表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
74/75

設定:地球で起きた主な出来事

・第一次世界大戦

1914年にセルビアの民族主義者がオーストラリア帝国皇太子夫妻を襲撃したことを一因としてヨーロッパで始まった世界規模の戦争。現実と異なりオーストリア帝国の皇太子夫妻は負傷したものの無事であったが、これをきっかけにオーストリア帝国はセルビアに宣戦布告。それぞれ同盟関係にあった国々が次々と参戦した結果ヨーロッパはもとよりアジアやアフリカを巻き込んだ世界規模の戦争になる。

日本帝国は、イギリス帝国と同盟関係を結んでおりイギリス帝国が「連合国」側で参戦し、参戦要請を受けたことをきっかけに連合国側として参戦。西部戦線に陸軍や海軍を派遣し、さらにアジアにあるドイツ帝国の植民地をイギリス帝国と共同で攻撃・占領している。

様々な新兵器が投入された泥沼の戦争は5年にわたって続き最終的に連合国側に有利な形で終わっている。

戦後。戦争を未然に防ぐことなどを目的に「国際連盟」がアメリカのウィルロー大統領の発案によって設立されるが、戦後も各国の対立関係は収まらず20年あまり後に第二次世界大戦が勃発する。




・太平洋戦争

1933年12月20日にアメリカ合衆国が日本帝国に対して奇襲攻撃を行ったことで始まった戦争。

戦争は1年ほどに渡って北太平洋全域を戦場に行われたが、戦争を主導したアメリカ大統領が急死したことやヨーロッパ方面での不穏な動きに対応するためにイギリスなどが仲介した結果、日本が有利な条件で講和する。


戦争の発端は、アメリカのアジア進出に日本が障害になったと感じた時の大統領を始めとした政府上層部が軍部などの反対を押し切る形で行ったもので、戦争決断の裏には資本主義諸国で暗躍をしていたソ連工作員が大きく関与していることが後に明らかになっている。

日本帝国内でも新聞記者に扮したソ連のスパイが盛んに反米キャンペーンをうっており、ソ連の脅威になるであろう日米両国を衝突させ疲弊させることを目的にして起こされた戦争だと言われている。

当初の予想では圧倒的な物量を持つアメリカが日本を圧倒すると思われていたが、日本側は同盟国であるイギリスなどの支援を受けたことや当時最先端といえる機動艦隊を多数擁していたことで、アメリカ太平洋艦隊を壊滅させるなどし戦いを有利に進めていた。

ただ、長期戦は難しく。もしアメリカの大統領が急死しなければ逆に日本側が不利な条件で講和していた可能性もあった。そのため一時期アメリカ国内では、大統領は日本の特殊部隊によって暗殺されたという疑いがかけられたほど。

戦後の日米関係は引き続きあまりいいものではなかったが、第二次世界大戦で共闘したこと。更に戦後はソ連を共通の脅威とみなしたことから両国は強固な同盟関係を築くことになる。



・第二次世界大戦

1939年から1945年にかけてヨーロッパを中心に勃発した世界規模の戦争。

第一次世界大戦以上の犠牲者を出した戦争。日本帝国は同盟国であるイギリス帝国からの要請に基づいて連合国側にたって1941年から参戦する。

戦争の発端は、ドイツ帝国とソビエト連邦によるポーランド侵攻である。ドイツ帝国は第一次世界大戦の敗戦国であり軍備などを制限されていたが1933年に極右政権が誕生したことを受け再軍備していた。一方のソ連は第一次世界大戦中におきた革命によって崩壊したロシア帝国の後継国家であり、日本や西欧諸国と対立し孤立化していた。両者の利害関係が一致した結果起きたのがポーランド侵攻であり、この侵攻をうけてフランス・イギリスなどがドイツ帝国に宣戦布告したことで始まったのが第二次世界大戦である。

ドイツ帝国は整備した強力な陸軍と空軍を背景に電撃的にフランスなどに侵攻し、優位に戦いを進めるが後にソ連との関係が悪化し、ソ連とも戦争を始める。

日本が本格的に参戦したのは1941年からで、太平洋戦争で戦ったアメリカも同時期に連合国側として参戦している。アメリカが参戦したことで連合国は圧倒的な物量を得ることに成功。ドイツ帝国は徐々に疲弊していき、最終的に1945年にドイツの首都ベルリンがアメリカ・日本・イギリスなどの西欧連合によって陥落したことで戦争は終わる。ドイツ帝国は解体され1950年までは西欧連合の占領下におかれた。

日本は主要な戦勝国の一つに数えられ講和会議などでも主導的な役割を果たし、後にできる国際連合でも常任理事国の椅子に座ることとなるなど、国際社会で強い影響力を持つようになる。

ソ連とアメリカの関係はこの戦争中に急速に悪化。後の東西冷戦にまで発展していくことになる。






・第一次中華戦争

1946年に中華民国と中華人民共和国の間で勃発した戦争。ソ連やアメリカなどの同盟国を巻き込んだ大規模な戦争になり、後に南北中国は現在に至るまで固定化されることとなる。

1904年に300年続いた中華帝国は崩壊。かわりに民主国家を謳う中華民国が建国する。しかし、内部対立や各地で軍閥が地域支配を強め中華民国は中央集権体制を確立することが出来なかった。第一次世界大戦が終わると、中国北部においてソ連の支援を受けた「共産党」が活動を活発化させる。そして1930年代になると共産党と中華民国は泥沼の内戦を戦っていた。第二次世界大戦の中でも泥沼の内戦を続けていたが、第二次世界大戦が終わったことでソ連が共産党への支援を増強。共産党軍が一気に南部へ侵攻したことで戦争が勃発する。

ソ連の支援を受けた共産党軍は快進撃を続け中華民国軍は敗走。その結果を無視出来なかった日本が中華民国支援のために参戦。更に、ソ連を脅威とみるようになったアメリカも軍を派遣し、二次大戦で疲弊していたヨーロッパからもイギリスなどが軍を派遣する。

戦況は一進一退を繰り広げ、1950年に休戦。中国は南北に分断されることが固定化する。

その後も、国境沿いで小競り合いを繰り広げており、1970年代には「第二次中華戦争」が勃発するなど現在に至るまで緊張状態は続いていた。転移によって、物理的に両国が離れたことで一連の中華紛争は分裂という形で終わりを迎える。






・日ソ戦争

1952年11月17日。ソビエト連邦が日本帝国領樺太(南樺太)に軍事侵攻したことで勃発した戦争。

東西冷戦で初めて東西両陣営の主要国が衝突した戦争であり、休戦したばかり中華戦争の再燃や印パ戦争とあわせて世界が最も第三次世界大戦に近づいたきっかけを与えた戦争と呼ばれている。

戦闘自体は、長い冬を防御に徹した帝国軍が3月に大規模反攻作戦を実施し北樺太制圧・占領。4月にソ連政府との間で停戦条約が結ばれたことで終結。北樺太は日本帝国によって併合され樺太は全域が「樺太道」として日本の都道府県の一つ組み込まれることとなった。


戦争の要因は、ソ連軍極東軍管区の暴走によるもので戦争自体にモスクワは一切関与していない。

元々極東軍管区は樺太及び北海道への進出を画策していたものの、モスクワ政府は西欧諸国と睨み合いを続けている状態で関心を示していなかった。モスクワの許可がおりないことに痺れを切らした極東軍管区の幹部がモスクワに一切伝えず、独断で軍を蜂起させて勃発したのが今回の戦争である。そのため、ソ連側から正式な宣戦布告などはなく完全な奇襲攻撃であったため、序盤はソ連側は南樺太北部の大部分を電撃的に占領することに成功した。

しかし、日本側もすぐに体制を立て直し北海道や東北方面の部隊をすぐに南樺太へ派遣。また、1952年の樺太の冬は非常に厳しく兵站が整っていなかったソ連軍はすぐに補給に困窮し疲弊する。一方で、帝国軍は冬があけるまでは防御に徹し、戦力をしっかりと整えて冬があけはじめた3月に一斉に大規模反攻作戦を実施し、1ヶ月ほどで占領された南樺太はもちろんのことソ連領であった北樺太全土も占領した。

同じ頃、西欧方面の紛争を片付けていたモスクワ政府が事態の対応に動き、水面下で日本側と交渉を行い4月に停戦条約が締結され実質的な戦争は終わる。樺太に関しては全域が日本領として併合されることで両国が合意する。

ソ連政府は北樺太からの日本軍の撤収などを当初考えていたが、先に仕掛けたのがソ連側であることやアメリカや西欧諸国がこれを機会に活発な動きを見せたこともあり、状況の早期解決のために受け入れた格好となった。

ただ、すべてが終わったあと。再び樺太の奪還に動くことも考えられていたようである。

戦争を始めたソ連軍極東軍管区の幹部は全員が拘束され国家反逆罪という形で裁判にかけられ、終身刑や死刑などといった重罪となった。戦後は、日本に対抗するために極東軍管区の戦力増強なども行われた。


この戦争の敗北は、ソ連政府にとって非常に衝撃的なことだったようで、当時の最高指導者であるスターリンはこの敗北に激怒したことで体調を崩しその翌年に病死。最高指導者が死亡したことでソ連の政策も大きく変わっていくことになる。




・第二次中華戦争

1970年11月から1971年の4月にかけて中華民国と中華人民共和国の間で行われた戦争。

第一次中華戦争後の南北中国は戦争からの復興を進めていたが、両国ともに硬直化した独裁体制によって経済成長は鈍化しており、国内で不満が高まっていた。その不満の矛先を外部へ向けるために北中国が軍事的挑発を国境地帯で行いそれに南中国が反応したことで軍事衝突が始まった。戦争の発端は双方が「向こうから仕掛けてきた」と主張しており現在に至るまで「誰が先に仕掛けたか」というのは不明だが、日本の国防情報局は「ほぼ同時に双方が仕掛けた」と分析している。

この戦争は南北中国のみならず、それぞれに駐屯していた東西両陣営の軍も動いており日本も参戦している。ただ、同時期にビルマでより激しい戦争が起きていたことからアメリカもソ連もそちらの対応にかかりっきりだったこともあり、両国に対して積極的な支援はあまり行われなかった。それもあってか、両国はすぐに疲弊し戦闘が行えなくなり、第三国であるスウェーデンなどの仲介によって停戦した。

同時期に、より大規模なビルマ戦争が行われていたことから日本国内でもそれほど話題に上がることのなかった南北中国の戦争であったが、この戦争はその翌年に南北中国の体制自体に大きな影響を与えることになる。





・ビルマ戦争

1970年3月から1974年6月まで東南アジアのビルマで起きた戦争。

南北に分断していたビルマにおいてアメリカ・日本・東南アジア諸国などによって構成された連合軍が、ソ連などの支援を受けたビルマ共産党を軍事作戦によって排除した。4年以上続き、これは第二次世界大戦以後では当時最も長く続いた戦争であった(後に10年続く第一次湾岸戦争が大戦後最長の戦争となる)

連合軍の物量的な支援を得た南ビルマが北ビルマを併合することで南北統一したものの、日米両国にとっては介入によって得られるメリットよりもデメリットが大きい戦争であった。


東南アジアの西にあるビルマは、1949年に独立するまでイギリスの植民地であった。この地域は長く「ビルマ王国」によって当地されていたのだがアジア進出を行ったイギリスが1884年にビルマ王国を征服し植民地化。イギリスは主に石油などの天然資源の採掘を行っていた。第二次世界大戦を経て、イギリスは当初はビルマを含む植民地を維持しようとしていたが戦争の間に植民地各地で「民族自決の動き」が強くなり、またイギリスは第二次世界大戦によって疲弊しており植民地体制を維持できるだけの体力がなかったため渋々ビルマを含めた各植民地の独立を認め、1949年に「ビルマ連邦」としてビルマ植民地は独立する。

ビルマ連邦は独立当初から社会主義を取り入れるが経済政策の失敗などによって疲弊する。

1955年に軍部がクーデターをおこし社会主義政権は崩壊する。時を同じくして、ソ連共産党・中国共産党の支援を受けた共産ゲリラが北部で蜂起。瞬く間に北部の大部分を占領下に置くと、ビルマは実質的に共産党が支配する北部と軍部が支配する南部に分断されることになる。当時はイギリスやインドがビルマに介入していたのだがイギリスは第二次世界大戦の影響により他国に介入できるだけの力はなく、インドもパキスタンや北中国との戦争に集中しなければならなくなりビルマにまで手が回らない状況になり南北ビルマ問題は半ば国際社会から放置される。


その中で、ビルマ問題に介入したのは共産体制が広がることに強い拒絶反応を持っていたアメリカと日本であった。

日米は南ビルマを協力して支援。だが、北ビルマのゲリラ戦術の前に南ビルマは苦戦し、支援国であるアメリカに泣きつく。アメリカはすぐに軍を派遣するが、そのアメリカもまた共産党軍のゲリラ戦を前に苦戦。日本に協力を求めて、日本の当時の政権(民政党)は世論の反対をありながらも派兵する。

最終的にインドや、他の東南アジア諸国も派兵したことによる圧倒的な物量で南ビルマが共産党軍を排除。南北ビルマは実質的に統一されることになるが、世論の反対を押し切って派兵したことによって支持率が急落した日米両政府は、その次の選挙で歴史的敗北を喫した。

さらに、軍事政権によって南北統一となったビルマもまた軍事政権の圧政などが報じられ、軍事政権を支援していた日米両政府にもその批判の矛先を向かうなど日本やアメリカにとっては東南アジアに共産国家が誕生するという当初の目標は達成したものの、それによって失うものが多すぎる戦争となった。

以後、日本政府は対外戦争に消極的な姿勢になっていき、アメリカは強い不満を持つ。両者の微妙な関係はその後10年にわたって続いていくことになる。




・第一次湾岸戦争

1978年6月から1988年2月まで続いた中東のペルシャ湾地帯で起きたイランとイラクの戦争。

イランに日本が。イラクにソ連やアメリカがついた代理戦争。戦争の発端は両国国境地帯にあった油田に関してでありイラクの先制攻撃によって戦争がはじまる。どちらも産油国で資金力があり、それに伴い地域有数の軍事大国であったこと。複数の先進国が支援に回ったこと。両国の国力がほぼ拮抗していたこともあり、講和条約が結ばれ終戦するまで10年近く続いた。

第二次世界大戦以後最長の戦争であるが、休戦期間がいくつもあったことから10年間常に両国が戦争を続けていたわけではない。この戦争によって両国は多額の債務を抱えることになったが、特にイラクは莫大な負債を抱えてしまい。この他国への負債が後に第二次湾岸戦争へつながる一因となっていく。




・第二次湾岸戦争

第一次湾岸戦争終結から2年後の1990年にイラクが隣国のクウェートを軍事侵攻したことを発端に勃発した国連軍との戦争。

泥沼の第一次湾岸戦争に実質的に敗北したイラクは、政権に対しての国民の不満が高まっており、更に多額の資金を近隣諸国から借り入れていた。この借入金の返済には石油輸出額の半数をあてており、イラクはさらなる増産でもってこの状況を打開しようと考えていた。しかし、当時の取引価格はイラクが求めていたものとは程遠く。更に「石油諸国会議」で取り決めらた量以上の採掘を続けていた周辺国に強い不満を持っていた。

特に、隣国のクウェートに関しては強烈な不満を持っており当時の最高指導者はクウェート侵攻を仄めかしていた。

だが、周辺諸国はそれが本気だと考えておらず具体的な対策はとっていなかった。そんな中、イラクは着実に戦争準備を進めており1990年10月25日。ついに、クウェートへ武力侵攻を始めた。


イラクは、第一次湾岸戦争の頃から中東最大規模の軍事力を有しており一方でクウェートは裕福な産油国ではあったが小国であったためイラク軍に対抗できるだけの戦力はなく、クウェート全土は一週間あまりでイラクによって占領。そのまま、イラクはクウェートを自国領に併合した。

国連安保理はただちに、イラクを非難する決議をソ連を含めた全会一致で採択するがイラク側は全く取り合うことはなかった。

そのため、安保理はアメリカとイギリスの要請に基づいて「多国籍軍」を中東地域へ派遣することになった。

この「多国籍軍」はアメリカを中心にイギリス・日本・フランス・ドイツ・イタリア・スペイン・中華連邦など30カ国の軍によって構成されており、クウェート解放のために地上部隊まで投入されることになった。ここまでの規模の軍事介入が起きたのはビルマ戦争以来であった。


多国籍軍は1991年1月16日よりイラクに対しての大規模な軍事攻撃を実施。最初は徹底した空爆を行いイラクの軍事施設を破壊。その後は、アメリカ・日本・イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・中華連邦・アラブ有志同盟の地上部隊がクウェート奪還のために2月1日に進軍を開始。1週間後の7日にクウェートは全土解放された。

アメリカは更にイラク領内への進軍も考えていたが、その前に安保理による停戦決議が可決。イラク側が受け入れたため2月10日に停戦。3月7日に正式に講和となった。

クウェート奪還を第一にした軍事作戦であること。湾岸地域は世界有数の油田地帯であり戦争の長期化は誰も望んでいなかったことからイラクの政治体制はそのまま維持されることとなった。ただ、それが後の第三次湾岸戦争(イラク戦争)へと繋がっていくことになる。





・アフガニスタン戦争

2001年11月18日から2002年3月10日まで続いたアメリカを中心とした多国籍軍によるアフガニスタンへの軍事介入。

発端は、2001年9月にアメリカで起きたイスラム過激派武装勢力によるテロ事件。その、テロリストをアフガニスタンが匿っていることが判明したため、アメリカ政府はアフガニスタンに引き渡しを要請。しかし、アフガニスタンはこれを拒否したことでアメリカは「テロリストを匿っている」ということを理由にアフガニスタンへ侵攻することを決めた。

アフガニスタンはソ連も1970年代に軍事侵攻しているが、イスラム勢力の抵抗によりソ連は撤退。このイスラム勢力を支援していたのがアメリカのCIAであったが今度はアメリカ自身がかつて支援していた相手に弓をひかれ軍事侵攻することになるという皮肉なこととなった。


軍事作戦はアメリカを筆頭に、イギリス、日本、オーストラリアなどが部隊を出しアメリカ主体の「多国籍軍」によって行われた。多国籍軍はアフガニスタン北部で政権に対して抵抗運動を行っていた反政府組織と連携して軍事侵攻を11月に開始。その圧倒的な物量でもって各地を制圧。翌年の1月には首都を制圧。その後2ヶ月かけて政府ゲリラを撃破しながら、全土を掌握。

アフガニスタンは日本やイギリス主導のもと暫定政権が設置され。6月には議会選挙・大統領選挙が実施され一応は民主的な政権が誕生する。


アフガニスタンに隣接していたソ連はこの多国籍軍の動きを事実上静観していた。当時のソ連は経済不況から脱しつつありアメリカなど西側諸国との関係も見直しを始めていた時期であった。さらに、アフガニスタンの政権はかつて自分たちを苦しめた勢力だったこともあり感情的な部分においてもアメリカなどの軍事行動を非難することはしなかった。

だが、政府軍に対してソ連製の兵器などを売りつけてはいるので、対アメリカという部分は引き続き持ち続けてはいたようである。多国籍軍はその後も、暫くの間「治安維持」を名目にアフガニスタンへ駐屯し、それら多国籍軍に対しての旧政府側によるテロが活発化した。最終的にアメリカ軍の地上部隊は2009年までにアフガニスタンから撤収しているが、戦争以上の数の兵士をテロによって失っている。





・第三次湾岸戦争

2006年5月17日から同年8月21日までアメリカ主体の「多国籍軍」が核開発を行っていたとされているイラクに対して行われた軍事侵攻。湾岸地域で行われた三度目の戦争であり、この戦争によってイラクを長期間支配していたアブドラ・カシーム政権が崩壊した。


第二次湾岸戦争に敗北したイラクは、地域的にも孤立していたが大統領のカシームはアメリカや西欧諸国からの介入に対抗するためにソ連や北中国への接近を強めた。特に、北中国からは多額のインフラ整備や兵器の供与が行われておりイラクは北中国最大の同盟国の一つとまで言われるほどだった。

イラクは、欧米からの介入に対抗するために「大量破壊兵器」の研究を秘密裏に行っていた。とりわけ、核開発はカシームが特に熱心だと言われておりソ連からの技術協力を得て原子力発電所を建設していたほどだ。イスラエルはこの原発開発に危機感をもち96年には空軍機による空爆を行い破壊している。この、イスラエルの行動は当時世界各国から非難を集めることになるがイスラエル諜報部はこの施設で実際に核兵器の研究が行われていることをアメリカに伝えていた。


1997年・99年に行われた査察では特に大量破壊兵器を開発しているという証拠を見つけることは出来なかった。

それでも、アメリカ・イラン・イスラエルはイラクが何かをしていると疑念を深めていた。

そして、2006年3月。アメリカのブラウン大統領は世界中に向けて「イラクが核開発をしているという確かな証拠を得た」と発表し、再度の査察団の受け入れをイラクへ求めたが、イラクは「二度目も三度目も変わらない」として拒否。

拒否されたことでアメリカは実力行使で「核開発を阻止」することにし、イギリスは日本などの同盟国にも参加を呼びかけた。フランスやドイツなどは「まず査察団を出すべき」だと主張するが、当然ながらアメリカがそれに取り合うことはない。日本国内でも軍を出すべきかどうかで議論は紛糾した。ただ、最終的に日本はアメリカに協力することを表明し機動艦隊や空軍を中東へ派遣することを決めた。


攻撃は、第二次湾岸戦争と同じく洋上の艦艇や中東各地に展開していた攻撃機・爆撃機による徹底した爆撃が行われた。

一通りイラク軍の反撃能力を沈黙させてから複数方面に地上部隊が侵攻する。この地上部隊はアメリカ・イギリス・オーストラリア・中華連邦・イタリアなどが部隊を出し、更にイラクと対立していたサウジアラビアなども部隊を出した。一方で激しく対立しているイスラエルやイランに関しては部隊の派遣はせず後方支援に特化した。

多国籍軍はその圧倒的な物量でもって一ヶ月ほどで首都のバグダッドを占領。カシーム体制は実質的に崩壊する。

カシーム大統領の身柄はその1週間後に北部の町で確保。同時に専門家などによる調査団がイラクの原子力施設へ立ち入り検査を行った。結果的に核兵器開発の研究を行っていた資料をいくつか押収することに成功したものの、殆どの証拠は攻撃時にイラク側が廃棄したため「確実な証拠」というものを得ることはできなかった。

この戦争は、世論からは全く評価されず。戦争を主導したアメリカでは次の大統領選挙で与党候補が大敗。

日本においても、翌年に実施された参院選挙で与党は敗北。2009年の衆院選挙では大敗を喫し政権交代が起きるなど、戦争に部隊を派遣した殆どの国でその時の政権党が敗北する結果になった。

この結果もあり、以後のアメリカは諸外国への積極的な軍事介入を躊躇するようになっていくのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ