第27話:現実的な話をしよう
ーディン共和国の国境沿いを一日歩き、巨大な木々がそびえ立つ森を抜けると、足元の雑草は次第に消え、整備された道が姿を現した。空気にもどこか懐かしい匂いが混じり始める。そこで顔を上げて遠くを眺め、雲に包まれたスノーマ山が見えれば、自分がすでに魔族の領地へ戻ってきたのだと確信でき、思わず気分が大きく晴れる。
俺たちはちょうど大規模会議の当日に会社へ到着した。これでようやく足取りを緩められる……と思いきや、今度は別の仕事のことを心配しなければならない。……はあ、いっそこのまま辞職してしまえば、人生の悩みの九割は一瞬で消え去るんじゃないか。早く経済的自由を手に入れて、悠々自適に引退生活を送りたいものだ。
「キム、ネックレスは外していいぞ。もう人間に偽装しなくていい」
「え? でもこれ、先輩がくれたものですよ? このまま着けていたらダメですか?」
両手でネックレスを包み込むように持ちながらそう尋ねるキムは、実際には外す気などまったくなさそうだった。
「まあ、別に構わないけどな。ただ、他の上司に外せと言われたら従えよ」
俺の外見は人間と変わらないため、ときどき人間だと勘違いされて注目を集めることがある。もっとも、元勇者が軍事部で働いている例も少なくないから、人間がここにいること自体はさほど珍しくもない。
マガロン城の景色は、俺が離れたときとほとんど変わっていなかった。魔族は食いしん坊なのか、通りの両脇には屋台が立ち並び、漂ってくる香ばしい匂いにキムはよだれを垂らさんばかりだった。結局、焼き魔キノコやフライを何本も買って腹ごしらえをする。
魔王株式会社の本社もここにある。通りから建物に至るまで豪奢そのもので、道端に停められた馬車にさえ宝石が散りばめられている。行き交う人々も華美な衣装に身を包み、旅装のままの俺とは、まるで別世界の人間のようだった。
「キム、会社に入ったらおとなしくしていろよ。上の人間が話している間は頭を空っぽにして、必要なら『はい』『了解です』、それか拍手しておけばいい。わかったな?」
会社まであと数本の通りを残すのみ。郷愁はすっかり緊張に取って代わり、俺は額の汗を拭いながら、くどいほど言い聞かせた。
「はい! 了解です!」
キムはいたずらっぽく笑いながら拍手する。こういう真面目になりきれない性格が、余計に不安を煽るんだ……。もし何かの拍子に暴走でもしたら、俺たちの末路は想像したくもない。
「本当にトラブルに巻き込まれたら思い出せ。俺たちはスパイだ。スパイにとって何より大事なのは――」
「『忍耐』ですよね! 安心してください、先輩を愛している気持ち以外なら、キムは何でも我慢できます!」
「久しぶりでも相変わらずイチャイチャしてるわねえ?」
背後から俺とキムの肩に腕を回してきたのは、機嫌よく、意味ありげににやつきながら俺をからかってくる営業部部長のステイシーだった。
「わあ! 部長! お久しぶりです。ジェーンちゃんは一緒じゃないんですか?」
「ジェーンちゃんはもう会社にいるわよ。営業部はあなたとソウルくんだけ遅刻ね。ほらほら、みんなキムとソウルの噂を聞きたがってるの。進展は? 少し教えなさいよ」
「えへへ、部長聞いてくださいよ、この前先輩が――」
「キム、さっき何て言った?」
俺はステイシー部長の腕を外し、目を細めて冷ややかに問いかける。キムが余計なことを口にする前に、先に釘を刺しておく。
「うっ……は、はい……了解です」
「ははは、教育係が板についてきたじゃない。今後新人は全部あなたに任せようかしら」
ステイシー部長は懲りずに再び腕を回し、俺とキムをぐいぐい引っ張って路地を抜け、まっすぐ会社へ向かった。
「ゴシップが取れなかった腹いせを業務に持ち込まないでくださいよ」
力なくそう突っ込むと、ステイシー部長は大笑いして受け流し、キムとひそひそ話を始める。
……本当に、下っ端管理職なんて、ほんと割に合わない仕事だ。
◎
ステイシー部長がオフィスに一歩踏み入れた瞬間、静まり返っていた空気は粉々に砕け、彼女とキムのけらけらとした笑い声で満たされた。続いてジェーンを先頭に、営業部の面々もその笑いの渦へと引き込まれ、手元の仕事をすっかり放り出してしまう。
「キムです! 新しく来た実習スパイです、よろしくお願いします!」
キムの言う通り、どこへ行っても人気者の彼女は、あっという間に歓迎の拍手に包まれた。機嫌のいい彼女が何を口走るか分からない以上、ここは早めに場を落ち着かせるのが最善だ。
「え? ソウルくん、空気読めないなあ。もしかして……まだ公表する気はないの?」
「冗談はやめてください。」
俺は目を細めてステイシー部長のからかいに応じ、ため息をつきながらキムに目配せする。
「先に会計部へ行かなければなりません。」
「あ! 先輩の言う通りですね、謝りに行かないと。失礼します。ジェーンちゃん、戻ったらまたお話ししましょうね、バイバイ。」
席を立つのがキムからの申し出だったためか、ステイシー部長はあっさりと俺たちを行かせてくれた。この扱いの差には一言言いたいところだが、これから向かうのは極めて厳粛な場だ。余計なことを口にする余裕はない。
……胃が少し痛くなってきた。
キムに何度も念を押す。笑顔は封印、表情は厳粛に、終始沈黙を守ること。姿勢や立ち振る舞いも整え、万全を確認してから、ようやく少し安心して会計部へ向かった。
社内の廊下を進む。隣を歩くキムは、すれ違う同僚に手慣れた様子で会釈を返している。その些細な動作さえ彼女には楽しみらしく、口元が緩みかけるたびに、俺の注意でまた硬い表情へ戻る。
「失礼します。ラロ部長、情報課課長のソウルです。こちらは私が指導している新人スパイ、キムです。」
ドアを軽くノックし、許可を得て入室する。まずは落ち着いた丁寧な口調で挨拶を述べた。
「部長、キムです。」
会計部長ラロについては、非常に几帳面で慎重な人物だと聞いている。だからこそ会計部長の重責を担えているのだろう。ただし評判はすべてが好意的というわけでもない。いずれにせよ、簡単な相手ではなさそうだ。
しかしラロ部長は、俺たちの来訪にすぐには応じなかった。机の上で組まれた両手は微動だにせず、深い双眸がずっとこちらを見据えている。その圧は相当なものだった。
「現実的な話をしよう。」
沈黙の十秒が半生にも感じられ、冷や汗が滲んだところで、ようやく口を開いた。俺たちの用件は既に承知しているらしく、回りくどい言い回しはしない。最小限の言葉で本題を示す。
「はい。本件の責任はすべて私にあります。部下の監督を徹底できず、損害を与えてしまいました。誠に申し訳ありません。」
深く腰を折って頭を下げる。隣のキムも慌てて頭を下げ、許しを請う。
「ああ、『現実的な話をしよう』と言ったはずだが。」
冷ややかな声音が鼓膜を刺し、息を詰めたまま顔を上げられない。
「最愛のペットを失った心の痛みは金銭では量れないと承知しています。しかし、どうか私の誠意をお受け取りください。謝罪の真意を示すものです。」
頭を下げたまま、ポケットから三十万金貨の入った袋を取り出し、両手で差し出した。
「分かっていないな。」
ラロ部長は冷然と言い、短い沈黙の後、俺とキムに顔を上げるよう命じた。だが彼の深い眼差しと向き合うくらいなら、床を見つめ続けていた方がましだ。
「まず理由を聞こう。なぜスパイ任務の最中に、実習生がつばさちゃんを殺すことになった?」
「そ、それは……私が監督の責任を果たせず、キムを視界の外で単独行動させてしまったため、事故を招いてしまいました。」
事実として報告し、責任はすべて自分に引き受ける。キムが口を挟まぬよう、さりげなく手で制した。
「事の全容を正直に述べないのがスパイの習性か、ソウル課長?」
ラロ部長はついに椅子から立ち上がり、一歩、また一歩とゆっくりこちらへ歩み寄る。獲物を狙う凶悪な蛇のように俺を睨みつけ、さらに語気を強めて、もう一度問いかけた。
「勇者パーティーから追放されたこと、いつまで隠すつもりだ?」




