第2話:一目惚れは少女の権利
「は?」
「先輩、私と結婚してくれますか?」
キムはさらに楽しそうに笑い、もう一度同じことを言った。
「いや、何を言ってるんだ? 俺たちは初対面だろ?」
やっと胃の痛みが引いたと思ったら、今度は頭がズキズキしてきた。今から会社に病欠の連絡をしても間に合うだろうか……。
「でも私は先輩のこと知ってますよ? だから先輩のそばでたくさん学んで、世界一の妻になることを目標にしているんです!」
くるっと一回転しながら自分の話を続けるキム。可愛い見た目とは裏腹に、話の意味がまったくつかめない。
「ちょっと落ち着こう。俺たちは今日が初対面。しかも俺は君の上司。そんな関係にはなれない。あと「先輩」じゃなくて「課長」か「ソウルさん」と呼びなさい。」
「え? どうしてダメなんですか?」
目をぱちくりさせるキム。その常識のなさは、もはや俺に“この世の空気を吸っていない超お嬢様だ”と確信させるレベルだった。
「職権ハラスメントって何か、ちゃんと調べてみろよ。俺は突然人事部に呼び出されて説教される気はないからな」
「うーん……私の家がちょっと特別だって、もう聞いてますよね?」
「待って。もしかしてパワハラされる側、俺?」
「人事部が何か言ったら、ママに頼んで全員まとめてクビにしてもらいますので安心してください!」
「ダメに決まってるだろ! みんな真面目に働いてる会社員なんだぞ!」
なんで俺は、こんな意味不明なお嬢様に絡まれてるんだ……。目尻から涙がにじみそうだった。今回のスパイ任務が終わったら、絶対に長期休暇を取ってゆっくり休もうと心に決めた。
「先輩って本当に優しいですね~」
「はぁ……もうツッコむ気力もない」
これ以上突っ込むと泥沼だ。話題を仕事に戻す。
「キム。俺たちはスパイだ。正体を隠して情報を会社に流すのが仕事。絶対にボロを出すな。わかった?」
「了解です! ちゃんと心に刻んでおきます!」
今度はやけに素直にうなずく。虫取りのコツを覚えたばかりの子どもみたいだった。
まずはキムから会社の様子を聞き、ちゃんと入社手続きを済ませているのかを確認した。そのうえで、俺は今の状況を説明した。上司とはいえ偉ぶるのは嫌いだ。今回のことは俺のミスだから、正直に話すつもりだ。同じ失敗をしないように注意喚起にもなるし、その方が今後どう動くかも話しやすい。
「なるほど……それは一大事ですね」
目を閉じ、顎に手を当てて真面目モードに入るキム。ようやく真面目に仕事をする気になったらしく、俺はそれを見て、かなりほっとした。
「ガスって人、先輩にあんなきつい態度を取るなんて。ママに頼んでボーナスを減らしてもらいましょうか?」
「だからそれがパワハラなんだって! 話ちゃんと理解してる?」
「もちろんです。先輩いま大危機ですよね? 出世もお金も遠のいてるじゃないですか」
「そうだけどそうじゃないんだよ! 俺は……!」
「なので!」
キムは手を高く挙げ、ぱちっと瞬きをして、いたずらっぽい顔を見せた。
「先輩が私と結婚すれば、出世もお金ももう問題じゃなくなりますよ!」
「なんで口を開けば結婚の話ばかりなんだ……」
「あ~すみません、ちょっと興奮しちゃって、まだ理由を話してませんでしたね。」
「いや、別にそんなに知りたいわけじゃない。」
森の中で立ち話を続けるのはさすがに不自然だったので、仕方なくキムと一緒にタイガの町へ戻り、そこで改めて相談することにした。もちろん道中でも、キムは俺の意思などお構いなしに、自分の話を滔々と語り始めた。
「妹まで立派に成功していて、何年も引きこもりをしていた私もさすがにこのままじゃいけないと思ったんです。前線に派遣されてブディン共和国との防衛戦に出るくらいしか、できる仕事がなかったんです。」
「もうすぐ町だ。これを先に身につけておけ」
キムの頭の角、腰の翼、首元にあるいくつかの鱗は、人類の敵である証だった。俺はネックレスを渡し、それが魔族の特徴を隠すための魔法道具だと説明した。絶対に勝手に外すなと念押しする。
「これ、先輩の手作りですか?」
「まあな。スパイなら、このくらいは量産できないと話にならない」
「素敵です……一生大切にします!」
嬉しそうに首にかけ、その素朴なネックレスを俺に見せながら、小さくぶつぶつと呟いた。
「どうせなら先輩が結婚指輪をくれたらよかったのに」
「それ言うと思ったからネックレスにしたんだよ」
「ふふ、先輩冷たいですね。でもですね、私は戦うのが嫌いなんです。前線なんて絶対に無理です。でも何もしなければ、また役立たずの引きこもりに逆戻りです。そんなふうに一番迷っていたとき、ちょうど先輩のスパイ報告書を読んだんです。その瞬間、私、救われたって思ったんですよ。」
「大げさすぎるだろ。ただの書類だろ?」
「ただの、じゃありません! あれ、分厚い束でしたよ? あれを書けるのは、きっと一生懸命で、仕事を真面目に向き合っている人だけです。私みたいに何もできなくて、すぐ途中で投げ出してしまう人とは違います。」
「いや、会社の人間はみんなそうだ。俺だけじゃないし、そこまで言わなくていいよ……」
「でも最初に道を示してくれたのは、先輩の報告書です」
キムは少し早足になり、ふわっと軽やかに跳んで、俺の前に回り込む。逆光の中で笑った。
「一目惚れは少女の権利じゃダメですか?」
またどうすればいいのかわからなくなった。俺は頭をかき、前方のお店を指さす。
「とりあえず中に入って飯にしよう。それから今後のことを考えよう。」
……本当に、とんでもないお嬢様だ。




