第二十三話「エルザの決意」Ⅱ
夕方。
エルザが執務室に来た。
珍しかった。
エルザが自分から執務室に来ることは、今まで一度もなかった。
「……陛下、少しよろしいですか」
「はい。なんですか」
俺は書類を置いた。
エルザが椅子に座った。
シオンを抱いていなかった。
侍女に預けてきたらしい。
二人きりだった。
……二人きり。
女性と二人きり。
落ち着け、今はそういう話じゃない。
「……お話があります」
エルザが言った。
「聞きましょう」
「……巡礼に、行きたいのです」
俺は少し固まった。
「……巡礼?」
「はい」
「……どこへ」
「戦場です」
「……戦場?」
「アソセスで、戦が始まっています。兵士たちが死んでいます」
エルザの声は、静かだった。
でも、その奥に何かがあった。
「……私は、祈りが届くと信じています」
「……神がいるかどうか、この世界では曖昧だが」
「はい」
「……それでも、祈るのか?」
「はい」
エルザが俺を見た。
「祈りが届かなくても、誰かが傍にいることで、救われることがあると思います」
「……それが、巡礼の意味か」
「はい」
俺は少し考えた。
……前の記憶が、断片的に流れ込んできた。
白いドレス。
泥。
血
小さな少女の手。
文脈はわからない。
でも、胸の奥が締め付けられた。
「い、行かせません」
言葉が出た。
考えるより先に出た。
エルザが、少し驚いた顔をした。
「……陛下?」
「行ってほしくない」
「……これは、私の選択です」
「そ、そうだな」
「……では」
「でも、行かせません」
エルザが、少し黙った。
「……なぜですか」
俺は少し考えた。
……なぜ、か。
うまく言葉にならない。
前の記憶の断片が、嫌な予感として残っているだけだ。
でも、それを説明できない。
「……シオンが生まれたばかりだ」
「そ、それに、危ない」
「戦場ですから、危ないのは当然です」
「……そうだな」
「だから、行きたいのです」
「……それは、理屈が合わない」
「危ないから行く、ということですか」
「……そういう意味じゃなくて」
……言葉が出てこない。
ゲームなら選択肢が出るのに。
現実には何もない。
エルザが静かに首を振った。
「……貴方には、止める権利がありますか」
「……あ、ある」
「なぜですか」
「……夫だからだ」
エルザが、少し間を置いた。
その表情が、わずかに動いた。
「……夫、ですか」
「……そうだ」
「……以前の貴方は、そういうことを言いませんでした」
「……そうだな」
「……」
エルザが窓の外を見た。
しばらく、沈黙が続いた。
「……考えさせてください」
「ああ」
エルザが立ち上がった。
「……一つだけ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「……なぜ、止めたいのですか」
「……正直に言うと」
「はい」
「……うまく言葉にならない」
エルザが少し驚いた顔をした。
「でも、嫌な予感がする」
「……嫌な予感、ですか」
「ああ」
エルザが、また少し間を置いた。
「……分かりました」
扉が閉まった。
俺は一人、執務室に残った。
……嫌な予感、か。
それだけで、止められると思っているのか、俺は。
言葉が足りなかった。
でも、他に言葉がなかった。
窓の外に、夕日が差し込んでいた。
◇
その夜。
エルザは、シオンを抱きながら窓の外を見ていた。
「……巡礼」
呟いた。
行きたかった。
本当に、行きたかった。
この城の中にいると、息が詰まる時がある。
居場所がないと思うことがある。
祈りが届かない気がする時がある。
戦場に出れば、少なくとも祈りを届けられる。
誰かの手を握れる。
傍にいられる。
でも。
(……夫、ですか)
陛下の言葉が、頭から離れなかった。
「夫だからだ」
以前の陛下は、そういうことを言わなかった。
言う必要がなかったから。
止める理由もなかったから。
今の陛下は、止めた。
理由は「嫌な予感」だと言った。
(……嫌な予感)
うまく言葉にならない、とも言っていた。
エルザは、シオンを見た。
小さな顔。
眠っていた。
(……この子がいる)
(アリスもいる)
(でも)
(祈りを届けたい気持ちも、ある)
答えは、まだ出なかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
(……以前の陛下なら、こんなに迷わなかった)
(止めるか、行かせるか、どちらかを命じるだけだった)
(今の陛下は、止めた)
(でも、命令ではなかった)
(……夫だからだ、と言った)
エルザはシオンを寝台に下ろした。
窓の外に、月が出ていた。
祈りを捧げた。
誰に届くか分からなくても。
神がいるかどうかも分からなくても。
それでも、祈った。
(……どうすればいいのか)
(教えてください)
月が、静かに輝いていた。
答えは、来なかった。
でも、いつもより少しだけ、胸が軽かった。
◇
アリスは書斎で日記を書いた。
「今日、本物の書類を見せてもらった」
「カーターベイからの通商の申し入れだった」
「断るべきだと思った」
「お父様も同じ判断だった」
ペンが止まった。
「……お父様と、同じ判断だった」
繰り返した。
「前のお父様とは、一度も同じ判断をしたことがなかった」
「というより、判断を聞かれたことがなかった」
「今のお父様は、聞いてくれる」
アリスは少し考えた。
「今日、書類が面白かった、と言ったら」
「お父様が『変わった趣味だな』と言った」
「でも、お父様も楽しそうに書類を読んでいた」
「だから、同じだと言った」
「お父様が少し困った顔をしていた」
最後の一行を書いた。
「……同じだ、と言えた」
「それが、少し嬉しかった」
日記を閉じた。
燭台の火を吹き消した。
暗闇の中で、目を閉じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
続きが気になった方は、ぜひ次の話もお楽しみにしてください。
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