第12話:キムは何だってしますよ
最低階とはいえ、課長という役職を数年務めてきた。部下にどう指示を出すかくらい、とっくに心得ているはずだ。だがキムに仕事を任せるたび、毎回こちらの予想を超える結果が返ってくる。いったい何が問題なのかと、思わず疑ってしまう。
俺は小川のほとりに腹ばいになり、疲れきった体で水を汲んだ。水面に映ったやつれた自分の顔を見て、思わずため息をついたついでに、体についた泥や砂ぼこりも洗い流した。
確かにキムには、営業の女性を連れて戦場から離脱し、できるだけ遠くまで逃げろと指示した。だがまさか、本当に何キロも先まで飛んでいくとは思わなかった。おかげで半日以上歩いても、まだ追いつけていない。
空を飛んでいく雁が、まるで俺を嘲笑っているようだった。不器用に羽ばたきながら幾層もの白い雲を抜けていくその進路は、キムが飛び去った方向とぴたりと一致していた。
休みなく歩き続け、キムと合流した頃にはすでに半日以上が過ぎていた。頭上で照りつけていた太陽は、いつの間にか半月に変わっている。毎日受け取る給料は同じなのに、どうして今日だけこんなに苦労しなければならないのだろう。
「先輩!」
キムが最後に留まっていた場所は、ブーディン共和国の国境にある小さな村だった。小さすぎて名前すらなく、周囲にはわずかな畑と果樹園があるだけの村だ。
「ご苦労……長く待ったか?」
元気いっぱいに羽を動かしているキムの様子を見ると、長旅で疲れているのはどうやら俺だけらしい。
「うんうん、ずっとずっと待ってました。でもちゃんとここで大人しく待ってましたよ。ああ……先輩に会えない時間は本当に辛くて、一日が一年みたいに感じました。」
両手で頬を包み、体をくねらせるキムが持ってきた朗報は、この間にトラブルを起こさなかったということだ。それは素直に褒めていい。
「営業の人は? 無事か?」
「先輩……婚約者の前で別の女の人の話をすると、嫉妬しちゃいますよ。」
キムは腰に手を当て、少し口を尖らせる。俺の眉が下がったのを見ると、すぐにまた軽い笑顔に戻り、俺の隣に跳んできて村の中へ案内しながら言った。
「冗談ですよ。ジェーンちゃんは無事です。村の人たちがとても親切で、薬を塗って包帯を巻いてくれて、休める部屋も貸してくれました。一日ぐっすり寝て、さっきやっと起きたところです。もうかなり元気になっています。」
「魔族だからな。人間よりずっと体は丈夫だ。助かった、ありがとう。」
その話を聞いた途端、胸のつかえが一気に下りた。俺はうなずいてキムに礼を言い、この救援行動の功績を彼女の手柄として記録することにした。
「……」
キムはそれを聞くと目を大きく見開き、見上げてきた。降り注ぐ柔らかな月光が彼女の頬をほんのり赤く染める。沈黙が二人の間に広がったあと、彼女は前に回り込んで俺の両手を取った。仕草の一つ一つから喜びがあふれている。
「気にしないでください。先輩が望むなら、キムは何だってしますよ。」
「……重いな。もう仕事も終わったんだから、少しは気楽にしろ。」
しばらくして、俺は先に視線をそらし、くだらない冗談で空気を誤魔化した。
「えへへ。じゃあ『先輩のこと大好きです』ならどうですか?」
キムは今度は胸に手を当て、わざと甘ったるい声で言う。
最初から「仕事終わり」なんて言い出すんじゃなかった……。
俺は苦笑しながら、キムの後について一晩泊めてもらう家の中へ入っていった。
◎
「すみませんね、大したものは出せませんが。この薄焼きパンも味はあまり良くありませんけど、よろしければどうぞ。」
家の主人は年配の老夫婦で、俺が中に入るとすぐにテーブルの皿を手に取り、こちらへ歩いてきた。
「いえいえ、突然お邪魔したのはこちらですし。お気遣いありがとうございます。」
考えるより先に頭を下げて腰を折るのは社畜の反射だ。行き過ぎた職場仕込みの礼儀作法に、老夫婦は思わず笑い、そんなにかしこまらなくていいと言ってくれた。
「魔族のお嬢さんは、奥の曲がり角の部屋で休んでいますよ。先にお見舞いに行きますか?」
「お二人とも看てくださってありがとうございます。あの……え?」
そこでようやく気づいた。キムが変装に使っていたネックレスはまだ俺の手の中にあるし、怪我をした営業の女性の目も、人間とは違う色をしている。それなのに……どうして騒ぎになっていないのだろう?
「気にしてませんよ。むしろ私の角、かわいいって言ってくれました。先輩はそう思いませんか?」
キムは俺の疑問を一目で見抜き、笑みを浮かべた目でおばあさんに「説明は大丈夫です」と合図してから、俺の手を引いて奥へ歩いていく。
ここは辺境だから、ブディン共和国みたいに魔族を敵視する風潮の影響を受けていないのかもしれない。
俺は勝手にそう解釈した。実際、会社にも人間が設立した商会と長年取引している例は少なくない。莫大な金の流れが絡む以上、国家機関でさえ簡単に介入できず、見て見ぬふりをするしかないのだ。
「ジェーンちゃん! 先輩を連れて帰ってきましたよー!」
ノックもせずに部屋へ飛び込んだキムが、朗らかな声でそう言ったので、中で療養していた病人はびっくりしてしまった。
「うぅ……目が覚めたらキムがいなくて、置いていかれたのかと思いました……」
ジェーンという名の営業は情けない嗚咽を漏らし、キムの腕に頭を預けて甘えている。
……どういうことだ?
シロたちと対峙していた時は、こんな様子じゃなかったはずだが。
「ジェーンちゃん、この人は私の先輩、ソウルです。先輩、こちらはジェーンちゃん。もう私の大親友なんですよ!」
キムは得意げに俺たちを紹介する。もっとも、俺たちは以前から会社で何度か顔を合わせていた。ただ、互いの名前を知ったのは今が初めてなだけだ。
「ソウルさん、はじめまして。助けていただいて本当にありがとうございました。あの時は本当にもう助からないと思って……うぅ。」
「無事でよかった。会社には労災の補助を申請しておくといい。」
記憶が正しければ、ジェーンさんは入社してまだ二年も経っていない。立場で言えばキムの方が後輩のはずだが……どうやら彼女はすっかりキムのお嬢様みたいな雰囲気に圧倒され、喜んで妹分になっているらしい。
「わかりました。ソウルさん、ご心配ありがとうございます。」
ジェーンさんの返事こそ、職場の先輩に対する正しい接し方だ。キムのあまりに自由すぎる態度に毒されていた俺は、ここでようやく我に返った。明日からはちゃんと、オフィスの礼儀とは何かを教え込もう。
「そうそう、先輩って呼んでいいのは私だけですからね。ジェーンちゃんは勝手に使っちゃだめですよ。」
「ふふ、わかりました。キムちゃん、絶対に幸せになってくださいね。」
「あなた、いったいどんな変なことを教えたんですか?」
「変なことじゃありませんよ。ただ先輩への愛慕を、包み隠さず語っただけです。えへへ。」
「……ジェーンさん。怪我の件、会社に報告しておきましょうか?」
これ以上キムとこの話題で言い合っても、からかわれるだけだ。今日はもう十分疲れた。この古い話題でぐるぐるするのはやめておこう。
同僚を気遣うのに勤務時間も何もない。ジェーンさんの体調が問題ないなら、あとは彼女が対応手順を把握しているか確認するだけだ。
「さっきもう報告しました。キムちゃんも事情を補足してくれましたし。ありがとうございます。部長がこちらに来るそうなので、お二人は……」
「待て! それって……営業部長の、ステイシーさんか?」
その言葉を聞いた瞬間、額に冷や汗がにじんだ。
「え? そ、そうですけど……どうかしました?」
「キム、逃げるぞ。」
「えっ? 先輩、どういう意味ですか?」
「説明してる時間はない。このままだと――」
「ジェーンちゃーん! 部下のお見舞いに来たわよー!」
言い終わる前に、ポニーテールの女がキム以上に派手な勢いでドアを蹴破って乱入してきた。両腕には巨大なオーク樽を一本ずつ抱えている。
俺を見るなり目を細め、極端にずるい笑みを浮かべて言った。
「ソーウールくーん! うちの可愛い子分がお世話になったみたいねぇ。今夜は一人一樽よ!」
……ついてない。
俺は思わずこめかみを押さえ、大きくため息をついた。




