じ質問をするって言ったでしょう? そうしないと話せないでしょ。」
リム副社長は頬をふくらませて不満を示し、俺の呆然とした顔を見てため息まじりに続ける。
「人はね、相手に聞き返してほしくて質問することもあるの。わかる?」
「わ、わかりました。」
どこかで聞いたことのあるような言い回しだ。俺は咳払いをして、改めて問いかける。
「リム副社長は、仕事で何かお困りのことはありますか?」
「だからそんなにかしこまらなくていいって言ってるのに。それ、台本でも読んでるの? 反応が固すぎるわよ。」
リム副社長は目を細めて突っ込み、これでは話す気が削がれると言わんばかりだ。扱いづらい上司だ。ガス様が常に気を張っている理由もわかる。
「まあいいわ。本題ね。ラロの声明はガスから受け取っているわ。スパイを続けるかどうか、その存廃について、あなた本人の考えを聞きたい。」
リムは肩をすくめ、ガス様に視線を送り、補足を促す。
「もともと今日話すつもりだったのはその件だ。正直に言え。スパイ任務を続ける価値があるかどうか、リム副社長の判断材料になる。」
「俺は……」
続けたい。その言葉が、魚の骨みたいに喉に引っかかる。あるべきではない弱さ。いくつもの立場の間で揺れている俺を、ラロ部長は見抜いたのだろう。
「スパイを勇者のそばに潜り込ませる案を最初に出したのは私よ。どうしてだと思う?」
リム副社長は沈黙を断ち、耳元の髪を指に巻きながら問う。
「勇者の弱点を探して、隙をついて倒すためですか?」
「もしそれが目的だったなら、あなたのどうでもいい報告書はとっくに破り捨てているわよ。」
軽く笑ってから、視線を巡らせ、真相を語る。
「最終的な目的は、人間と魔族の対立を解消すること。少し理想論に聞こえるでしょう? 最初は反対も多かった。ガスもその一人よね?」
「え? 匿名投票だったはずでは……」
「ふふ、顔に全部書いてあるわ。誰だってわかるわよ。」
リム副社長は再び俺に視線を戻す。
「会社にいる元勇者たちは、すでにブディン共和国から敵と見なされている。彼らでは橋渡しにならない。けれど現役の勇者たちは、たとえ捨て駒だとしても一定の威望がある。彼らの影響力で“魔族は敵ではない”という流れを作れれば、時間はかかっても何かが変わるかもしれない。だから私に必要だったのは橋よ。人間と勇者と魔族をつなぐ橋。その役目がスパイなの。」
「え……? じゃあ、俺がシロに近づいたのは、人間側の情報を得るためでも、後で始末しやすくするためでもないんですか?」
「まあ……個人的な期待も、多少はあったけど……でも主な理由は会社と魔族のためだよ。」
リム副社長は不意に頬をふくらませ、スパークリング酒を一口飲んで頬の熱を冷ます。落ち着きを取り戻してから、指先を軽くつまみつつ問いかけた。
「報告書を見る限り、シロは悪い人には見えないわよね? 本気であなたを友人だと思っている……そうでしょう?」
今になって明かされた真実が、理性を崩した。
俺の迷いや不安は一瞬で杞憂へと変わり、感情を意図的に抑え込もうとしていた行為も、すべて無駄だったのだと気づく。脱力感が一気に押し寄せ、俺は肩を落とし、礼儀も忘れてそのままテーブルに突っ伏してため息をついた。
「ど……どうしたの? ガス? この人酔ったの?」
リム副社長はやや焦った声を出し、慌ててガス様の袖をつかんで、俺を元に戻すよう命じる。
「すみません。ただ、急に大きく息が抜けただけです。」
しばらくして、リム副社長の対応に追われていたガス様の隙を見て、俺はようやく顔を上げ、自分の無礼を詫びた。
「もしお許しいただけるなら、引き続きスパイ任務を続けさせてください。こうして見ると、俺の働きはむしろとても優秀だったようですから。」
自分でも少し照れくさくなるほど自信過剰な宣言だった。リム副社長はすぐに平静を取り戻し、くすくすと笑いながらも、まだガス様の服をつかんだままだ。
俺の耳には届かないほど小さく何かをつぶやいたあと、十指を合わせ、首を傾げて言う。
「いい返事ね。ちょうど私も、反対派に負ける気はないの。パーティーに戻ったら、できるだけ早くシロたちに自分の正体を明かしなさい。そして魔族が人間と友好を結ぶ意思を強く持っていることを伝えるの。結果がどうであれ、まずは自分の安全を最優先に。何かあればすぐガスに報告、わかった?」
「この計画にこだわるのは、本当に負けず嫌いだからだけか?」
ガス様は服を整え直し、ため息をつきながらリム副社長を横目で見る。その視線を受けた途端、彼女の酔いが一気に回り、青い鱗とは対照的な赤みが頬に差した。
「と、当然でしょう? 平和が会社に利益をもたらさないとでも? 私を甘く見ないでよ。これ以上余計なことを言ったら、あなたを文書室送りにするわよ。」
腕を組み、どこか力の抜けた脅しを口にする姿は、まるで拗ねた子どものようだった。
「そうだ、もう一つ。キムの件よ。さっき、彼女に仕事が影響されていると言っていたけれど、それは問題かしら? 必要なら、彼女を社内に戻してもいいわ。」
リム副社長の声音が急に冷える。黒炎竜の一件で、キムをスパイに向かないと判断し、目の届く場所に戻すつもりなのではないか――そんな推測がよぎる。
「いいえ。俺にはキムが必要です。」
俺はきっぱりと言い切った。一度の失敗で、彼女の努力を否定させるわけにはいかない。
「俺は約束しました。彼女を一人前にして、立派な社会人にすると。この道は……キムのそばで支え続けたいんです。」
リム副社長はわずかに目を見開き、意味深な笑みを浮かべる。ガス様と視線を交わし、俺にはわからない合図を交わしたあと、決定を下した。
「それならいいわ。最初は彼女が足を引っ張るのではと心配していたけれど、杞憂だったようね。これからも、しっかり面倒を見てあげなさい。」
言い終えると、彼女は一瞬だけ寂しげな影を落としたが、すぐにスパークリング酒を飲み干してそれを消し去り、空になった皿を指して解散を宣言した。相変わらず強引なやり方だ。
居酒屋を出て、二人の上司に何度も頭を下げたあと、俺は人気のない通りで大きく息を吐いた。
久しぶりに、穏やかな気持ちで頭上の残月を見上げる。キムも同じ夜空を見上げ、何も憂いのない顔で笑っているのだろうか、とふと思った。
「まだ帰らないの?」
「うわっ!」
突然背後から現れたリム副社長が顔を上げて俺を見る。思わず大きく驚いた。今日は何度も背後を取られている気がする。このままだと過労より先に心臓発作で若死にしそうだ。
「リム副社長、何かご用でしょうか?」
「今はリムでいいわ。悪かったわね、退勤後に仕事の話なんて。ああ、ガスはもう先に帰ったから、緊張しなくていいわよ。」
月明かりの乏しい夜でも、リムの瞳孔は糸のように細い。隣に立つと、体が本当に小さいことがわかる。話し方や立ち居振る舞いで、優秀な社会人だと示しているのだ。
「いえ、申し訳ないのは俺の方です。俺の不手際で、時間を割いていただいて。」
「そういうのはいいの。ほかに少し話したいことがあるの。もう少し時間をもらえる?」
リムが両手を背中に回し、つま先で地面を軽く蹴るようにして、ぴょんと跳ねる。数秒見てから、俺はようやく察して口を開いた。
「どうぞ。明日も仕事ですし、早く帰って休むのが一番ですから。」
「ふふ、頭いいじゃない。まずはキムをあれだけ面倒見てくれてありがとう。最初は仕事を口実にあなたへ近づくつもりだったけれど、ようやく社会ときちんと向き合えるようになって、みんな本当に安心してるの。」
軽い調子を装っているが、表情には温かな気持ちがにじんでいる。
「それから……これはあなたへの助言。」
リムは体をひねって横向きになり、足元の小石を軽く蹴る。数歩進んではまた別の方向へ弾き、それを何度か繰り返したあと、小石の転がる音に合わせるように口を開いた。
「あなたたちの間に障害がないのなら、それはとても幸せなことよ。その事実を、ちゃんとわかっておきなさいね。」
そのとき、さっきのあの寂しげな表情が、また浮かんだ。どこかで見たことがあるような気もするが、思い違いかもしれない。
「どうして急にそんな話を?」
「え? あ、ああ……な、なに言ってるのよ、別に何でもないわ! とにかくキムを大事にしなさい、わかった? それとスパイの件も忘れないで。重大な任務なんだから、私にも大きく影響するのよ。全部あなたにかかっているんだからね、いい?」
問いかけで我に返ったリムは慌てて両手を振り、肩をすくめたかと思えば背筋を伸ばし、背中の翼を広げる。いくつか言い残すと、そのまま慌ただしく飛び去り、闇の中へ消えた。
要点のはっきりしない叱責は、左耳から入り右耳へ抜けていく。ただ、リムの言葉にまだ別の意味があるのではないかと考え始めると、それはきっと寝る前にまた思い出すのだろう。
「……リアルでツンデレ初めて見たな。」




