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新世界歴元年 4月10日
日本帝国 東京市 千代田区
総理官邸
国会承認が行われた翌日。
総理官邸前には、軍の派遣に反対する市民団体などによる抗議集会が開かれていた。集会には、社会党や緑の党など今回の件に強く反発している政党の議員なども参加しており、マイクを手にとって「アメリカの言いなりで日本の若者を戦場に送るな!」というシュプレヒコールを浴びせていた。
「いいですか?みなさん。アメリカという国はいつもそうなんです。都合が悪くなると他の国に圧力をかけて自分たちの共犯者にしようとしている!そして日本政府は強く『NO』といえない!こんな世の中おかしいではないですか!アメリカのためになぜ軍を送らないといけないのですか!そもそも、この戦争だってアメリカが相手を挑発して起きたものだなんて話もあります!そんなのに日本が付き合う必要はないんですっ!」
最大野党の進歩党からも一部の議員が集会に参加しており、その中の一人――進歩党急進派に属しており党副政調会長としてメディアにも多く出演している勝又直樹が痛烈にアメリカ政府と日本政府を批判すると、市民団体の関係者たちから「そうだ!」と同調する声がまばらに聞こえてくるし、まばらだが拍手をする者もいる。
だが、参加者は非常に少なくそして年齢層も全体的に高い。
団体は抗議集会を開くことをSNSなどで大々的に告知していた。同調する声も多々あったことから多くの抗議を声をあげる市民の参加を団体は期待していたのだが、実際に集まったのは数十人ほどだった。
ちなみに、勝又が言う「アメリカから先に仕掛けた」というのは全く根拠のない話だ。彼はSNSでも同様の発信をしているがネットユーザーからすぐに「根拠がない」という批判が寄せられていたが、勝又は一切反応せずに同じ主張をこの集会でも行っていた。
実際のところ、今回の中央アメリカやヨーロッパの戦争はいずれも相手側の攻撃によって戦闘が始まっており、アメリカが挑発的な行動をとったという事実はない。だが、一部の反米主義者の間では勝又と同様の主張をする者が多くいて、中には報道番組のコメンテーターでさえも同じようなことを言って慌ててキャスターなどに訂正される――という一幕もあった。
参加者は少なかったものの、この抗議活動の様子はメディアによってきちんと取材されていた。当然ながら、先程の勝又の発言もしっかりと映像や音声に残っており。彼の一連の発言はちょっとした問題を引き起こすことになるのだった。
「早く、処分したほうがいいぞ。アレは確実にアメリカを怒らせる」
抗議集会から2日後。
東京市内にある料亭に保守党の幹事長である大林。民政党幹事長の林。そして最大野党・進歩党幹事長の内藤が集まっていた。
全員が集まってすぐに、大林は内藤に向かって言う。
もちろん、内藤は大林が何を言っているのかわかっており深々とため息を吐いた。
「――すでに、アメリカ大使から抗議を受けている。『事実無根のことを言うな』とな」
「全国放映されましたからなぁ…そうじゃなくてもすぐに向こうには伝わったでしょうなぁ。耳のいい人はどこにでもいるから」
林の追撃ともいえる一言に内藤はガクッと肩を落とす。
実は、すでに処分に関する話を代表の枝橋やそれ以外の幹部たちとも行っていた。詳しい話は後日するが、少なくとも今の職を解くことでは一致していた。当人には発言の撤回をすべき、と説得しているのだが「事実なのだから撤回はしない」と当人は強気だ。
一体、どこからそんな強気なことをいえるのかわからないが、急進派ではそれを支持する声があちこちから出ているという。一方で、中立派や穏健派などからは「このままでは党全体のイメージがダウン」すると執行部に厳しい処置をとるべきだという声が出ていた。
「――すでに、勝又を政調会長から更迭することは決まっているんだ。まあ、急進派の連中が猛反発しているんだがな」
「『勝又の言っていることは正しい』だったか?今日もニュースに流れてたよ。少し調べればそれが事実誤認だと気づくはずなんだがなぁ」
「それにしても、なんでまた彼を政調会長なんかに?もっと優秀な人材は進歩党に残っていると思うんですが」
林の疑問に大林は「どうせ、急進派のゴリ押しだろ?」と吐き捨てると事実なのか内藤は苦々しい顔で「向こうのたっての希望だ。一応党内融和のために枝橋さんはそれを受け入れた」と頷いた。
「それで、政調会長という重要ポストを絵空事しか言わない若造に与えた?」
勝又に対しての大林の物言いは非常に辛辣なものだったが、それには理由がある。今回の「アメリカが最初に仕掛けた戦争」というのもそうだが、彼は公の場でしばしば事実と異なることを事実かのように発言するという問題を起こしていた。
そのたびに、当人は「自分は間違ったことを言っていない」と最初は開き直るのだが反発が強まるとすぐに撤回するというのを繰り返していた。大林はこの行動を「自分の信念が一切ない」として激しく嫌っていた。
自分の政策なにもなく、ただの思いつきと陰謀論しか口に出さない人物を党の政策決定の要ともいえる政務調査会のトップに据える人事には他党のことながら我慢ならなかったのだ。
「向こうが譲らなかった。副会長案すら突っぱねて『党内融和などといって保守派を優遇するのか』と圧力をかけてきた。結局、枝橋さんは頷くしかなかったんだよ」
かわりに、副会長には保守派に在籍している進歩党随一の政策通と言われている人物を登用することで「バランス」をとることにしたのだが、この様子を見る限りうまくはいっていないようだ。
そもそも、進歩党という政党は船出からして歪だった。
1993年。当時与党であった民政党では政治資金の問題などで党を二分する抗争が勃発。保守党などの野党は現政権は政権運営能力がないとして内閣不信任案を提出する。当時の衆議院は、民政党がかろうじて過半数を確保している状態だった。普通ならば、不信任案が提出されても与党が過半数を超えているならば、可決されることはない。
しかし、当時の執行部に不満を持っていた相当数の議員が造反し、賛成票を投じた。結果的に、内閣不信任案は可決され時の総理は内閣総辞職ではなく、衆議院を解散することを決めたのだ。
進歩党を作ったのは、その時に内閣不信任案に賛同し、集団離党した議員たちだ。元々民政党は保守からリベラルまで幅広い政治思想を持った議員たちがいて進歩党を設立したのもまた、保守とリベラルが半々だった。
そのため、進歩党は当初「穏健保守」とか「リベラル保守」という旗頭を掲げており保守党よりもマイルドでなおかつ、民政党よりも透明性がある政党ということをアピールしていた。最初の選挙であった93年の衆院選では単独過半数を超えた保守党に次ぐ議席数を得て、僅差ながら野党第一党となる。民政党は内部分裂したことが発端となって大敗し、議席数を大幅に減らすことになる。
その後の進歩党は着実に組織を固めていき、選挙においても着実に議席を増やしていき「民政党にかわって保守党と政権交代できる政党」へ成長していく。
実際に2000年の選挙では保守党を抑えて比較第一党となり中小の政党と連立を組む形で政権交代を実現した。ただ、この政権は1年ほどで瓦解してしまう。
かわりに、政権を握ることになったのは保守党であった。
しかも、長年ライバルとして対立してきた民政党との連立だ。
ただ、その状況でも進歩党にはまだ勢いがあった。
2005年の選挙では議席を減らしたものの野党第一党の座は確保し、続く2009年には単独で過半数を超えて政権交代を実現したのだ。この間に、進歩党は中規模のリベラル政党である民主党や、左派政党である「改革党」などと合併しており、保守派よりもリベラル派のほうが多数派になりそれまでの「リベラル保守」から明確に「リベラル政党」を名乗るようになり、それまで長く続いていた「保守二大政党」の時代が終わった。
もっとも、第二期進歩党政権もうまくはいかなかった。
選挙で掲げていた公約の多くはすぐに実現できるものではなかった。
とりわけ、減税などはすぐに「財源が見つからなかった」といって事実上撤回し、大きな反発を受けたし。
国会審議においても、野党からの質問にうまく答えられない閣僚が相次ぎ、週刊誌や新聞などでは次々と閣僚などの失言などで辞任や更迭が政権発足から半年後で3件もおきるなど、保守系メディアから「政権運営能力がなさすぎる」と批判されたり。
外交面でも「アメリカとの関係を見直し、近隣諸国との関係を再構築する」などと外務大臣や総理が発言したり、ソ連や北中国が行った大規模な軍事演習に対して幾分と抑えたコメントを残すなど。アメリカから距離をおいてソ連や北中国に接近しているかのような行動をとって、アメリカ側が不快感を示すなど、日米関係を含めた周辺の外交関係をギクシャクさせるような行動をとり、保守系だけではなく政権に同情的なリベラル系メディアからも批判的な論調な記事がでるなど、第一次政権以上に問題が目立った。
政権支持率は下落を続け、半年後には不支持が7割を超える状態だった。
野党は1年後に内閣不信任案を提出。これは、過半数を占めていた与党によって否決されたが直後の参議院選挙で与党が敗退したことにより、与党内でも時の総理への反発が強くなる。そして、ニ度目の不信任案が提出されると今度は与党内からも同調の動きが出て不信任案は可決してしまう。
後退も前進もできなかった当時の総理は20年前の民政党政権時と同じように解散総選挙という博打にでるが、選挙は記録的な大敗。
保守党を中心とした保守連合が与党の座に帰り着く。
そして、その時に保守党の総裁を務めていた岸辺晴彦はその後10年以上の長期政権を築いていった。
一方の、大敗を喫した進歩党はすぐに党の立て直しをはかるが、その過程で急速に左派色を強めるようになる。若干数残っていた保守派はこれに反発するが、すでにこの過程で党の過半数は左派で占められており、保守派は要職から外されるなどの非主流派に追い込まれていった。
その3年後の2015年。非主流派になっていた保守派の議員たちが集団離党し、新たな中道政党である「自由党」を設置するのだった。
「やっぱり、あの時に内藤さんも自由党に移ればよかったんじゃないか?野村さんたちも誘ってただろう?」
大林の問いかけに、内藤は肩を竦めるだけで何も答えない。
実は、進歩党保守派が集団離党を画策しているという情報が出た時、保守派のリーダー格であった内藤が中心となって動いているという情報が永田町では一般的だった。しかし、内藤は離党には参加せずに党に残ったので記者はもちろんのこと与野党の国会議員たちも首をかしげたのだ。
進歩党に残っていても冷や飯を食わされるのがわかっているのに、なぜ内藤は自由党の結党に参加しなかったのか、と。実際に内藤は10年にわたって党の要職につくことはなかった。代表戦にも何度か立候補し、決選投票に進むことも多かったが勝ち上がることは出来なかった。
内藤が進歩党に居続ける理由はどう見てもない。このまま、党に残っていても引退まで非主流派であり続ける。ならば、思想があう自由党に移籍したほうがはるかに有意義だろうと。
「中から進歩党を改革したかったんだよ…出来た時の進歩党は民政党にかわる『リベラル』『リベラル保守』の受け皿になるはずだった。だが、2000年で棚からぼた餅のように政権をとってからおかしくなった。執行部はとにかく規模を拡大して、保守党に並ぶ政党になろうとした――社労党や民主党という左派と合併することだって是としてな。そして、あの当時の俺もそれが正しいことだと思いこんでいた。実際は、右から左までが混在する玉虫色の政党になるだけ。党の中で意見を一致させることすらできない。全員バラバラの方向をみた結果が、1年での瓦解だ――逆に、保守党と手を組んだ民政党は進歩党が目指していたはずの『リベラル保守』になって、保守党と対決するんじゃなく協調することで自分たちの存在感を高めていた。あの時の代表――小林さんがあそこまでやれるなんて民政党に居た頃は思わなかったし、悔しかったよ」
そこで内藤は言葉を区切る。
「2009年に政権をとったときだってそうだ。あの時の熱狂具合はすごかったが俺はすぐに大きな壁にぶちあたると思った。案の定、公約はすべて『財源』の前に脆くも崩れた。党内では『国防費を削ってでも財源を確保すべき』と左派が言い出したほどだ。あの時は、まだ保守派も多かったから阻止することはできたが、次は年次で選んだ閣僚が失言だらけ――だから2012年に負けたときはちょうどいいと思った。これで、党を生まれ変わらせることができるとな。まあ、実際には無理だったんだがな。結局、党は更に左派色を強めるだけになった。そうしたほうが、党勢を維持できると思ってな。実際、最初の数年はうまくいっていたよ。だが、結局岸辺さんの長期政権を打倒できるまでにはならなかった。野田たちが我慢できずに党を抜けることを選んだのもその時だ。野田はいったよ『進歩党に未来はない』ってな。でも、俺は諦めきれなかった。進歩党そのものに愛着もあったからな。だから、野田の誘いを断って進歩党に残ったんだが…まあ、結果は見ての通りだがな。それでも、途中で逃げ出すことなんて出来ないんだよ」
そう言い切った内藤は悔しそうに顔を歪めた。
大林は、後日「内藤さんは生真面目すぎるんだよ」という言葉を零したという。




