第19話:デートします!
月明かりを浴びる俺たちは、湖面から吹いてくる夜風を感じていた。きらきらと揺れる水面の光が、視界の端でちらちらと瞬いている。目の前のその愛嬌のある笑顔は、言葉にできない感情をあふれさせ、そよ風に乗って、何度も胸を貫いてきた。
行動は言葉より雄弁だといつも思っている俺だったが、心のどこかでその考えを否定した。彼女の頬に浮かぶ赤みの影響もあって、長く沈んでいた思考が、衝動に押されて口から出ようとしていた。
返事をしようとした、そのとき。
「え? ソウル? どうしてここにいるんだ?」
背後から聞き覚えのある声がした。振り返ると、黒髪の少年が目を大きく見開いて俺を見ている。その瞬間、俺は驚いて息をのんだ。
「シロ!?」
◎
「先輩……私たち、もうルーイン市に一週間も滞在してます……毎日ずっと報告書を書いてて……キムの脳みそが萎縮しそうです。」
討伐を終えた朝のあとには、溜まりに溜まった書面報告を片付ける時間が待っている。文書作業が苦手……というより嫌いなキムは、日に日にだらけた様子になり、今日はついにまともにペンすら握ろうとしない。今はそれを鼻の下に挟み、机に突っ伏してよだれを垂らしながら抗議していた。
「キムさん、仕事というものは……」
「忍耐。分かってますよ、だからその呼び方はやめてください……報告書を書くより傷つきます。」
キムは知らないのかもしれないが、大きな都市に滞在する利点の一つは、情報源が豊富なことだ。毎朝ギルドの掲示板を少し見るだけで、報告書に書ける情報が次々に手に入る。これはスパイの仕事の難易度を大きく下げてくれる。せっかくの機会なのだから、キムに慣れさせない手はない。
「お前の報告書はまだ幼児レベルだ。毎回俺が修正してやらないといけない。新人期間は一生続くわけじゃないんだから、早く一人前になれ。」
「え? じゃあ新人期間が終わったら仕事を辞めて、次の日すぐ再入職します! そのときはまた先輩、よろしくお願いします!」
「今すぐお前をステイシー部長のところに回すぞ。」
キムの抗議と奇声を無視しながら、俺は書類の整理と今後の予定をまとめた。それから一時間ほどして、ようやくキムの報告書が提出された。内容は……もちろん相変わらずめちゃくちゃで、また時間をかけて一緒に修正することになった。
文書作業がひと段落したころには、すでに日も落ちていた。すっかり干からびたキムは目が虚ろで、あのピンク色の髪も元の輝きを失っていた。
「キム、もう仕事は終わりだ。」
「はい! お疲れさまです、大好きな先輩!」
その言葉を聞いた瞬間、彼女は机から勢いよく跳ね起き、俺にウインクを送って愛想を振りまきながら、これからどこで夕食を食べるかを次々と挙げ始めた。そして、その様子にも俺はいつの間にか慣れ始めている。
「夕飯の前に、一つ話がある。」
機関銃みたいに並べ立てる夕飯の候補を、まず止めた。興奮に輝く彼女の瞳と向き合ったとき、思わず半秒ほど迷ってから言葉を続けた。
「前に言っただろう、スパイにははっきりした勤務時間はないって。でも休みはある。簡単に言えば、明日は一日休みでいい。さっきガス様にも確認しておいた。」
「わあ、やった! 先輩は何か予定あるんですか?」
「うーん……前にも言ったけど、俺はキムのことをちゃんと知りたいと思ってる。だから、もし予定がないなら、明日街をぶらぶらしてみないか? 行きたい場所があるならそこでもいい。」
自分から言い出すのは少し妙な感じがするが、言ってしまった以上は引っ込められない。それに、いつまでも逃げ続けるのも良くない。
「せ……先輩、それって……私をデートに誘ってるんですか?」
「ただ一緒に出かけるだけだ。デートって言うほどでも――」
「行きます!」
キムは突然立ち上がり、机を思いきり叩いて大声で答えた。
「デートします! わああ、嬉しい嬉しい! 先輩が私をデートに誘ってくれた!」
興奮のあまり頭をぶんぶん振るキムは、まるで輝いているみたいだった。すぐに俺の隣へ駆け寄り、全力で甘えてくる。そのせいで、周囲から好奇の視線が集まってきた。
この街に来てすぐ、あのセクハラ常習犯を叩きのめした日から、キムはギルドでもかなり目立つ存在になっている。今では周囲の人々の顔に満足そうな笑みまで浮かんでいる始末だ。これでは、どれだけ弁解しても誤解は解けそうにない。
◎
大都市の宿屋は清潔なだけでなく、ベッドも格別に柔らかい。陽の光がまぶたを突き抜け、うっすらとした橙色がまぶたの裏に広がっていても、さっと布団を跳ねのけて起き上がるのはなかなか難しい。
強い意志でどうにか上体を起こし、部屋を出た俺は襟元を整えながらあくびをした。頬を軽く叩いて気合を入れると、外の屋台から聞こえてくる賑やかな呼び込みの声が耳に届く。まるで、今日も仕事の日と同じように遅刻するなと催促しているみたいだった。
宿を出て、少し歩いて近くの広場へ向かう。そこには行き交う住民たちの姿があった。陽気に歌う者もいれば、忙しそうに行き来する者もいる。木のベンチのそばにしゃがみ、靴磨きの客を待つ幼い子どもでさえ、顔には笑みが浮かんでいた。大都市ならではの活気を十分に感じさせる光景だ。
そして広場の前に立っている少女――キムは、普段とは違う装いをしていた。
空色と乳白色のワンピースは、彼女の元気な雰囲気によく似合っている。頭の横でまとめたお団子は少し幼く見えて、自然と視線が彼女の顔に向かってしまう。
待たせすぎてしまったのかもしれない。俺は少し歩調を速めてキムのもとへ向かった。すると、俺より先に挨拶してきたのは、彼女の軽やかな翼だった。
「先輩先輩! やっと来ましたね!」
頭上の太陽よりも、キムの笑顔のほうがよほどまぶしい。俺の姿を見るや否や、数歩駆け寄ってきて、嬉しそうに俺の手をつかんだ。
「悪い、待たせたか?」
どう返せばいいのか急に分からなくなり、俺は目を少し細める。結局、いつもの仕事中と同じ調子で応じてしまった。
「実際にはそうでもないですけど、気持ちはもう一秒一秒がやけに長く感じました。」
「大げさだろ……」
キムは目を大きく見開き、下から俺をじっと見上げてくる。口元には期待するような弧が浮かんでいて、俺が何か言うのを待っているようだった。だが、彼女が何を考えているのかよく分からない。仕方なく、そのまま疑問を投げた。
「どうした?」
歯を見せてにっこり笑ったキムは一歩下がり、両腕を広げて体を左右に傾け、その場でくるくると数回回った。最後に軽く跳ねてみせる。まるで何かの踊りみたいな仕草で、そこでようやく彼女が何を示しているのか気づいた。
「うん、その服、よく似合ってる。昨日買ったのか?」
「わあああ! さすが先輩、あっという間に分かっちゃいましたね。嬉しいです! 思わず大声で、先輩のこと大好きって言いたくなっちゃいます!」
休みの日のキムは、いつもの仕事終わりの時間よりもずっと攻めが激しい。いきなり俺の手をぎゅっと握り、そのまま指の隙間に自分の指を滑り込ませようとしてくる。油断した瞬間には、すでに指と指が絡み合った状態になっていて、手を引こうとしてもなかなか離れない。
「キ……キム、これ大丈夫なのか?」
「デートに誘ったのは先輩のほうですよ。このくらいの好意で驚かないでください。」
琥珀色の瞳に、かすかな危うい気配が映る。思わず唾を飲み込み、俺はそれ以上言い返すのをやめた。
「じゃあ、行きましょう!」
俺の手ごと高く掲げると、キムは嬉しそうに大股で歩き出し、賑やかな市へ向かっていく。
その瞬間、俺はまるで角狼に首根っこをくわえられた花果兎みたいな気分だった。
もう逃げ場はない。




