第3話:先輩を好きなのは、私の勝手です
タイガの町はにぎやかな大都会だ。通りは人であふれ、あちこちから屋台の呼び声が飛び交っている。その人混みの間をすり抜けながらくるくる回ってステップを踏くキムはやけに元気で、店の前でやたら目立つ様子で大きく手を振って俺を呼んでいた。まるで自分がスパイだってことなんて、これっぽっちも気にしていないみたいだ。
外出時の食事代は会社に経費申請できるけど、経理はこういう細かいところでやたらと細かくチェックしてくる。特に俺みたいな下っ端は目をつけられやすいし、あれこれ指摘されるのも面倒で、最後にはもう申請自体しなくなった。
だから俺は雑穀パンをいくつか頼んだだけ。一方キムは……大盛りの焼き肉ステーキセット。さすが役員の娘、これが官僚の娘の大らかな生活態度ってやつだろうな。本当にうらやましい。
「先輩、このあとどうします? 私はこうしたほうが――」
「飲み込んでからしゃべれ」
料理が来た瞬間、キムは大口で食べ始め、頬を手で支えながら満足そうな妙な声をもらす。俺は別に気にしないが、他の上司の前では絶対にその豪快さを出すなと、一応釘を刺しておかないとな。
「俺がパーティーを外されたのは、うっかり弱く見せすぎたからだ。だから人間側に協力してゴブリン討伐とか魔獣退治とかして、少しくらい名前が広まればと思っている。実力が上がった証拠になれば、堂々と戻れるはずだ。」
「なるほど、さすが先輩、筋が通ってますね。じゃあ私は何を?」
「俺と一緒に動けばいい。俺だけ戻って、お前を一人外に残すわけにもいかないだろ?」
そう言いながらも、実際はキムが視界から外れるほうが心配だ。何をしでかすかわからないから、目の届くところにいたほうが安心だ。
「やった! 来世でもずっと先輩のそばにいますね!」
「そういう話じゃない……今は仕事の話だ。頼むから少しは真面目にしてくれ」
朝から全力で求婚され続け、俺の脳はすでにオーバーヒート寸前だ。キムの思考回路のどこがどうなっているのか、まったく理解できない。
「え? 本気ですよ?」
最後の一口を飲み込み、口元のソースを手でぬぐいながら、いちばん真剣さから遠い顔で言い返す。
「キム。スパイにとって一番大事なのは何だ?」
眉間に浮かんでいた無奈な表情を引っ込め、背筋を伸ばして目を見据え、ゆっくり問いかける。
「バレないことです!」
同じく背筋を伸ばし、片手で敬礼して答えた。
「その前に、もっと大事なのは『忍耐』だ」
同僚が勇者に倒されるのを、ただ黙って見ていることしかできないこと。卑怯者と罵られること。自分は正しいのかと疑うこと。スパイである以上、そういう迷いは常につきまとう。
上から任務終了の指示が出るまで、俺たちはひたすら忍耐し続けるしかない。
バレずに情報を確実に持ち帰るための前提は、いつだって『忍耐』を身につけていることだ。
「あ……でも私は我慢できなくて先輩の部下になりに来たんですよ」
キムはテーブルに突っ伏し、頬をふくらませてこの仕事の不合理さに抗議した。
「ってことは、先輩は我慢強いんですね?」
「昔一度、締め切り直前まで腹痛を必死にこらえて徹夜で報告書を仕上げてな。会議が終わってから休みを取って病院に行ったら胃に穴が開いてたんだ。」
「先輩みたいにはなりたくないです……」
「とにかく、仕事というものを真剣に受け止めろ。みんな命がけで金を稼ぎに来ているんだ。男女の私情を話すべきでもないし、話してはいけない。わかったか?」
俺は腕を組み、最も正しい理屈でキムを押さえ込む。これでもう彼女はむやみに口走れないはずだ。
「あ、了解です! 先輩みたいに真面目に働きます!」
「よし。じゃあ――」
「でも、」
いたずらっぽい笑みを浮かべ、人差し指を頬に当てる。
「勤務時間が終われば、いくらでも言っていいですよね? それまではちゃんと忍耐します」
「そういう意味じゃない……」
こめかみを押さえながら考える。
「結婚は一生の大事だ。初めて会った相手にそんなことを言う人はいないし、正直俺は困っている」
「先輩は進みが早すぎると思っているんですか? じゃあ好きって言い換えればいいですか?」
キムの天真爛漫な様子にはとても怒れない。さっき後輩に忍耐を説いたばかりなのに、先に崩れそうなのは俺のほうだ。俺は深呼吸を一つして、改めて彼女に向き合った。
「数時間前まで俺とお前には何の関わりもなかった。俺は見知らぬ相手に特別な感情は抱かない。何度求婚されても考えは変わらないし、俺が悩むのはお前にどう対応すればいいかということなんだ。わかるか?」
見た目は大人でも、キムの精神年齢は実際よりかなり低そうだ。どんな反応が返るのか想像するだけで、また胃が痛む。
「わかりました。でも先輩は返事しなくていいです。私の一方的な宣言ってことで」
「返事しなくていい?」
「はい。先輩を好きなのは、私の勝手です。先輩には関係ないじゃないですか?」
澄んだ琥珀色の瞳には、一点の曇りもない。天気の話でもするみたいな口調で、あっさりと言う。
「……食べ終わったなら出発するぞ。ゴブリン討伐だ」
指示を出すと、キムは嬉しそうに店を飛び出していった。俺は上司としての責任を黙って背負い、銀貨を数枚取り出して彼女の分の代金を払った。
高いな……次は経理部に連れて行って、経費の申請の仕方を学ばせるか。




