第一章【RESTART】第六話『REGRET』
※ 一部、過激な描写を含みます。
「悠真!!!!!!!!」
突然、大輔の叫び声が響いた。
ドンッ!
横から強烈に突き飛ばされる。
(……なんだ?)
視界の中で、大輔の顔がはっきりと見えた。
血の気が引き、青ざめた頬。
_____おかしい。
突き飛ばされた直後のはずなのに、どうして俺はこんなにも長く大輔の顔を見ていられるんだ?
不思議だった。
体は今もなお、空中に浮かんでいる。
自然と視界に映る自分の腕や足は、思うように動かせない。
まるで空気そのものが泥に変わり、体にまとわりついているようだ。
体は横向きに傾いたまま、ゆっくりと地面に近づいていく。
地面はすぐそこに見えている。
手を伸ばせば届きそうなほど近い。
それなのに、体はなかなか触れることができない。
落ちているはずなのに、落ちていない。
地面に辿り着くまでの時間が、異様なほど長く引き伸ばされたように感じた。
ドスッ。
突然、世界が元の速度を取り戻した。
気づけば、俺は倉庫の外に突き飛ばされていた。
「大輔……何が起こってるんだ?」
俺は地面に手をつき、なんとか体勢を立て直す。
肺に溜まった空気を吐き出しながら、すぐに倉庫の中へと視線を向けた。
そこで、息が止まった。
大輔の両足は宙にぶら下がっていた。
床に届かない足が何度も空を蹴るたびに、大輔の体は大きく跳ねる。
視線を上に向けると、『怪物』らしき巨大な影が倉庫の中に広がっていた。そして、そこから伸びた黒い突起が人間の手の形に変形し、雑巾を絞るかのように、大輔の首を力強く握り締めている。
掴んでいる手は黒く、女性のように綺麗な手だった。
大輔は必死にその手を引き剥がそうと両手でもがいていた。
しかし、首を掴んでいるはずの黒い手に触れることができない。
何もない空間を掻きむしり続ける。
ガリガリガリガリガリガリガリガリ。
大輔の指は何度も何度も、自分の首を引っ掻いていた。
爪が首に深く食い込み、傷口をさらに広げていく。
皮膚が熟しすぎた果皮のようにペリペリと弾けて裂けていく。
血が混じって、剥がれかけた薄皮が爪と肉の狭間にびっしりと詰まり、削り取られた皮膚の破片が指の隙間にねっとりとへばりつくのがはっきりと見えた。
首からは赤い血が滲みだし始め、そこから滴る血は首筋を伝い、鎖骨へと細い筋を描きながら流れ落ちていく。
ポタッ。
雫が地面に落ちる音が聞こえた。
あのままでは首から出血して死んでしまうだろう。
そんな最悪の考えが頭をよぎった瞬間、俺は強く首を振った。
(何バカなこと考えてるんだ…!)
早く大輔を助けないといけないのに…悠長に観察している場合じゃない。
倉庫の中で大輔に突き飛ばされた時、俺は時間の中をゆっくりと流れていた。
しかし、倉庫の外に出た途端、時間の流れは元に戻った。なら、外から攻撃すれば、時間感覚に影響されないんじゃないか。
俺は付近を見渡した。
周りにはまだ片付けられていない、三角コーンの山やバットとラケットが入ったカゴが残っていた。
(このバットなら使えるかもしれない。)
俺はカゴの中に入っている金属製のバットを選び、大輔の首を締めている黒い手に狙いを定めた。
バットを握った右手を大きく後ろに引く。
……本当に、これで助けられるのか?
もし、時間感覚の歪みが物にまで影響したら___。
俺は投げようと思っていたバットを一旦下ろした。
俺の行動も、考えていることも、全てが相手の手中だったらどうする?
そもそも大輔を助けることなんて不可能なんじゃ…。
思考が全てマイナス方向に流れていく。
打開策が何一つ浮かばない。
それでも、一秒でも早く動かなければ大輔は死んでしまう。
「なんで俺なんか庇ったんだよ…。」
大輔の口元から、白い泡がいくつも溢れ出し始めていた。
目は大きく見開かれ、焦点はあっていない。
(だめだ!考えている暇がない!もし立場が逆で大輔だったら、親友のために何がなんでも助けようとするはずだ!だったら、俺も大輔みたいに行動しないと!)
ブンッ!
俺は思いっきりバットを投げ込んだ。
バットは倉庫の中に入り、勢いを落とさないまま、黒い手に向かってまっすぐ飛んで行く____。
はずがなかった。
現実は、アニメや漫画のように都合よくできてはいなかった。
普段からバットのような重たいものを投げていなかった俺が、そんなものを狙い通りに投げられるはずもない。
勢いよく飛んでいったバットは黒い手の下方向へと大きく逸れ、そのまま壁にぶつかって床へと落ちていった。
ガシャァンッ!
壁にぶつかった金属バットが床に落ち、甲高い音が倉庫中に響き渡った。
黒い手がピタリと動きを止める。
ズル。ズル。ズル。
黒い手しか実体化していなかった怪物は、影となっていた部分を煮えたぎる黒い泥のようにぼこぼこと膨れ上がらせ、そのまま全身を形作るように姿を現し始める。
それは世界の法則から外れた異形の存在だった。
黒く濡れた肉塊は脈打つように蠢き、蛸のような触手が幾重にも伸びていた。表面には全身を覆い尽くすほどの無数の目玉があり、不規則に瞬きを繰り返しながら、一斉にこちらを見つめている。
顔面と思しき中央には、体育の授業の時に見た影の中で横たる三日月があった。
その三日月は影を切り裂くような青白く光を放ち、裂けた口の奥からびっしりと生え揃った鋭利な鋸歯を覗かせていた。
「うっ……!げほっ……お゛ぇ……」
視界を埋め尽くすほどの瞳に見つめられ、背筋を這い上がるような悪寒と共に、胃の奥から強烈な吐き気が込み上げた。
見つめられているだけなのに、まるで身体の内側まで覗き込まれているような錯覚に陥り、俺の身体は本能的な拒絶反応を示した。
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
その瞬間だった。
目の前で必死に首を掻きむしっていた大輔の腕が、ぱたりと落ちた。
指先から力が抜け、腕は重力に従うようにだらりと垂れ下がる。
大輔はピクリとも動かなかった。
さっきまで必死にもがいていた体は、今はただ、力なく揺れている。
ニタッ。
怪物はこの瞬間を待ちわびていたかのように裂けた口を酷く吊り上げ、目玉をグルリと大輔の方に向けた。
首を絞めていた手を緩め、その代わりに数本の触手を使って大輔の四肢を持つ。
まさに人形のようだった。
意識を失った大輔の体は、四肢を捕まれ、ただ怪物の思うままにゆらゆらと弄ばれている。
ゴキ……。
嫌な音が聞こえた。
メキ…メキメキ……。
ギギ…ミシミシ……。
「おい!やめろ!」
バキッ。
バキ……バキバキバキッ!!
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
バキンッ!!
触手に弄ばれた四肢は、俺の知る人間の形とは大きく外れた方向へと曲がり、不自然に歪んでいた。
「大…輔……。」
声を掛けても返ってくるはずがなかった。
ただ、目の前の光景だけが、現実であることを突きつけてくる。
俺は思わず両手で顔を覆った。
どうして大輔を頼ってしまったんだ。
なぜ、大輔を巻き込んだ。
大輔をここに連れてきてしまった後悔が、俺の心を埋め尽くす。
ケラケラッ。
目の前の怪物から、耳障りな音が漏れ出した。
ゲラゲラゲラ……ケラケラケラケラケラケラケラケラケラケラケラケラケラケラケラケラケラケラケラケラッ。
その笑い声のような不気味な音は、倉庫の外まで響き渡った。
怪物の笑う音が何度も俺の耳を刺した。
ケラケラケラケラケラケラ。
「黙れよおおお!」
ドンッ!
俺は思いっきり拳を地面に叩きつけた。
痛みは感じなかった。
ただ、この怒りをどこかにぶつけなければ、どうにかなってしまいそうだと思った。
…………。
怪物の笑う音が止む。
そうだ…。
さっきはなんで姿を現したんだ?
影の中からでも今のように触手を出すことはできるはずだ。
姿を現したのは、俺が金属バットで音を立てたからだ。
体育の時も俺が音を立てたら消えていた。
こいつは、音に敏感なんだ。
なら……まだ、やれることがある。
俺は怪物にばれないようにゆっくりと顔を上げて、大輔を見る。
焦点はあっていない。
だが、顔色は悪くない。
まだ、生きてる。
俺は静かにその場に立ち上がる。
これが、大輔を助ける最後のチャンスだ。
(怒り任せに行動するのは俺らしくないよな。大輔。)
一歩一歩、ゆっくりと進んでいく。
俺は表情を崩し、穏やかな顔で金属バットを持って、怪物の前に立つ。
まるで、赤子をあやす時のように。
「………。」
怪物は俺の行動が理解できないのか、わずかに動きを止めた。
(今だっ!)
俺は思いっきりバットを倉庫の中に投げ込んだ。
一度目とは違う。
今度は高く、そして大輔とは反対の方向へ。
投げ込まれたバットは怪物の身体をすり抜け、そのまま倉庫の奥の壁へとぶつかった。
ガッシャャン!!
金属音が響き渡る。
怪物の目玉は音の方向に向いている。
上手くいった。
俺はもう一本隠し持っていたバットを振り上げながら、大輔の方に飛び込んだ。
重たい泥のような空気が体にまとわりつき、体全体がゆっくりと時間の中を流れ始める。
それでも、手にしたバットは違った。
バットが落ちる速度は変わらない。その動きに引っ張られるように、バットを握る腕だけが通常の速度で動いている感覚があった。
歪んだ時間の中でも、物体は本来の速度を保つ。
だから、俺の腕はバットの動きに合わせることができる。
(大輔。お前だけは、絶対に助け出してやるから。)
振り下ろした腕の先に、大輔の体がある。
俺はバットを瞬時に離し、大輔の服を掴んだ。
離されたバットが再び倉庫の床に叩きつけられた。
ガッシャャン!!
その瞬間、大輔の四肢を掴んでいた触手が緩む。
「おらあああああああああああああ!」
渾身の力を込めて、大輔を扉の方へ投げ飛ばした。
時間感覚は歪んでいるはずだ。
だが、この瞬間だけはその歪みに飲み込まれていないような気がした。
グルッ。
安心したのは、ほんの一瞬だった。
俺の体はすぐに触手によって絡め取られ、強く締め付けられる。
首、両手、両足をヌメリを帯びた太い触手が強く締め上げ、メキメキと骨が悲鳴を上げている音が体の中から聞こえた。
首を強く圧迫されることで酸素が絶たれ、意識が朦朧とし始める。限界を超えた肺が酸素を求めて、呼吸しようと反射的に口を開いた。
その瞬間を怪物は見逃さなかった。
びっしりと無数の目玉が蠢いている触手が、開いた口内へと容赦なく入り込んでくる。
湿り気を帯びた気味の悪い感触が舌を押し潰し、喉元を直接踏みにじる。
さらに、触手の表面に着いている無数の目玉が、ポロポロと音を立てるようにして次々と剥がれ落ちていく。
一つ、また一つと喉の奥を滑り落ち、胃の中へ沈んでいく感覚が全身を駆け巡った。
喉の奥に転がり落ちていく目玉の感触と、酸欠による強烈な目眩が、俺の意識の輪郭を容赦なく削り取っていく。
(ごめんな、大輔……巻き込んで。)
視界が急速に暗転し、全てが闇に飲み込まれていく。
倉庫も。大輔も。怪物も。
そして____。
視界の端で、見覚えのない一本の触手が蠢いたような気がした。
だが、それが何者なのか理解するより先に、俺の意識は、そこで途切れた。
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