第3話 望月理子の考察
物理教師・望月理子の朝は早い。いつものように、彼女の領域である物理室で、午前の授業の準備を整えていた。
「ふうっ。こんなところかしらね」
電流計の端子を調整した理子はひと息付こうと、実験器具に紛れ込んでいるコーヒーメーカーのサーバーを手に取った。愛用のカップに淹れたてのコーヒーを注ごうとした時、窓越しに早足で歩く男子生徒が横切った。
――ん、今のは神崎君?
神崎律は大平高校史上、最高の秀才と謳われている。特に物理への造詣が深く、その冷静な洞察力には物理教師である理子も一目置いているのだ。そんなクールな秀才が、なにやら慌ただしく通り過ぎていった。廊下を曲がった先にある、職員室に向かっているようだ。
「おっはようございまーす!」
秀才は元気な挨拶とともに、勢い良く職員室の扉を開け放つ。彼は職員室の中を覗き込んで、室内をキョロキョロ見回した。
「神崎! ……じゃない、小鳥遊先生はいますかあ?」
いつも物静かな印象の彼が、勢いよく職員室に飛び込んできたことに、室内の教師たちは面食らって言葉が出ないようだった。
彼、律が昨日までの自分の席を確認していると、不意に後ろから落ち着きのあるハスキーボイスが聞こえた。
「神崎君?」
「うおっ!」
振り返ると、茶髪のゆるふわパーマをなびかせ、白衣の下に黒いタートルネックとタイトなペンシルスカートを着用した、眼鏡の女性が立っていた。望月理子だ。
「……なんだ、リ……望月先生か」
「あら、教師に『なんだ』はないでしょう? 小鳥遊先生なら出勤してすぐ、校舎付近の見回りに出たわ。ここには戻らずに、直接ショートホームルームに向かうって」
「……そ、そうですか、望月先生」
――あんにゃろ! こうなることを見越して逃げやがったな?
「小鳥遊先生に用件があるなら、後で伝えとくけど?」
理子は、あごに人差し指を添えながらニコリと微笑む。律は慌てて両手を振った。
「いや、大した用事じゃないんで! では、失礼しました!」
「ちょっと待って……神崎君、襟元が乱れてるわよ? いつもキッチリしてるあなたらしくないわね」
「あ、ああ! これは失礼!」
少年は襟のボタンをはめながら、足早に廊下を歩き去っていく。その彼の背中を、理子は実験体を観測するような視線で見送った。
「ふわあ、良い天気だなあ。今日の授業は良く眠れそうだ」
一年D組の教室の窓から流れてくる春の陽射しを受けて、男子生徒が気怠げに呟いた。
「んな事言ってると、またタカセンにどやされるぞ?『根性が足らん!』って」
「暑苦しっ! まあ、嫌いじゃないけどな。赤ジャージはダサいけど面倒見は良いし」
男子生徒ふたりがそんな会話をしていると、教室の扉の窓に人影が映った。タカセンだ。
「おーす! お前たち、今日も元気かあ!?」
「はーい、元気でーす!」
いつもなら、そんなやり取りがノリの良い生徒たちと繰り広げられるのだが……。
「……おはよう」
物静かに教室に入ってきた担任の姿に、一年D組の生徒たちは少なからぬ衝撃を受けた。
「えっ、スーツにネクタイ?」
「筋肉ゴリラだと思ってたけど……意外と細マッチョ?」
ザワザワとする生徒たちを、彼らの担任が冷たい視線で見回すと、教室がシンと静まりかえった。
「……私語は慎むように。では、ホームルームを始める」
いつもの暑苦しいタカセンが、何やらイケてるオトナになっている! 生徒たちに広がる動揺に対して、タカセンは極めて冷静に、ホームルームをルーティン通りにこなすのだった。
ホームルーム後、一年D組の教室を出た大吾が職員室に向かって廊下を歩いていると、途中の物理室のドアから望月理子が出てきた。彼は軽く会釈して通り過ぎようとする。
「大吾兄!」
理子はそう呼びかけたが、彼は反応せずそのまま歩き去ろうとする。
「小鳥遊先生!」
理子がそう言い直すと、彼はようやく振り向いた。
「望月先生、なにか?」
理子はスーツ姿の体育教師の顔を凝視した後、おもむろに彼の腕を掴んだ。そのまま、今しがた出てきた物理室へ、彼を強引に引きずり込む。
「ちょ、ちょっと望月先生! な、なんですか?」
眼鏡の奥の目に疑惑の色を浮かべた理子は、物理室のドアを閉じ、ハスキーボイスで彼に言った。
「あなた……誰?」
「……え?」
――バアアアン!!
つい先ほど閉じられたドアが、大きな音とともに開け放たれた。
「ここかあ、神崎!」
声を張り上げながら、薄茶髪の美少年がズカズカと物理室に入ってきた。少年の細長い右手が教師の襟元に伸びるも、よりリーチのある教師の逞しい腕が少年の頭を押さえ付けて接触を阻む。
「お前、ここみの着替えを覗いた上に、抱き付いたそうだな! なにが『ここみには興味ありません』だ!」
「だああっ、あれは不可抗力ですって! だいたい、なんで犬を飼ってることを言わなかったんですか!? 僕は犬が苦手なんですよ!」
教師は必死に弁明するが、少年は聞く耳を持たない。
「んなこと知るか! さあ、大人しくお縄に付けっ!」
両手を振り回す少年と、頭を押さえ付けてそ回避しようとする体育教師。バタバタとする彼らに向かって、室内にいる第三の人物が叫んだ。
「あなたたち! 物理室で暴れないの!」
少年と体育教師は、時間が制止したかのように動きを止めた。恐る恐る、四つの視線が物理教師に向かう。理子は両手を腰に当てて首を傾げている。彼女は、溜息をひとつ吐いた。
「……で、これ、どういう状況?」
――五分後。
「心が入れ替わったですって!?」
「ああ。信じられんだろうが、昨日な」
大股を開いて椅子にもたれ掛かる美少年の言葉を、細マッチョな体育教師が慌てて遮った。
「ちょっと! なに、いきなり暴露してるんですか?」
「リコをごまかそうとしても無駄だ。昔から俺の嘘は全部バレてるからな」
顔をしかめた少年は、後ろ頭をポリポリ掻く。
「たしかに、その仕草は大吾兄っぽいわね。でも、なにか確証がないとなあ……そうだ! ためしに、私と大吾兄しか知り得ないことを言ってみてよ」
「あん? 俺とリコしか……? ええと……そうだ! 見ての通り、リコの口元にはホクロがあるが、実はもうひとつホクロがある! その場所は……」
言い終える前に、少年は顔を赤くした理子に強かに叩かれていた。
「ばっかじゃないの!? 今ので確信したわ! たしかに、そのデリカシーの無さは大吾兄ね!」
「いてて……! し、信じてもらえて良かったぜ……ん、どうした神崎?」
ふたりの掛け合いを、大吾が怪訝そうに眺めていたのだ。
「……あなたたちは一体、どんな関係なんですか? まさか……?」
「まさかってなんだ? 見た通りの関係なんだが」
律の横腹に、理子の肘鉄が炸裂した。
「ぐはっ!」
「大吾兄とはただの幼馴染で……いわゆる腐れ縁ってやつよ」
「そうそう! 子どもの頃はよく一緒に風呂に入ったよな! そこでホクロ……うぐっ!」
みぞおちにクリティカル。床にうずくまる律を一瞥だにせず、理子は颯爽とゆるふわパーマを掻き上げた。
「さて、そんな下らない話をしてる場合じゃないわね。原因と今後の対策を考えないと」
その時、一時限目の開始チャイムが鳴り始めた。
「神崎……じゃなくて大吾兄! 早く教室に戻らないと!」
「お、おう! じゃあリコ、神崎! 放課後ここに集合な!」
飛び跳ねるように物理室を出ていこうとする律に、理子が嗜める。
「大吾兄、廊下は走らない!」
「……おうっ!」
競歩選手のように廊下を早足で去っていく律を見送り、理子は物理室の扉を閉めた。大吾が困り顔で理子に尋ねた。
「しかし望月先生。対策と言っても、具体的にどうすれば良いのか……」
「物理学の基本は、現象の背後にある法則を観測して検証することよ。焦らずに取り組みましょう……ところで!」
理子は胸を逸らし、ビシッと大吾に人差し指を向けた。
「神崎君。あなた、学業は優秀だけど、演技の才能はまるで駄目ね。その服装と挙動、入れ替わりを隠す気あるの?」
「え、ええっ!? だ、駄目ですか? なにか問題点が?」
理子は大きな溜息を吐いた。
「……あなた、他人への興味がまるで無いのね。もっと周りを観測しないと。物理とは万物への興味、つまり〝愛〟よ!」
大吾の太い眉がピクっと動く。
「あ、愛……? ははっ! 物理教師らしくない言葉ですね。愛や恋なんてものは、感情というバイアスが生み出したバグじゃないですか。曖昧で実に非論理的な概念ですよ」
冷笑を浮かべ、大吾はそう反論した。理子はほんの少しだけ哀しい表情をしたが、彼がそれを察することはない。
「……まあ良いわ。あなたの大根役者ぶりへの対策は、今日の放課後までには考察しておくから、なるべくボロを出さないように!」
「……さっきから、好き勝手言いますね。お言葉ですが、僕は小鳥遊先生より余程上手く演じていると思いますよ?」
理子は両手を広げ、首を左右に振った。
「大吾兄の方はさして問題ないわ。ちょっと遅めの中二病を発症した坊やが、イキってイメチェンしただけに見えるから。秀才とはいえ、所詮はいち高校生なのよ」
「ちゅ、中二病……って、僕がそんな風に思われるんですか!?」
「でも、あなたは違う。あなたの大吾兄は、社会的地位の確立した高校教師なの。積み重ねた歴史が、学生とはまるで重みが違う」
でも、それよりも、と理子は続ける。
「ここみちゃんが心配ね。父親の変化に、あの子が気が付かないわけがない。昨日は誤魔化せたようだけど……。何よりも、ここみちゃんのメンタルへの影響を最小限にする考証をしなければ……」
眉間に寄せられた皺に左手を添える理子に、大吾は不思議そうに質問した。
「なぜ、ここみさんをそこまで心配するんですか? 他人の子どもために……?」
「そりゃあ、教師だもの。生徒のために……」
理子はそう言いかけて、言葉を切った。
「まあ、それも確かにあるけど、個人的な想いもあるわね。惚れた人のひとり娘だもの。守護ってあげたい……の」
「! ……じゃあ、やっぱり」
理子は大吾の口もと付近に人差し指を立てた。
「それ以上の詮索は野暮ってものよ。さあ、ディベートはお終い! 続きは、放課後ね」
物理室を追い出された大吾は、職員室に足を向ける。無意識に左手の親指を噛んだ。
――なにがただの幼馴染だ……恋愛脳め! 愛だの好きだの……そんなものが物理や数学に必要あるもんか!
そして、放課後。物理室。
理子は黒板を背に、教壇に立っていた。少年と体育教師は、実験台のひとつに椅子を並べて座る。
「さて、検証すべき課題はふたつあるわね。ひとつは入れ替わった心を戻す方法。もうひとつは、戻るまでの生活をどうするか。まず、ひとつめの課題を整理しましょう」
理子の普段の授業のそれのように、テキパキと黒板に文章を書いていく。律があくびをすると、額にチョークが直撃した。
「いてっ! こらあ、リコ! これは体罰だぞっ!」
「あら、手が滑ったようね。で、ひとつめの課題。まずは、どこでどのように入れ替わったか、それを整理する必要があるわ。なるべく具体的にその時の状況を説明してくれる?」
「おう! あの時はな、倉庫裏でドカッてぶつかって、ピカッて光って、なんかここみが金髪ピアスに絡まれて……」
身振り手振りしながら話す律を、大吾が物凄く嫌そうな顔で睨んだ。
「ちょっと! 僕の顔で、そんな頭の悪そうな説明はやめてくださいよ! アンタ、本当に教師ですか? ……望月先生、僕が説明します」
そして、スーツ姿の体育教師は、極めて的確に当時の状況を説明したのだった。理子はその理路整然としたプレゼン能力に、内心舌を巻いた。
「……なるほど。状況はよく分かったけど、まだ情報が不足してるわね。視点を変えて何処じゃなくて、誰で考えるか……。その時のふたりの共通点みたいなものはない? 例えば、同じアクセサリーを身に付けていたとか……」
理子の言葉はふたりの声に遮られた。
「ある!!」
「そうよねえ、そんな都合良く……って、あるんかーい!」
コホン、と理子はひと呼吸置く。
「……失礼。でも、観たところ、ふたりともアクセサリーなんて身に付けてなさそうだけど?」
「アクセサリーというか……コレだよ」
律がズボンのポケットから取り出した物は、紫色の……お守りだった。布製で、少し年季の入ったやつれ具合だった。
「小鳥遊先生のジャージの胸ポケットには、このお守りがありました。色違いですが」
大吾が取り出したのは、やはり布製の赤いお守りだった。紫のお守り同様に古びている。
「よくある変哲のないお守りだったから、偶然かと思ったが……。神崎、お前はこのお守りをどこで手に入れたんだ?」
律が尋ねると、大吾は机に肘を付き、両手に顔を埋めた。
「十年くらい前に、誰かから貰ったはずなんですが、その時の記憶がぼんやりしていて……。記憶力には自信があるんですが……」
「お守りかあ。それが何らかのトリガーになった可能性もあるわね。要検討……と」
理子がそう言いながら黒板に追記した。
「時間も限られてるから、この件は一旦保留! 次の課題は、当面のふたりの生活ね。下手に周囲にバレてSNSで拡散されたら面倒だし、やはり誤魔化すしかなさそうだわ」
理子は腕を組み、うーんと唸った。
「やはり、あの方法しかないか」
「おっ、なにか名案があるのか?」
「まあね。あんまり気が乗らないけど、仕方ないか。では、今から〝プロジェクトK〟を発動するわ!」




