第二十四話「パラネスの進言」
転生して七ヶ月が経った。
エルザが「巡礼に行きたい」と言った翌日。
俺は執務室で書類を眺めていた。
でも、頭に入ってこなかった。
…言葉が足りなかった。
夫だからだ、としか言えなかった。
他に何か言えなかったのか?
羽ペンを置いた。
窓の外を見た。
王宮の庭に、朝の光が差し込んでいた。
……エルザは、今どう思っているのか。
考えさせてください、と言っていた。
考えた結果、やっぱり行く、と言ったら?
俺はどうする。
答えが出なかった。
ノックの音がした。
「パラネスです」
「入れ」
老大臣が入ってきた。
「陛下、少しよろしいですか」
「ああ」
パラネスが椅子に座った。
珍しかった。
パラネスは普通、立ったまま報告する。
座ることは、あまりない。
「……王妃様のことで」
「聞いていたのか」
「はい。侍女頭から」
「そうか」
「……陛下は、止めたいのですか」
「ああ」
「理由は」
「……嫌な予感がする」
パラネスが少し間を置いた。
「……それだけですか」
「言葉にならない部分がある」
「……なるほど」
パラネスが窓の外を見た。
「……陛下、一つよろしいですか」
「言え」
「……王妃様が巡礼に行きたいと思う気持ちは、以前からあったかと思います」
「そうだろうな」
「以前の陛下の時代から、夜中に祈りを捧げておられました」
「……知っている」
「この城の中では、祈りが届かない気がするとおっしゃっていたと、侍女から聞いたことがあります」
俺は少し黙った。
……この城の中では、祈りが届かない。
それは、きっと前の俺のせいだ。
「……エルザの気持ちは、分かる」
「はい」
「でも、行かせたくない」
「……はい」
「どうすればいいと思う」
パラネスが少し驚いた顔をした。
俺が「どうすればいいと思う」と聞くのは、珍しいらしかった。
「私の意見を、申し上げてもよろしいですか」
「言え」
「王妃様の気持ちを、もう少し聞いてみてはいかがですか」
「……聞いた」
「巡礼に行きたいという気持ちは聞きました。でも」
パラネスが少し間を置いた。
「なぜ行きたいのか、の奥まで聞かれましたか」
俺は少し黙った。
……奥まで、か。
戦場の兵士に祈りを届けたい、とは聞いた。
でも、その奥は、聞いていなかった。
「……聞いていなかった」
「はい」
「……そうか」
パラネスが立ち上がった。
「……陛下」
「なんだ」
「王妃様は、長い間、この城の中で一人で抱えていたものがあると思います」
「……ああ」
「それを、陛下に話せるようになったのは」
「……最近のことだと思います」
俺は何も言えなかった。
……最近のことだ。
前の俺なら、エルザは何も話せなかった。
今だから、巡礼に行きたいと言えた。
それは、
「……話を聞きに行く」
「はい」
「ありがとう、パラネス」
パラネスが、深く頭を下げた。
「……御意」
扉が閉まった。
エルザの部屋。
ノックした。
「……どうぞ」
入ると、エルザがシオンを抱いていた。
「……少し、話せるか」
「はい」
侍女たちが出ていった。
二人きりになった。
……また二人きり。
落ち着け。
今はそういう話じゃない。
椅子を引き腰掛ける。
「……昨日の話の続きだ」
「はい」
「俺の言葉が、足りなかった」
エルザが少し驚いた顔をした。
「夫だからだ、とだけ言った」
「……はい」
「それだけじゃなかった」
「では、何がありましたか?」
俺は少し考えた。
「エルザが、なぜ巡礼に行きたいのか?」
「……はい」
「戦場の兵士に祈りを届けたい、とは聞いた」
「はい」
「……でも、その奥は聞いていなかった」
エルザが少し黙った。
シオンを見た。
「この城の中では」
静かな声だった。
「……祈りが、届かない気がするのです」
「なぜだい?」
「うまく言葉にならないのですが」
エルザが窓の外を見た。
「以前、この城はとても怖い場所でした」
「……ああ」
「祈っても、怖さが支配していました」
「そうか」
「……今は、以前ほど怖くありません」
俺は少し黙った。
「……でも」
エルザが続けた。
「……祈りが届く場所に、行きたいのです」
「……それが、戦場か」
「はい。戦場には、本当に祈りを必要としている人がいます」
「……そうなのか」
「……私の祈りが、誰かの役に立てるなら」
エルザがシオンを見た。
「……それが、私にできることだと思っています」
俺は少し黙った。
……エルザには、与えられるものがある。
祈りだ。
届くかどうかは分からない。
正直、俺は神様も仏様もあまり信用していない。
でも、傍にいることで救われる人がいる。
エルザは、そう確信している。
俺は、街を歩いて「与えられるものが何もない」と思った。
でも、エルザには最初からあった。
「……分かった」
エルザが少し驚いた顔をした。
「……行っていいということですか」
「……いや」
「……では」
「……まだ、行かせたくない」
エルザが少し黙った。
「……ただ」
俺は続けた。
「……エルザが何を大事にしているかは、分かった」
「……はい」
「……もう少し、待ってくれないか」
「……何を待つのですか」
「……俺が、言葉を見つけるのを」
エルザが、少し間を置いた。
その表情が、わずかに動いた。
「……言葉を、見つける」
「……今は、嫌な予感と、夫だからだ、しか言えない」
「……はい」
「……それ以上の言葉を、見つけたい」
長い沈黙。
エルザが、シオンを見た。
「……分かりました」
「……ありがとう」
「……いいえ」
エルザが、少し考えてから言った。
「……陛下」
「なんだ」
「……言葉が見つかったら、聞かせてください」
「ああ」
「……楽しみにしています」
その声は、穏やかだった。
俺は少し驚いた。
……楽しみにしている、か。
エルザが、そういうことを言うとは。
童貞に優しくしないでほしい。
いや、今はそういう話じゃない。
扉が閉まった。
俺は一人、廊下に出た。
……言葉を見つける。
大きなことを言ってしまった。
でも、言わなければならなかった。
窓の外に、朝の光が差し込んでいた。
◇
アリスは書斎で地図を見ていた。
今日の授業はまだだった。
でも、一人で地図を眺めていた。
ノックの音がした。
「……」
パラネスが顔を出した。
「アリス様、少しよろしいですか」
「はい」
パラネスが入ってきた。
椅子に座った。
「王妃様のことで、少し」
アリスが地図から顔を上げた。
「お母様が、巡礼に行きたいと言っているのは知っています」
「そうですか」
「お父様が止めているのも」
「はい」
パラネスが少し間を置いた。
「アリス様は、どう思われますか」
アリスが少し黙った。
「分かりません」
「分からない、ですか」
「お母様が行きたいのは、分かります」
「はい」
「お父様が止めたいのも、分かります」
「はい」
「どちらが正しいのか、分かりません」
パラネスが少し頷いた。
「……アリス様」
「なんですか」
「どちらが正しいか、という問いに答えがないことはよくあります」
アリスが少し考えた。
「外交と、同じですか」
「似ているかもしれません」
「どちらも正しくて、どちらも間違っていない」
「はい」
アリスが地図を見た。
「……難しいですね」
「はい」
「……地図の方が、簡単です」
パラネスが、少し笑った。
「地図には、答えがありますから」
「はい」
アリスが少し俯いた。
「でも」
「なんですか」
「お母様に、行ってほしくはないです」
声が、少しだけ小さかった。
パラネスが、少し間を置いた。
「それを、陛下に言えますか」
アリスが少し固まった。
「言えない、です」
「なぜですか?」
「うまく言葉にならないので」
パラネスが頷いた。
「いつか、言えるといいですね」
「……はい」
パラネスが立ち上がった。
「……アリス様」
「なんですか」
「言葉にならなくても、その気持ちは本物です」
アリスが少し黙った。
「はい」
扉が閉まった。
アリスは地図を見た。
でも、頭に入ってこなかった。
(……行ってほしくない)
その気持ちだけが、頭の中にあった。
言葉にならないまま。
その夜。
アリスは日記を書こうとした。
でも、書けなかった。
何を書けばいいか、分からなかった。
お母様が巡礼に行きたいと言っている。
お父様が止めている。
どちらが正しいか、分からない。
行ってほしくない、という気持ちがある。
でも、それを言葉にすると。
何かが、崩れそうな気がした。
アリスは、日記を閉じた。
書かなかった。
今日は書けなかった。
燭台の火を吹き消した。
暗闇の中で、目を閉じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
続きが気になった方は、ぜひ次の話もお楽しみにしてください。
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