第一章【RESTART】第十一話『運命の引力』
人は神を信じるだろうか。
強烈な衝撃とともに、二つの影が荒々しく揺れ動く。
肉を殴りつける嫌な音が響き、容赦のない痛みが全身を駆け巡る。まだ大人になりきっていない、細い身体は、その暴力の重さに耐えかねて、簡単に床へ叩き付けられた。
もし、この世界に神様がいるとしたら__。
——こんな運命になるはずがない。
「ゲホッ!はあ…はあ…。」
激しく咳き込み、制服の襟元を血で濡らしながら、乱れた呼吸を整えようと必死に空気を求める。
頭上からは、今の僕では到底敵わないだろう、男の苛立った足音が迫っていた。
救いのない世界。
神が僕を見て見ぬふりをするのならば——。
僕は【邪】にだって縋ってやる。
────。
この絶望の日々が、僕をここまで動かしてきた。
暗闇の中、僕は自分の血で描いた陣の中心に立ち、静かに呟く。
「僕のすべてをあげる。だから、出てきて……」
「邪神」
ポタっと、静かな音が静寂に包まれた部屋に響いた。
指先から溢れ出した一滴の鮮血が、床に描かれた陣の中心へと滴り落ちる。
その瞬間、血を吸い上げた陣の模様が、まるで脈打つ血管のように波打った。周囲の家具や壁の影を全て跳ね返すような、激しく禍々しい漆黒の光が部屋全体を強烈に照らし出す。
——グポッ、グポポポッ。
マグマのように湧き上がった光の渦の中から、粘つく嫌な音が響き始めた。
光の裂け目がドロドロとした黒い泥沼へと変貌し、そこから這い出でるようにして、生物の理を外れたおぞましい姿が形を成していく。金属製のように見える無数の棘、ぬめり気のある巨大な肉塊。
視界に入れるだけで精神を削り取られるような狂気を体現したような化身が、少年の前に現れた。
『三千年の眠りからこの俺を呼び起こすとは、とんだ度胸だな…人間。』
脳内に直接響くような、重苦しい声が黒い塊から発せられる。
『まあいい。お前のすべてが代償だったな?何でも願いを言ってみろ。億万長者になるでも、世界最強の力を得るでも、なんだってこのグラーキが叶えてやる。』
邪神の言葉を少年は静かに受け止めた。
その瞳は、既に神を見限り、自らの意思で暗闇へ足を踏み入れた者だけの冷徹な確信が宿っている。
『なるほどな……。大したことじゃないが、それだとお前の寿命、少し余っちまうな。……まあいいか。お前、名前は?』
巨大な黒い塊が少年の視界を埋め尽くす。常人ならすぐに狂いだすような圧倒的な威圧感を前にしても、少年は眉ひとつ動かさず、まっすぐにその異形を見据えて自らの名を告げた。
「僕は……。」
────────────────────────
——————ピピピピピ、ピピピピピ!
枕元で激しく震えるスマートフォンの無機質なアラーム音が静寂を乱暴に引き裂いた。
『ノートン!起きろ!早くこのやかましい電子機器を止めてくれ!』
脳を直接揺さぶるような大声に、ノートンは強制的に意識を引きずり戻された。
「また、あの頃の夢か……はあ、グラーキうるさい…。」
重い瞼の裏で、まだ夢の名残がチカチカと点滅している。
うめき声を漏らしながら枕に顔を埋め直そうとしたその時だった。
再び脳内で怒号が響き渡る。
『おい!?ノートン寝るな!早く止めろ!!』
ノートンの内側に潜む居候——グラーキの声だった。
あの時、グラーキと契約を交わして以来、ノートンの身体にはこの古い存在がべったりと取り憑いている。こうして頭の中に直接語りかけてくるのは日常茶飯事で、思考や感情まで筒抜けだ。プライバシーという概念は存在しない。ノートンが一人になれるのは、グラーキがほんの気まぐれで口を閉ざしている短い時間だけだった。
「僕これから二度寝するから、おやすみ。」
枕元でけたたましく鳴り響くスマートフォンに目をやり、僕は再び枕に顔を埋め直そうとする。
すると、頭の奥から意地の悪い、笑いの含んだ声が返ってきた。
『お前、この前『なんちゃら語』の出席が足りなくて単位を落としそうとか言ってほざいていなかったか?まあ、お前が留年しようがなんだろうが、無様な姿を拝められるなら大歓迎だがな。』
「あ、忘れてた。今日の一限、国語じゃん。」
グラーキの言葉に一瞬だけ思考がフラットになる。
ノートンはスマートフォンのアラームを止めると、そそくさと朝の支度を始めた。
台所の冷蔵庫を開け、手前に並んでいるゼリー飲料を一本取ると、それを器用に口に咥えたまま、一切の無駄のない動きで制服に着替えていく。
そして、鏡の前に立ち、ワックスを使って髪の毛を丁寧に整える。最後に、半袖のワイシャツの上からフードの着いた上着を着て、外からの境界線を遮断すれば、完成だ。
「行くよ、グラーキ。」
扉に手をかけ、外に足を踏み出す。
外はまだ、お日様も寝坊しているのか、薄暗い静寂が街を包んでいた。
けれど、ノートンが歩き出すと、同時に地平線から朝日が顔を出し、その背中をゆっくりと照らし出す。
ノートンはフードの陰から無感情な目で前を見据え、ただ淡々と、学校に向かって足を動かしていった。
──────。
『聞いたかノートン。今日転校生っていうのがお前の学校に来るってよ。』
グラーキがやけに楽しそうに、声を弾ませて言った。
「はあ…それ、どこ情報?」
『さっき近くを歩いていた人間が話してたぜ。美味そうな匂いがした。』
グラーキは人間のことになると、すぐに食欲に結びつける。全く、ここまで手懐けるのにどれほど苦労したことか。
ノートンは内心でため息をついた。
彼は重い足をゆっくりと動かし、学校へと続いていく通学路を歩く。
転校生なんて、ノートンにとっては心底どうでもいい事だった。居てもいなくても変わらないし、自分の平穏な学校生活が邪魔されなければ、気にする価値すらない。
なのに、どうしてグラーキはこうも楽しそうにしているのだろうか。
今のグラーキの態度が、ノートンには少しだけ不思議に思えた。
ドスッ。
鋭い衝撃が、ノートンの肩に走る。
「てめえっ!ちょっとツラ貸せよ」
すれ違いざま、わざとらしく肩をぶつけた男が、濁った声を荒らげた。
あからさまにガラの悪い、自分より倍の体格差がありそうな男が、獲物を値踏みするかのような歪んだ笑みを浮かべ、ジリジリと距離を詰めてくる。
「はあ...なんですか」
ノートンは露骨に面倒そうな声を漏らす。
抵抗する気力を見せない彼を絡みやすいと踏んだのか、男はノートンを逃げられないよう壁際へと追いやっていく。
周囲には人だかりができ始めた、その瞬間___。
男の目の色が変わる。
「その澄ましたツラ、叩き潰してやるよ!!」
男は容赦なく右拳を振り抜いた。
空気を切り裂く重たい拳。だが、ノートンにとってはそれはあまりにも退屈で、あまりにもスローモーションな一撃に過ぎなかった。
スカッ。
ノートンは首を少し傾けただけで、その拳をすんなりとかわす。
「めんどくさ。」
ぽつりと呟いた瞬間、ノートンの身体が凄まじい速さで動き出した。
男は信じられないようなものを見るように目を見開く。
空振りの勢いで泳いだ男の懐へ、ノートンは音もなく踏み込んでいた。
目にも留まらぬ身のこなしで相手の懐に潜り込み、一切の無駄がない動きで、その腰と腕をガッチリとホールドする。
「がっ……!?」
抵抗する隙すら与えない。
ノートンはまるで玩具でも扱うように、己の倍ある男の巨体を軽々と宙へ吊り上げる。
圧倒的な筋力と、一切の無駄な動きを削り落とした格闘技術。
流れるような動作のまま、ノートンは男の体をコンクリートの地面に叩きつけた。
ドスンッ——。
背中から激しく叩きつけられた男の肺から、強制的に空気が絞り出される。
男は悲鳴をあげることすらできず、ただ地面に組み伏せられたまま、見上げる位置にあるノートンの顔を呆然と凝視することしかできなかった。
「骨、折れたでしょ。早く病院行った方がいいよ。」
見下ろすノートンの瞳には、光が一切存在していなかった。
なんの感情も、なんの気力も宿っていない、底の知れない虚無の顔。
「ヒッ……あ、あ、……!」
男の顔が恐怖に引きつる。
その顔は、ただの強い人間に向けられる恐怖ではなかった。
まるで、目の前の青年の中に、計り知れない恐ろしい獣が眠っているのを本能で察知してしまったかのような、根本的な恐怖。
男はその場に居られないと言わんばかりに、体勢を整える余裕すらなく、這いつくばりながら、逃げ去っていった。
「あいつ、いらないのか?食っていいか?」
頭の中で、グラーキが飢えた声を出す。
「別にいいよ。でも、僕に迷惑かけないでね。」
ノートンが淡々と許可を出すと、彼の足元にある影が、意志を持ったように不気味に蠢きはじめた。
その影は本体から切り離されたかのように、今しがた逃げていった男の後を追って、音もなく伸びていく。
それを見送ることもせず、ノートンは自身の制服についた埃を小さく叩いて払い落とした。
ピタッ。
突然、払っていた手を止める。
ねっとりと張り付く視線を感じた。
ノートンは何かに気づいたかのように、その視線の主へと目を向けた。
人混みに紛れて、こちらを見ていたのだろう。
自分と同じ制服を着た同級生らしき人影と目が合った。ノートンと視線がぶつかった瞬間、ハッとして気まずそうに目を逸らした。そして、駆け足で去ってしまった。
「……話しかけてくれればいいのに。」
ぽつりと零れたその声には、冷ややかさとは裏腹にほんの少しの寂しさが滲んでいた。
しかし、去っていく背中に届くことはない。
ノートンは再び重い足を動かし、退屈な学校への道を歩き始めた。
─────。
ガラッ。
扉を開けて教室に入ると、ノートンは周囲に視線を向けることもなく、自分の席に直行する。椅子を引き、机の上で無造作に腕を組むと、そこへ頭を突っ伏して深く沈み込んだ。いつものように、眠りで世界をシャットアウトする体勢だ。
しかし、今日はやけに教室が騒がしい。
どうやらクラス中が、グラーキが口にしていた例の転校生の話で持ち切りのようだった。
「ねえ、どんなやつかな?」
「噂によると、フランス人らしいよ。」
そんな無邪気な会話を雑音のように聞き流しながら、ノートンはゆっくりと意識を落としていく。
そうして、数分間ほど浅い眠りに落ちていた時だった。
——ガラッ。
教室の扉が開く。
「よし、全員席に着いたな。えー、もうみんな知ってると思うが、このクラスにフランス出身の転校生が来ます。何度か日本には来たことがあるので、言語については心配しないでくれ。ただ、久しぶりの日本ってことで慣れないことも多いと思うから、みんな助けてやれよ。」
その先生の言葉の後に、再び扉が開いた。
——ガラッ。
「じゃ、自己紹介して。」
「フランスから来ました。バイパー・アル・バルアシスです。」
最後まで読んでいただきありがとうございます!
投稿頻度は遅めですが気長に待っていただけると助かります。
『★★★★★』評価や、「ブックマーク追加」、感想・レビュー等していただけると励みになります!
少しでも「面白かった!」と思ったら是非ともよろしくお願いします!




