第一章【RESTART】第七話『PROMISE』
全身にまとわりつく泥のような空気も、強く締め付けられる感覚も全て、漆黒の闇に呑み込まれていく。
____その深い闇の向こうから、幼い頃の自分の声が聞こえた。
「きみは、どこからきたの?」
学校から帰る途中、この世のものとは思えない、小さな生き物が木陰に隠れて佇んでいるのを見つけた。
ぬるぬると蠢き、不気味で小さな紫色の触手。
目玉が一つ、触手の中央で瞬きしている。
普通ならば、その不気味な存在を見た瞬間、嫌悪感を抱いたり、見て見ぬふりをしてその場を立ち去っていただろう。だが、この時の俺はなぜか、そんな感情よりも親近感を抱いた。
「暑くて動けないの?」
俺は持っていたランドセルを置き、目線を合わせた。
そして、そっと手を差し伸べる。
真夏の太陽は容赦なくアスファルトを焼きつけ、陽炎がゆらゆらと揺れている。照り返しの熱が足元から這い上がり、紺色のランドセルも日差しを吸い込んでじりじりと熱を帯びていく。
不気味な触手はなにも答えない。
「何か言ってくれないと、分からないよ…。」
俺は落胆したように差し出した手を引こうとした。
すると。
ピト。
冷たい何かが、俺の手を引き止めた。
見ると、不気味な触手が木陰からその先端だけを伸ばして、俺の指先を強く掴んでいた。しかし、俺に触れようと無理に身を乗り出したせいで、その先端が日差しの中へ飛び出す。
次の瞬間、触手の表面がジュッと音を立てて赤く焼け、白い煙が立ち上った。
「え!?もえてる!?」
俺は慌てて、掴まれた手を木陰の中に戻した。
すると、先ほどまで焼け焦げ、煙を上げていた先端が、瞬く間に再生していく。まるで、何事も無かったかのように、元の姿に戻っていた。
「もしかして、日の当たる場所に出れないの?」
「イー…。」
甲高い声が俺の言葉に答えた。
「喋った!」
俺は、日の当たる場所に出られず困っている不気味な触手のことよりも、初めて声を発してくれたことが嬉しくてたまらなかった。
「あ!そんなことより、ねえ、行くところがないなら僕と一緒にこない?」
「イー…?」
「そこから助けてあげる!その後…きみのお世話をしてあげるってこと!」
俺はランドセルの中から教科書を出す。
「ほら!こうすれば日に当たらないでしょ!」
俺は改めて、教科書を屋根のように被せながら手を差し伸べた。
「僕と一緒に行こ!」
不気味な触手はゆらゆらと蠢くと、ゆっくりと近づき、ちょこんっと俺の手のひらの上に飛び乗った。
「イーッ!」
不気味な触手は警戒心を解いたかのように俺の手のひらにすり寄る。
ヌメヌメとしているように見えたが意外にもサラサラとした表面で、むにむにしていて気持ちが良かった。
「よし!今日からきみの名前は、鳴き声がいーだから…いーちゃんだ!よろしくな!」
「イーッ!」
そう言って俺は、教科書で影を作りながらいーちゃんを持って、帰り道を歩いていった。
小学生の頃、親の仕事の都合で何度も引越しを経験していた。そのせいか、環境が変わるたびに人との距離を感じるようになり、いつしか友達が少なく、人と話すことも苦手になっていた。学校の休み時間でも一人で過ごすことが多くなり、誰にも言えない寂しさを抱え続けていた。
だからだろう。
不気味な姿をした生き物を見ても、不思議と怖いと思わなかった。
それどころか、一人でいる姿はどこか自分を見ているようで放っておけなかった。
──────。
それからは毎日のように俺といーちゃんは一緒に過ごした。
学校でも。家でも。
俺は誰にも言えない話をいーちゃんに話し、いーちゃんはそんな俺の話を優しく受け止めてくれる。
一緒にご飯を食べて、一緒に寝て、一緒に遊ぶ。
「ねえ、いーちゃん。いつも僕の話を聞いてくれてありがとう。」
「イーッ!」
「きみのおかげで寂しくないよ。」
紺色のランドセルが黒くなっても。
お気に入りの靴が泥だらけになっても。
教科書がバラバラになっても。
いーちゃんが傍に居てくれるなら、全てがどうでもいいように思えた。
きみがいてくれるなら___。
だけど、そんな幸せな日々が永遠に続くはずもなかった。
──────。
「お前さ、いつも誰と喋ってんだよ!」
ドゴッ!
右頬に激しい衝撃が走り、視界が大きく揺れた。
ドサッ。
「だから気持ちわりいって言われんだよ。お前、自覚ねえのか?」
小学校の頃から同じクラスメイトの一人だ。
中学に上がっても、誰もいない場所で誰かと話している俺を、気味悪がってからかっていた。
「ぼく、俺は…。」
「だーかーらっ、きめえって言ってんだろ!」
ドゴッ!バコッ!ガンッ!
何度言ったところでどうせ理解されない。俺はいーちゃんが見える。だけど、みんなはいーちゃんが見えない。
俺だけが見える子だから誰も信じてくれないんだ。
──────。
「いい加減にして…お願いだから……。」
女性の搾り出すような声が、冷たく耳を刺す。
「いつになったら、その気持ち悪い独り言が無くなるのよ…。ねえ、私、どんな気持ちであなたを育てていけばいいの?どうして……どうしてまともな普通の子に育ってくれなかったの…!」
そう言って女性は俺の目の前で崩れ落ちる。
「違うんだ、母さん。本当に見えるんだよ。今だって母さんの後ろに…。」
「喋るなっ!!」
バチンッ!
乾いた音とともに頬へ強い衝撃が貫き、耳の奥でキーンという耳鳴りが響いた。
視界がぐらりと揺れる。
「何度言ったらわかるんだ…!そんなもの、いるわけないだろ!」
「俺の話を聞いてよ!父さん!俺は…。」
「あそこに何がいるって言うんだ!どうして…お前は普通になれない…!俺が、俺たちが何をしたって言うんだ…なんでお前は……。」
荒い息を吐きながら、父さんが俺の肩を狂ったように揺さぶる。その目は怒りではなく、見たこともない激しい恐怖に怯えて揺れていた。
歳を重ねるにつれ、見えるものは少しずつ増えていった。だが、それらは時に悪さをする。そんな光景を、俺は何度も目の当たりにしてきた。どうしようもないこの気持ちを誰かに聞いて欲しかった。ただ、「大丈夫だ」と慰めて欲しかった。それなのに、俺の言葉に耳を傾けてくれる人はいない。
幼い頃からそうだ。
両親も。
先生も。
近所の大人たちも。
みんな揃って気味の悪いようなものを見るような目を向けてくる。
まるで、俺がおかしな人間だと言うように。
──────。
夜の静寂の中、窓から差し込む月明かりが床を淡く照らしていた。青白い光は部屋の隅々まで広がり、家具の影を長く伸ばしている。
頬にはまだ熱が残り、触れなくてもじんじんと痛みが脈打っていた。
俺はベッドに寝たまま窓際でこちらを見ているいーちゃんに話しかけた。
「いーちゃん。」
「イーッ!」
「これからもずっと友達でいてくれるよね。ずっと、僕と一緒だよね?」
「イーッ!」
「約束だよ。」
甲高い、いーちゃんの声を聞いて俺は安堵したように微笑んだ。
誰も、俺の言葉を信じてくれなくたっていい。
俺の気持ちに寄り添わなくていい。
君さえいれば何もいらない。
君さえいれば____。
──────。
いつからだっただろう。
いーちゃんがいなくなったのは___。
どうして忘れていたのだろう。
本当は最初から分かっていたはずなのに。
あの怪物は___。
いーちゃんにそっくりだった。
そして、あれは___。
『邪神』だ。
──────。
???「邪神は卑劣で嘘つきだ。」
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