第4話 プロジェクトK
「キミも、ママがいないの?」
夕陽を背にしたその少女は、彼にそう話しかけた。ここは、芝生の丘が広がる公園。片隅のブランコに腰掛けていた少年は、ベソをかいた顔を上げる。少女の顔は夕陽の影になり、輪郭もぼんやりとしている。
「おんなじだね。わたしも、ママがおそらにいっちゃって、もうあえないんだって」
少女の表情は窺えないが、少年はじっとして幼い声に聴き入った。芝生の上を、陽を浴びた木の葉が、火の粉のように舞い散る。
「でもね、パパがいるから、はんぶんしかかなしくないの。それに、パパはまいにちないてるから、わたしがげんきだして、まもってあげなくちゃ」
えへへ、と、少女は屈託なく微笑った。
「そうだ、これ、キミにかしてあげる! ママが、げんきになるおまじないにって、わたしにくれたの」
彼女は、肩から腰に下げた黄色い鞄から、取り出したものを少年に差し出した。
「げんきになったら、かえしてねっ!」
アラームの音が、大吾を浅い眠りから覚ました。彼は、手の平を瞼に押し当て目を擦る。
――懐かしい夢を見ていた気がする。
まだ扱いの慣れない身体の上半身を起こし、気怠げに本来は彼の所有物ではない部屋を見渡した。床にダンベルやスポーツ雑誌が散らばっている。よく分からないトレーニングマシンが、狭い部屋を更に狭くしていた。
燃やさないゴミと古紙の回収日は……。ああ、粗大ゴミを捨てるには申請が必要か……。参考書を揃えるには、本棚を買い足さなくては……。
「パパ、まだ寝てるの? 朝ごはん出来てるよー!」
部屋の模様替えの構想は、現在の彼の遺伝上の娘の声によって掻き消された。
「あ、ああ。すぐ行くよ」
大吾は、ドア越しにそう応えた。
小鳥遊家の家事は炊事は週交代、洗濯はここみ、掃除やゴミ出しは大吾といった分担だった。もともとは大吾ひとりでこなしていたのだが、高校生になった頃にここみが、家事分担制を申し出たのだ。
今日の朝食は白米に茄子の味噌汁、主菜はベーコンエッグ、副菜はオニオンスライスだ。本来、少食の律には重めのレシピだが、今の大吾の胃袋はすんなりと受け入れた。それどころか……。
「お、美味しい……! あの……ご飯、お、お代わり……」
食事など、律にとっては必要な栄養分を摂取する手段に過ぎなかった。だが、大吾の身体を通して食べる普通の食事が、彼の味蕾を甘美に刺激する。
えへへ、と、ここみは屈託なく微笑った。
「ありがとう、パパ! なんか今日はいつもより美味しそうに食べるね。私も、もう一杯お代わりしちゃおっと!」
――既視感? 今の笑顔、何処かで見たような……。それにしても、よく食べるなあ。
食べ終えて、洗面台に行こうと立ち上がった大吾を、ここみの声が引きとめた。
「パパ! ご馳走様は?」
「あ、そっそうか。ご、ご馳走様……でした」
座り直し、ぎこちなく手をあわせる。
ここみは腕を組んで、彼の顔をじっと見つめた。
「うーん……。やっぱ、なんか違和感あるなあ。そのキャラ変、これからも続けるの?」
「……そんなに変かな?」
「まあ、パパが良いならイイけど? 私はいつものパパの方が、上手くいくと思うけどね」
ジト目で、父親の姿をした律を見る。
「でも、婚活には反対しないよ? むしろ、私も応援するからねっ!」
昨日の放課後、物理室にて。
「プロジェクトK?」
大吾と律が唱和する。理子は黒板に大きく書かれたKの文字の横に「=」を足した。そして、漢字二文字を続けて書く。
「こ、婚活ぅ?」
律は、椅子からずり落ちそうになった。
「そう! 人呼んで、プロジェクトKONKATSUよ!」
腰に手を当て、理子は自信満々に胸を張る。バーン! と、背後から効果音が聴こえてきそうだ。少年と体育教師は、理子に背を向けてコソコソ話した。
「だ、大丈夫なんですか? あの人……?」
「ああ……。リコは頭は良いけどポンコツなんだ。だが……」
律は、長いまつ毛の麗しい目を見開く。
「なんだかんだで、アイツのやる事は最後は上手くいくんだよ。だから、俺はリコを信じることにするぜ」
「ううっ……とても不安です……」
大吾は太い眉毛をハの字にして、情けない声を出した。
「こらそこ! 授業中の私語は慎みなさい!」
「授業じゃねーだろ。……んで、入れ替わりを誤魔化すのに、婚活がなんの関係があるんだ?」
「良い質問ね! 昨日も言ったけど、ハッキリ言って、神崎君の演技力では、誤魔化すのは無理がある」
大吾がムスッとした表情で言い返した。
「またそれですか……。まあ、僕の演技力は置いておいて、完全に他人に擬態するのは限界があるとは思います。でも、その前提だと、そもそもが誤魔化すのは不可能だという結論になるのでは?」
「そう! だから、その前提条件を変えるのよ」
「前提条件を?」
「演技して誤魔化すのが不可能なら、演技しなければ良いじゃない?」
明敏な思考力を持つ律だったが、この物理教師の謎の理論は流石に測りかねた。理子は、そんな彼の様子を見て、クスッと笑って説明を続けた。
「神崎君は敢えて演技しない。それはつまり、大吾兄のキャラクターが突然変わったということになる。その状況が不自然じゃないような条件を作れば良いってこと。キャラ変するような事情をね」
「まさか……! その事情が『婚活』ということですか?」
パチパチパチ! 理子は大吾に賛辞の拍手を送った。
「Q.E.D. ! その通り! 大吾兄が婚活をするという前提条件を置けば、その為にキャラ変をしているという事情が発生する。そうじゃない?」
「え、ええっと……。そっ、そうですか……ねえ?」
理子の超理論へ反論する術を失った大吾に代わり、今まで沈黙を保っていた律が議論に参戦した。
「ちょっと待てよ、リコ! 俺は再婚する気なんて無いぞ? 俺の女房は、今までもこれからも葵ひとりだけだ! それに、ここみはまだ高校生だ。あいつが独り立ちするまで、色恋沙汰にかまけてる暇なんて、俺にはねえんだよ!」
立ち上がり、唾を飛ばしながら、眉目秀麗な少年は暑苦しく熱弁する。そのスピーチを、理子は切ない表情で拝聴していた。
小鳥遊葵。大吾の妻であり、ここみの母親の名だ。そして……故人だった。彼女の名が出た事で、先ほどまでのわちゃわちゃした物理室の空気が、一変したかのように重苦しくなった。
「分かってる……分かってるわよ、大吾兄。でも、私はこれが最適解だと考えている。プロジェクトKのKには『ここみちゃんの心を護る』という意味も込めているの」
「ここみの心を……護る?」
律は大きく息を吐くと、腕組みをしてドカッと椅子に座った。
「……すまん。続けてくれ」
「婚活といっても、勿論フリだけよ? 要は、それらしい事情があれば良いの。例えば、大吾兄は、少し前からこっそり婚活していた。良い感じのお相手が見つかった。その相手は資産家の令嬢で、粗雑な体育教師とは見合わない。だから大吾兄は、ぶっきらぼうな態度を改める必要がある……って具合にね」
大吾は、ようやく納得したように手を打った。
「なるほど! 確かに、論理的には破綻はしてないですね。小鳥遊先生の、粗雑でガサツでノンデリで暑苦しくて押し付けがましい性格を払拭するには、良い建前かもしれません!」
「お、おいっ! なんか凄い盛ってないか?」
律のツッコミを華麗にスルーした大吾は、ひとつの疑問を呈した。
「しかし、他にも建前を作ることは出来そうですが、なぜ『婚活』が最適解なんですか?」
良くぞ聞いてくれました、とばかりに理子は不敵に笑った。
「大吾兄は再婚なんてしないって言ってるけど、ここみちゃんはそれを心配してるのよ。いつか、大吾兄が独りぼっちになってしまうんじゃないかって。従って、婚活を提示すればここみちゃんは協力するだろうし、キャラ変を受容する公算は大ってわけ」
「……なんか、穴だらけな計画な気もしますが……。ここみさんにだけ、真相を打ち明けるという手段もあると思いますが?」
「……それは、ここみちゃんの心の負担になる。別人格の父親と暮らしてると知ったら恐怖を覚えるし、仮に神崎君と暮らして、近所や学校に知られたら厄介よ。父親を追い出して、高校生の男女が同棲しているなんて噂になる。神崎君の進路にも影響が出てしまうわ」
人の気持ちや動線をも汲み入れて理論を構築する。それは、律が理子に及ばない領域だった。彼が隣を見ると、少年は顔をしかめながらも、ゆっくり首肯した。
「……不安要素は多いですが、対案も思いつかないし、やるしかないってことですか……」
かくして、ポンコツ物理教師・望月理子が提唱する、プロジェクトKが発動したのだった。
理子の作戦は、なんとか上手くいったようだ。完全に納得したわけではないここみだったが、まさか父親の人格が入れ替わっているとは夢にも思わず、疑問を呑み込んだのだ。
「婚活するのは賛成なんだけど、なんか変なんだよね、最近のパパ」
今日も、ここみは律と一緒に電車通学した。隣の美少年の心が、自分の父親のそれだとは気付かずに。
「ま、まあ、そんなこともあるかもな。しかし、ここみは本当に嫌じゃないのか? 他人がママになるかも知れないんだろ?」
大吾にそのつもりはないのだが、ここみは大吾の再婚を願っている。その際の懸念点を、彼は娘に尋ねてみた。ここみは、人差し指を顎に添える。
「うーん。私にとってママはママだけかな。でも、パパに新しい奥さんができるのは歓迎だよ。……私に気を遣って、パパの人生を縛りたくないしね」
「そ、そんなことは……」
気にするな、という台詞を呑み込んだ。
「……ここみなりに、色々と考えているんだなあ。もう十六歳にもなるし、お前も成長してるんだな」
電車に揺られながら、しみじみと語る律を見て、ここみは吹き出した。
「ぷっ! ……もう、パパみたいなこと言わないでよ。律君も同い年でしょ? あ、それとも誕生日終わっちゃった? いつなの?」
「? 六月六日だろうが」
うっかり即答してしまう。
「えっ、そうなの? ぐうぜーん! うちのパパと同じ誕生日なんだ」
「あ、いけねっ」
律は素早くスマホを取り出して、画面に何やら打ち込んだ。直後に返信音がした。
「ええと……神崎の誕生日は、六月六日……だ」
「うん、さっき聞いたよ?」
「だよな。ったく、なんつー偶然だよ……」
後ろ頭をポリポリ掻く彼に、ここみは手を叩いて言った。
「ねえ、律君! もしその日に予定が無ければ、うちでパパと合同の誕生パーティーしない? こう見えて私、料理得意なんだ。腕を振るっちゃうよ?」
――ああ、よく知ってるさ。そういや、今週はここみの料理当番だったな。神崎の奴、今朝はここみの手料理を食べやがったってことか……。俺は食パンしか食べてないというのに!
「ああ、ここみがそれで良いなら、是非お邪魔させてくれ。お前のパパにも、改めて〝挨拶〟したいしな……」
「パパに? 学校でよく顔を合わせてるんじゃない?」
「担任の学年が違うし、あまりちゃんと話したことはないな。まあ、ご近所さんとしてな」
そうこう話している内に、電車が大平駅に着いた。
「うん、じゃあパパにも話しておくね。えへへっ、楽しみだなあ! さえっちとゆいちんにも声掛けよっと」
改札を出て学校へ向かう途中、そのふたり、氷室冴子と相沢結衣の背中が見えた。
「あっ、さえっち、ゆいちん! おはよー!」
元気よくふたりに挨拶するここみに、結衣は朗らかに、冴子は無表情で応えた。早速ここみは、再来月の誕生パーティーの計画を、ふたりに伝えたのだった。
ワイワイ盛り上がる三人娘の少し後ろを歩いていると、冴子が歩速を落として、律の隣に並んできた。冴子は声を低めて、彼に囁きかける。
「ねえ、神崎。あんた、本当にここみんと付き合ってないの? それにしては、不自然なほど距離感が近いんだけど」
無表情の目の奥に疑念の色をたたえながら、冴子はそう問いただしてくる。
「ああ、付き合ってはいないな。家が近所なんで、一緒に登下校してるだけだ」
「ふーん……。まあ、ここみんの交友関係に私が立ち入るつもりはないけど、これだけは覚えておいて」
冴子が律を睨め上げる。
「ここみんを傷付ける奴を、私は絶対に許さない。神崎、あんたでもね」
「ひ、氷室……!」
「なに? 文句ある……」
ガッ! 律の細長い両手が、冴子の肩を掴んだ。彼は、端正な顔を冴子に近付けた。
「まったく同感だ! ここみを傷付ける野郎を、俺も許しちゃおかん! 氷室、お前のような生徒がここみの友達で良かった! これからも、ここみを宜しくな! だが、喧嘩とか無茶はするなよ?」
彼がそこまで言ったところで、学校の予冷が鳴り響いた。
「あっ、いけねっ! 物理室に寄ってかなきゃな。じゃあな、氷室!」
前方のここみと結衣を追い越して走り去っていく律を、唖然とした表情で冴子は見送った。




