第22話:立派な社会人になります
大通りを抜け、路地をくぐり、広場を回り込んだあと、靴底に伝わる石畳の感触はいつの間にか柔らかな土へと変わっていた。歩みを緩めた俺たちは、左手に広がる草原が風に揺られて波のようにうねる景色を眺め、それから反対側の森へと足を向けた。
「この森、何か特別な場所なのか?」
俺はキムの後ろを歩きながら、彼女の溢れる楽しさが森に溶け込んでいくのを感じ、そのせいか虫の音や鳥のさえずりがいつもより少し心地よく聞こえた。
「ううん、特別な場所じゃないですよ。ただ、人混みから離れたかっただけです。」
キムは振り返り、人差し指を唇に当てて、どこか意味ありげに言った。
「……本人の意思に反する行為は、断固として反対だぞ。」
「ははは、そんな悪いことしませんって!」
キムは大笑いし、適当に折った枝を振り回す。その様子は、まるで親に連れられてピクニックに来た子どものようだった。
俺たちはそのまま森の奥へと進んでいく。梢の鳥や落ち葉の間に咲く草花を、キムは一つ一つ指差しながら名前を挙げ、俺に確認してくる。ここ最近の勉強が無駄になっていないことを嬉しそうに示していた。
きっと、こうしているだけでも彼女は一日中楽しめるのだろう。
「よし! この辺でいいです。先輩、そこに立って動かないでください。」
三十分ほど歩いたところで、キムはようやく立ち止まり、大げさに手を掲げて振り返り、大げさに手を掲げて振り返り、朗々とした声で命じた。
「ん? 目的地ってここじゃないのか?」
「違いますよ。ちょっと遠いところなので、まずは人目を避けて行動しないといけませんから。」
「どういう意味――うわっ!」
疑問が解ける前に、キムが一歩踏み出し、横からいきなり俺を抱き上げた。不意を突かれ、思わず変な声が出る。
「先輩、少し我慢してくださいね。連れて行きます!」
歯を見せて笑ったキムは翼を広げ、次の瞬間には重力を振り切っていた。わずか半秒で、下に広がる森は緑の絨毯のように遠ざかる。
「ちょ、ちょっと待て! 俺はまだ――うわあっ!」
高空の薄い空気が不安をさらに煽る。人生初の“お姫様抱っこ”がこんな形になるとは思わなかった。止める暇もなく、強烈な風圧が正面から叩きつけ、反論する余裕すら与えてくれない。
これ、社員保険の補償対象に入らないのか……?
◎
これほどの速度で山々が流れていく光景を、今まで見たことがなかった。どれくらい飛んでいたのかも分からないまま、ようやく解放された俺は、衝撃に耐え続けた体のあちこちが軋み、骨がバラバラになりそうな感覚だった。
ゆっくりと地面に降ろされた直後、視界がぐるりと回る。顔面蒼白のまま空を見上げ、揺れ続ける景色の中で、何分もかけてようやく感覚が戻り、キムの笑顔を認識できた。
「到着です、お姫様殿下。空の旅はいかがでしたか?」
地に足をつけて生きることを信条としてきたが、こんな形でその言葉の意味を実感することになるとは思わなかった。キムはわざと声を潜めて、軽くお辞儀する。俺の頭がどれだけ揺さぶられたかなど、まるで分かっていない。
「嵐の中でカヌーに巻き込まれた挙げ句、ステイシー部長に酒を二樽飲まされた感じだ……」
「えっ……ご、ごめんなさい。前に一度先輩を連れて飛んだことがあったので、もう慣れてるかと思って……」
「いや、もういい……それより、ここはどこだ?」
涙目で慌てて謝る様子を見ると、怒る気も失せる。やはりスパイの美徳は、結局のところ忍耐なのだろう。深く息を吐き、不調が残っていないか確かめながら周囲を見渡し、ここがどこなのかを問い返した。
「オリ湖ですよ! ほら、見てください!」
キムが大きく両手を広げる。その先に目を向けると、まず目に飛び込んできたのは連なる壮大な山々と、その中に抱かれるように広がる澄み切った湖面だった。
まるで天地が逆さになったかのように、鮮やかな青が広がっている。
目に飛び込んできたのは、疑いようもなく息を呑むほどの壮麗な景色だった。思わず何度も深く息を吸い込みたくなり、全身の細胞をほどいていく。もし休みの日をここで一日過ごせるなら、それは確かにいい提案になりそうだ。
「どうしてここを知ってるんだ?」
景色から意識を引き戻し、キムの方へ顔を向けたとき、いつの間にかまた手をしっかり握られていることに気づく。だからあんなどこか悪戯っぽい笑みを浮かべているのだろう。
「子どもの頃、たまにお父さんとお母さんが、私と妹をここに連れてきてくれたんです。ちょうど飛んで来られるくらいの距離だったので、先輩にも見せたくて。」
「じゃあ、案内は任せる。」
「任せてください!」
キムはびしっと敬礼し、俺を歩道へと導きながら湖畔へ近づいていく。取り留めのない会話で、その何気ない時間を埋めるようにしていた。
そういえば、遠出というものは今まで一度も興味の対象に入ったことがなかった。空気に混じる湿り気が徐々に濃くなっていく感覚も、これまで湖のそばを通っても気にしたことはない。森や谷を通っても、頭の中にあったのはいつも仕事のことばかりで、巨木の高さも峡谷の深さも、今となっては思い出せない。
家で鉢植えに水をやり、花が咲いたり実がなったりするのを見るのも達成感はある。だが、自分の手で作り上げたわけではない景色をただ眺めるのも、また違った楽しさがあるのかもしれない。
そんなよく分かっているようで分かっていない感想を、つい気が逸れていた言い訳としてキムに話してみたが、彼女は許してもらえず、頬を膨らませたあと、不満を引っ込めるようにくすくすと笑った。
「そうだ、先輩はどうして会社で働こうと思ったんですか? 他にもいろんな仕事があったはずですよね?」
色とりどりの木造の家々の前を歩きながら、キムがふいに問いかけてくる。
「魔王株式会社は給料が良かったし、最初は面白そうだと思ったんだ。気づいたときにはもう抜けられなくなってた。」
事実のまま答えつつ、苦笑を添える。愚痴のように聞こえるかもしれないが、会社に不満があるわけじゃない。ただ単純に、働くのが面倒なだけだ。どこに行っても同じ感想を抱くことになるだろう。
「キムは? どうしてわざわざ身を削って働こうと思ったんだ? 家の経済状況なら、働かなくても困らないだろ。」
口にしてから、考えなしで無礼な発言だったと気づき、すぐに謝って気にしないでくれと付け加えた。
「先輩、こういうとき女の子は、質問されたら相手にも聞き返してほしいものなんですよ。」
キムはぱちりと目を瞬かせ、軽く話を広げるように冗談を挟み空気を和らげる。最初は「先輩と結婚するためです」と笑いながら言い、続けて翼を軽く揺らし、落ち着き払った様子で答えた。
「お姉ちゃんなのに妹に全然かなわなくて、少しくらいは悔しい気持ちもあって。だから、自分を証明したくて。でも、頑張れば頑張るほど、自分が不器用だと突きつけられて……どうしていいか分からなくなっちゃって。」
似たような悩みは、別の誰かからも聞いたことがある。ただ違うのは、目の前のキムはそれをもっと明るい笑顔で包み込み、ひらひらと手を振って、自分にまとわりつく嫌な感情を振り払ってしまうところだ。その精神力には思わず感服してしまう。
「今は、方向は見つかったのか? 前より少しは地に足がついた感じになったか?」
思わず口にする。どうせまた告白めいた流れになるだろう、と身構えていたが、返ってきた反応は予想外だった。
「はい、先輩のおかげです!」
キムは両手を背中に回し、軽やかにステップを踏むように跳ねながら、俺に背を向けたまま湖畔の方へと、その答えを投げかけるように口にした。
「先輩に認めてもらえる、立派な社会人になります!」
一瞬言葉を失い、俺は彼女の頭の上のあの丸いお団子を呆然と見つめる。言葉にならない感想が胸に広がり、それをひとまず仕事に関係するものとして片付け、この貴重な休日にまで持ち込んで考える気にはなれなかった。
仕事は仕事、プライベートはプライベートだ。
それが、立派な社会人というものだろう。




