第六話「地図の授業と、毛虫の復活」
翌朝。
俺は執務室に地図を広げて待っていた。
昨日アリスが「地図で教えていただけますか」と言った。
自分から頼んできた。
初めてだった。
……準備は万全だ。
信〇の野望で培った地政学の知識。
歴史シミュレーションで学んだ外交理論。
これを分かりやすく教えれば、アリスの外交パラメータは一気に上がるはずだ。
育成ゲームで言えば、才能開花イベントだ。
扉がノックされた。
「失礼します」
アリスが入ってきた。
いつもより少しだけ早足だった気がした。
椅子を引いて座る。
地図を見る。
その目が、わずかに輝いていた。
毛虫を見る目ではなかった。
……好感度、上がってるな。
「始めるか」
「はい」
俺は地図の中央を指差した。
「まずアルタミス大陸全体の地形から説明する。地形を知らずに外交は語れないからだ」
アリスが地図に視線を落とした。
「なぜですか」
「地形が国の性格を決めるからだ。山に囲まれた国は守りに強いが物流が弱い。平原の国は豊かだが攻められやすい。海に面した国は交易で栄えるが海からも攻められる」
アリスが頷いた。
「アトラクトは」
「北と西に海がある。東に山岳地帯。南に平原」
「守りやすい地形ですね」
「そうだ。だから軍事力が弱くても今まで生き残れた」
アリスがまた頷いた。
真剣に聞いている。
……この子、本当に飲み込みが早い。
「次に隣国との関係だ。東のガレスは——」
授業が続く。
アリスは黙って聞いている。
時々質問してくる。
その質問が、毎回的を射ている。
一時間が過ぎた。
俺は話しながら、だんだん乗ってきていた。
ゲームの知識をそのまま話せる相手がいるというのは、引きこもり歴十年の俺には新鮮だった。
……楽しいな。
こういう感覚、久しぶりだ。
調子に乗ってきた。
「外交の基本はな、相手の弱点を把握することだ。どこを突けば動くか。何を恐れているか。何を欲しがっているか」
「なるほど」
「例えばガレスは好戦的だが、実は補給路が細い。ここを——」
俺は地図上の一点を指差した。
「——ここを押さえれば、戦わずして動きを封じられる。捨て駒を一つ置くだけでいい」
アリスが、止まった。
「……捨て駒、ですか?」
「ああ。外交でも軍事でも、捨て駒は必要だ。重要じゃない場所に兵を置いて、相手の注意を引く。そうすれば本命が動きやすくなる」
アリスは地図を見たまま、何も言わなかった。
……あれ?反応が止まった。
「次に、人を動かす方法だが——」
俺は続けた。
「基本は二つだ。恐怖による圧力か、利益か」
「……恐怖か、利益か」
アリスが繰り返した。
その声が、さっきより少し低かった。
「そうだ。人は恐怖を感じると従う。あるいは利益があると動く。それ以外の動機は、長続きしない」
信〇の野望の外交セオリーそのままだが、割と正しい気がする。
「……そうですか」
アリスが言った。
「よく分かりました」
俺は顔を上げた。
アリスを見た。
毛虫を見る目が、戻っていた。
……え? なんで?
「今日はここまでにします」
アリスが立ち上がった。
「続きはまた今度、お願いします」
丁寧な言葉だった。でも、昨日より距離があった。
扉が閉まった。
俺は地図の前で一人、固まった。
……何がまずかった?捨て駒のくだりか?
でも外交の基本を教えただけだぞ?
力で脅すのも利益で釣るのも、ゲームでは定石だぞ?
分からなかった。
……また毛虫目線に戻った。
せっかく「毛虫ではないかもしれない」まで来たのに。
俺は地図を眺めた。
アルタミス大陸の地図。国境線。山脈。河川。
さっきまで二人で見ていた地図が、急に広く見えた。
◇
アリスは廊下を歩いていた。
足が、いつもより少し速い。
書斎に戻れば落ち着く。
そう思って歩いた。
(……捨て駒)
その言葉が、頭の中でぐるぐる回っていた。
捨て駒。
外交に捨て駒は必要だ。
人を動かすのは恐怖か利益だ。
父は、当然のようにそう言った。
(……以前のお父様も)
(同じようなことを言っていた)
処刑を見せられた日のことを思い出した。
「狂王!!人の皮を被った悪魔め!」
処刑台で男が叫ぶ。
「愚かな奴だ。これが王の力だ」
「アリス、お前はアトラクトの切り札だ」
「感情は不要だ」
あの時の父の目と、今日の父の目が、頭の中で重なった。
(……やっぱり、同じなのかもしれない)
書斎の扉を開けた。
椅子に座った。
本を手に取ったが、開かなかった。
窓の外を見た。
今日の午前中は楽しかった。
地図の説明は面白かった。
父の話を聞いていると、世界が少しずつ形を持ち始める気がした。
なのに。
(……捨て駒)
(恐怖か、利益か)
アリスは本を机に置いた。
膝の上で手を組んだ。
(……分からない)
(前のお父様とは違う、と思っていたに)
(でも、やっぱり同じなのかな)
(それとも)
答えが出ない。
アリスは窓の外を見たまま、しばらく動かなかった。
◇
翌日。
翌々日。
アリスは授業に来た。
ちゃんと来た。
でも、何かが違った。
質問が減った。
前のめりだった姿勢が、少し引いた。
地図を見る目が、どこか遠かった。
俺はそれに気づいていた。
……何がまずかった?
でも何がまずかったのかが分からない。
授業をしながら、頭の片隅でずっと考えていた。
捨て駒の話か。
恐怖か利益かという話か。
でも、それの何がまずいんだ。
外交の現実を教えただけだろ。
……ゲームでは正しい知識のはずだ。
でも、なぜアリスの目が変わった。
答えが出ないまま、三日が過ぎた。
四日目の夜。
俺は執務室で書類を眺めていた。
財政の数字を見ているはずなのに、頭に入ってこない。
……捨て駒。
自分が言った言葉が、急に頭に浮かんだ。
捨て駒は必要だ。
人を動かすのは恐怖か利益だ。
俺はゲームの知識としてそう言った。
でも。
……アリスの目線から見たら、どう聞こえた?
前の記憶が、断片的に流れ込んできた。
「お前はアトラクトの切り札だ」
「感情は不要だ」
「これが王の力だ」
……あ。
……そういうことか。
俺は書類を置いた。
前の俺も、同じようなことを言っていたのか。
だからアリスには、俺の「捨て駒」という言葉が
前の俺と重なって聞こえた。
胃が痛くなった。
やらかした。やらかしていたのか、ずっと。
外交の知識を教えることと、人を駒として見ることは違う。
でもアリスには、その区別が見えなかったのかもしれない。
いや、正確には。
……俺自身が、その区別をちゃんと言葉にしていなかった。
俺はペンを取った。
紙に何かを書こうとして、止まった。
……謝るべきか??でも何を謝る?
「捨て駒という言葉を使ってすみません」か?
それは違う気がする。
謝ることじゃなくて、伝えることが大事な気がする。
でも何を伝える?
答えが出なかった。
窓の外が暗い。
月が出ていた。
……難しいな、ゲームより難しい。
ゲームなら選択肢が出るのに。
俺はしばらく月を見ていた。
◇
五日目の授業。
アリスが地図の前に座った。
俺も座った。
しばらく、どちらも喋らなかった。
地図を見ていた。
「アリス」
「はい」
「この間、捨て駒という言葉を使った」
アリスが、かすかに反応した。
「ゲームの……いや、外交の知識として言ったんだが」
ゲームという言葉は出すな。。
「人を駒として見ているわけじゃない」
アリスが俺を見た。
毛虫を見る目だった。
でも、何かを聞こうとしている目でもあった。
「では、何と見ているのですか」
俺は少し考えた。
……なんと答える?
ゲームなら選択肢があるのに、現実には何もない。
「……分からない」
「また、分からない、ですか」
アリスの口角が、わずかに上がる。
「お父様はいつも分からないと言います」
「……そうだな」
「それは、正直なのですか?」
「……正直だ」
「それとも」
アリスが、少し間を置いた。
「考えていないのですか?」
静かな問いだった。
でも、鋭かった。
俺は答えなかった。
すぐには答えられなかった。
「……考えている」
「……でも、まだ答えが出ていない」
アリスが俺を見た。
うぅ、まだ毛虫を見る目だった。
でも、少しだけ、強度が弱まった気がした。
「続きを、聞かせてください」
「授業の続きか?」
「はい」
アリスが地図に視線を戻した。
「捨て駒の話は、もう一度聞かせてください」
「また聞くのか」
「今度は、お父様がなぜそう考えるのかを聞きながら、考えます」
俺は少し考えてから、頷いた。
「分かった」
授業が再開した。
さっきより、アリスの質問が少し増えた。
前のめりには、まだ戻っていない。
でも、完全に引いてもいない。
その日の毛虫目線は、久しぶりに「毛虫を見る目・弱」だった。
◇
執務室に戻ると、パラネスが少し改まった顔で入ってきた。
「陛下、一つご報告が」
「なんだ」
「東の貴族、ハルデン侯爵が
側近に漏らしているとの情報が入りました」
「何を?」
「陛下が、呪いにかかっているのではないかと」
「そうか」
……やっぱりそういう話になるよな。
急に優しくなった暴君が怖いのは当然だ。
「様子を見よう」
「……御意」
◇
その夜、アリスは日記を書いた。
「今日、お父様が謝った」
ペンが止まった。
正確には謝ったわけではない。
でも、あれは謝罪に近かった。
「捨て駒という言葉を使ったが、人を駒として見ているわけじゃない、と言った」
「本当かどうかは分からない」
「でも」
アリスはペンを置いた。
窓の外に月が出ていた。
さっきまで父も同じ月を見ていたのかもしれない、と思った。
なぜそんなことを思ったのか、自分でも分からなかった。
「……でも」
もう一度ペンを取った。
「今日の授業の続きを、聞いてみたいと思った」
「それが答えなのかもしれない」
日記を閉じた。
燭台の火を吹き消し、暗闇の中で、目を閉じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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