第二十五話「書き置きだけが残っていた」Ⅱ
出発前。
アリスのいる部屋に寄った。
「……お父様」
「うん」
「行くのですか」
「行ってくる」
「……シオンは」
「パラネスとジークに頼む」
「……私も、行きます」
「駄目だ」
「なぜですか」
「危ない」
「お父様が行くのに」
「俺が行くから、お前は残れ」
アリスが少し黙った。
「……シオンを、守れということですか?」
「そうだ」
「また、同じことを言います」
「ああ」
アリスが、シオンを見た。
「……分かりました」
「ありがとう」
「……でも」
アリスが俺を見た。
その目が、少し強くなっていた。
「必ず、連れて帰ってください」
「うん」
「お母様を」
「うん」
「……お父様も」
俺は少し固まった。
「お父様も、か?」
「はい」
「……俺も、か」
「はい」
アリスが、また俯いた。
「……両方、いないのは」
声が、少しだけ小さくなった。
「……嫌です」
俺は、何も言えなかった。
……嫌です、か。
アリスが、そう言った。
「分かった」
「約束してください」
「約束する」
アリスが、シオンを抱いたまま、少しだけ頷いた。
その目に、何かが滲んでいた。
気づかれないように、少し顔を背けた。
……泣きそうになっているのか。
でも、泣かないようにしている。
八歳が、必死に堪えている。
パラネスに、最後の指示を出した。
「シオンとアリスを、頼む」
「はい。必ずや」
「アリスが、無理をしないように見ていてくれ」
「承知いたしました」
「……あと」
「はい」
「アリスが泣いたら、そのままにしてやってくれ」
パラネスが、少し驚いた顔をした。
「わかりました。止めません」
「ああ。止めなくていい」
「……御意」
「それと、もし外交問題が起きたら」
「何とかいたします」
「頼む」
「……陛下」
「なんだ」
「お気をつけて」
「ああ」
扉が閉まった。
王宮の門を出る時、振り返った。
窓に、アリスの影が見えた。
シオンを抱いたまま、こちらを見ていた。
俺は、少しだけ手を上げた。
アリスが、少しだけ頷いた。
門が、閉まった。
書き置きを、懐にしまった。
「馬を」
「はい」
ランダが頷いた。
「……陛下、剣が」
「また逆さまか」
「はい」
ランダが、無言で直してくれた。
……行くぞ、エルザ。
心の中だけで、呟いた。
……言葉を、見つけてきた。
今度は、間に合う。
馬が、前を進んだ。
◇
王宮の窓。
アリスは、父の背中が見えなくなるまで見ていた。
見えなくなった。
シオンが、アリスの指を握った。
力強い握り方だった。
「……シオン」
返事はなかった。
当たり前だ。
まだ言葉を話せない。
でも、握った手は温かかった。
アリスは、窓から離れた。
部屋の椅子に座った。
シオンを抱いたまま。
しばらく、動かなかった。
(……両方、いないのは嫌だと言った)
(お父様に、言えた)
言えたことが、少し不思議だった。
以前の自分なら、言えなかった。
でも、今日は言えた。
「嫌です」と。
「両方いないのは、嫌です」と。
(……約束してくれた)
(お父様が)
シオンが、また指を握り直した。
アリスは、シオンの手を握り返した。
目に、何かが滲んだ。
今度は、拭かなかった。
パラネスが入ってきた。
「アリス様」
「……はい」
「……少し、泣いていいですよ」
アリスが少し固まった。
「……泣いていません」
「そうですか」
「……目に、ゴミが」
「……そうですか」
パラネスが、隣に座った。
何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
しばらくして。
アリスの肩が、少しだけ震えた。
声は出なかった。
でも、震えた。
パラネスは、何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
シオンが、アリスの指を、また握り直した。
その夜。
アリスは日記を書いた。
「お母様が、いなくなった」
「書き置きがあった」
「シオンのことをお願いします、と書いてあった」
「行きたくない気持ちもある、と書いてあった」
ペンが止まった。
「……怒っているのか、怒っていないのか、分からない」
「両方、ある気がする」
「お父様が言った通りだった」
「お父様も追いかけていった」
「約束してくれた」
「二人とも無事、帰ってきてほしい」
「……嫌だと、言えた」
「言えると思っていなかった」
「でも、言えた」
アリスは少し考えた。
最後の一行を書いた。
「……泣いた」
「パラネス様が隣にいてくれた」
「シオンが手を握ってくれた」
日記を閉じた。
燭台の火を吹き消した。
暗闇の中で、目を閉じた。
隣の部屋で、シオンが小さな寝息を立てていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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