第二十五話「書き置きだけが残っていた」Ⅰ
転生して七ヶ月と少し。
朝が来た。
いつもと同じ朝のはずだった。
侍女頭が、執務室に飛び込んできた。
「……陛下」
その声のトーンが、いつもと違った。
俺は書類から顔を上げた。
「王妃様が」
「なんだ」
「お部屋に、おられません」
俺は立ち上がった。
エルザの部屋に入った。
シオンの揺りかごが、部屋の隅にあった。
シオンは、そこにいた。
眠っていた。
穏やかな寝顔だった。
置いていかれたことを、まだ知らない顔だった。
机の上に、紙が一枚あった。
俺はそれを手に取った。
「貴方を一人にしてごめんなさい。
シオンとアリスのことを、お願いします。
私は祈りに行きます。
届くかどうか、分かりません。
でも、行かなければならない気がして。
……本当は、行きたくない気持ちもあります。
でも、行かなければ、もっと後悔する気がします。
貴方が言葉を見つけてくれるのを、待てなくてごめんなさい。
エルザ」
俺は書き置きを持ったまま、動けなかった。
……待てなかった。
言葉を見つけてくれるのを、待てなかった。
俺が、遅すぎた。
シオンが、寝返りを打った。
小さな音がした。
それだけだった。
書き置きの文字を、もう一度見た。
「本当は、行きたくない気持ちもあります」
その一文だけ、少し文字が乱れていた。
書いて、消して、また書いたような跡があった。
……迷っていたのか。
それでも、書いた。
俺に、伝えたかったのか。
シオンがまた動いた。
小さな手が、揺りかごの端を握った。
その手が、エルザの指に似ていた。
俺は書き置きを、静かに机に置いた。
廊下に出た。
アリスが、廊下の端に立っていた。
「……お父様」
「うん」
「……お母様は」
「……行ってしまったよ」
アリスが少し俯いた。
「なにか書き置きがありましたか?」
「ああ」
「シオンのことは」
「お願いします、と書いてあった」
アリスが、少し黙った。
その目が、揺れていた。
毛虫を見る目でも、観察する目でもない。
ただ、揺れていた。
「……アリス」
「なんですか」
「……怒っているか」
アリスが少し考えた。
「……分かりません」
「そうか」
「……怒っているのかもしれないし」
「……怒っていないのかもしれません」
「……どちらも、あるのかもしれないな」
「……はい」
シオンの泣き声が、部屋の中から聞こえてきた。
アリスが振り返った。
「……シオンが」
アリスが部屋に入った。
俺も入った。
アリスが、シオンを抱き上げた。
最初は、少しぎこちなかった。
でも、シオンが泣き止んだ。
アリスが、シオンを見た。
「……お母様がいないこと、分かるのかな」
「赤ちゃんには、分かるらしい」
「……そうですか」
「……でも、今は泣き止んだ」
「お姉様だから、ですかね」
「そうかもしれない」
アリスが、シオンを抱いたまま窓の外を見た。
しばらくして、ランダが執務室に来た。
「……陛下、申し上げにくいことが」
「なんだ」
「王妃様が出発される前夜、ミーテラスの使者が王宮に来ておりました」
俺は少し固まった。
「……ラザミア女王か」
「はい。王妃様は、姉君を通じて護衛を手配されていたようです」
「エルザが、自分で手配したのか?」
「はい。ミーテラスの護衛が四人、王妃様と同行しております」
俺は少し黙った。
……準備していたのか。
行きたくない気持ちもある、と書きながら。
準備は、ずっと前からしていた。
それは、
俺が言葉を見つけられなかった時のための、準備だったのか?
「私も気づくのが遅く、独断で部下を三人、後から追わせました」
「ランダ」
「出過ぎた真似を、申し訳ありません」
「いや」
「……ありがとう」
ランダが、深く頭を下げた。
「ザミアは、何のために護衛を出した」
「妹君への配慮かと思いますが」
「それだけか?」
ランダが少し間を置いた。
「ミーテラスの女王が、何も考えずに動くとは思えません」
「そうだな」
「……ただ、今はそこまで考える余裕が」
「……ない。分かった」
……ラザミア。
エルザを通じて、何かを見ている。
それは後で考える。
今は、エルザだ。
「馬を用意しろ」
俺は言った。
パラネスが飛んできた。
「陛下!」
その声に、珍しく焦りがあった。
「なんだ」
「……少し、お待ちください」
「急ぐ」
「陛下、お聞きください」
パラネスが、俺の前に立った。
珍しかった。
パラネスが、俺の前に立ちふさがることは、今まで一度もなかった。
「アトラクトは、現在のアソセス問題において中立の立場をとっています」
「……知っている」
「ベベクロとの交渉で、そう約束しました」
「……知っている」
「その中立国の王が、戦場に出向けば」
パラネスが続けた。
「アトラクトの立場が、根本から覆ります」
「……分かっている」
「ガレスに口実を与えることになります。『アトラクトは中立ではなかった』と」
「……分かっている」
「……では」
「それでも、行く」
パラネスが、少し黙った。
「……陛下」
「な、なんだ」
「もし、どうしても行かれるなら」
「うん」
「……王としてではなく、一人の人間として行かれることをお勧めします」
俺は少し考えた。
「どういう意味だ?」
「王旗を立てず、王の装束を着けず、少人数で動く」
「それなら、外交問題にならないのか?」
「完全には防げません。ですが」
パラネスが少し間を置いた。
「後で『王が行ったとは知らなかった』と言える余地が、残ります」
「……詭弁じゃないか」
「……はい」
パラネスが、深く頭を下げた。
「でも、今の私にできる最善です」
俺は少し黙った。
……パラネスが、俺のために詭弁を使う。
この老大臣が。
「ありがとう、パラネス」
「……御意」
「アトラクトの旗は立てない。王の装束も着けない。ランダとジークだけ連れていく」
「はい」
「もし後で問題になったら」
「私が何とかいたします」
「……頼む」
パラネスが頭を下げた。
「一つ、よろしいですか」
「なんだ」
「現在の戦況をご説明してもよろしいですか」
「聞く」
パラネスが地図を広げた。
「アソセスでは、親ガレス派の貴族が反乱を起こしています」
「……ガレスが裏で焚きつけているのか?」
「そう見られています。表向きはアソセスの内部問題ですが」
「実態は、ガレスとアソセス反乱軍 VS アソセス正規軍とラインベルトの構図か」
「はい。そこにアトラクトは中立として関与しておりませんでした」
「エルザが向かっているのは」
「アソセスとラインベルトの境界付近の村です。現在は戦線から離れていますが」
「……戦況次第で、前線が動く可能性がある」
「はい。急がれた方がよろしいかと」
「……分かった」
俺は地図を一度だけ見た。
……アリスが授業で話していた国境付近だ。
エルザは、そこにいる
「行くぞ」
「……御意」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
続きが気になった方は、ぜひ次の話もお楽しみにしてください。
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