第二話「嫁がこわい」
妻に会いに行かなければならない。
廊下を歩きながら、俺は自分に言い聞かせた。
妻だ。
この体の妻だ。
現在妊娠中らしい。
前の記憶によれば、名前はエルザという。
……エルザ。
エロゲのヒロインで似た名前のキャラがいた気がする。
攻略したことがある。確か攻略のコツは「最初の会話で好感度を上げる」ことだったはずだ。
落ち着け、エロゲと現実は違うと分かっている。
分かっているだけで、どう違うのかは分からないが。
エルザの部屋の前で立ち止まった。
扉の向こうから、人の気配がする。
……何人いるんだ。
侍女が数人はいるだろう。妊娠中の王妃付きなんだから。
胃が痛い。
深呼吸する。
扉をノックした。
「……どうぞ」
静かな声だった。
扉を開ける。
部屋の中央に、椅子に座った女性がいた。
銀髪。赤い目。
廊下で見た娘のアリスと同じ色だ。
年齢は二十代後半くらいだろうか。
顔立ちは整っていて、どこか神聖な雰囲気がある。
お腹が大きい。
周囲には侍女が三人。
全員がこちらを見ている。
落ち着け。NPCだ。全員NPCだ。
エルザが、俺を見た。
その瞬間、彼女の表情が変わった。
笑顔が消え背筋が伸びた。
手が膝の上でかすかに強張った。
……怖がっている。
明らかに怖がっている。
前の記憶が流れ込んでくる。
この女性に対する、冷たい視線。
道具として見る感覚。
名前を呼んだ記憶が、ほとんどない。
……最低だな、前の俺。
「あ、あの……」
声が出た。
全員がビクッとした。
「……体の具合は、どうですか」
エルザが固まった。
侍女たちも固まった。
全員が石になったかのような沈黙。
……やらかしたか?
でも何がやらかしなのかわからない。
「……はい」
エルザが、かすかな声で答えた。
「……おかげさまで」
その声は平静を保っていたが、指先が微妙に震えているのが見えた。
怖がらせてる。明らかに怖がらせてる。
でもどうすれば怖がらせないのかわからない。
ゲームなら選択肢が出るはずなのに。
【A:「無理はしないでください」と言う】
【B:「何か食べたいものはあるか」と聞く】
【C:「子供の名前は決めたか」と話題を変える】
脳内で選択肢を並べる。
Aが無難か。
Bは食べ物の話題で場を和らげる効果がある。
Cは……まだ早いかもしれない。
「……その、無理はしないでください」
選択肢Aを選んだ。
エルザがさらに固まった。
侍女たちも、さらに固まった。
全員の視線が俺に集まっている。
胃が痛い。
「あと……何か食べたいものがあれば」
選択肢Bも追加した。
エルザの眉がわずかに動いた。
彼女の視点から見れば、どう映っているのか。
突然優しくなった夫。
体を気遣う言葉。
食べたいものを聞く夫。
……どう考えても罠にしか見えないよな。
そうか、俺が何をしても、前の俺の行動の前例があるから、全部罠に見える。
信頼度がマイナスから始まるゲームか、難易度、高すぎないか?
「……ありがとうございます」
エルザが、丁寧に頭を下げた。
その動作は完璧だった。
王妃としての礼儀作法、非の打ち所がない。
でも、それだけだった。
それ以上の言葉は、来なかった。
侍女たちの視線が痛い。
撤退するか?でもここで撤退したら、また距離が開く。
「……お腹の赤ちゃんの様子は、どうですか?」
エルザが、今度こそ完全に固まった。
あ、まずかったか?
「……すくすく育っているようです」
しばらくして、エルザが答えた。
その声は、先ほどより少しだけ低かった。
怒らせたかもしれない。
でも何が怒りのポイントだったのかわからない。
「……そうか。それは良かった」
俺は頷き、部屋を出た。
扉が閉まった瞬間、俺は廊下で一人、壁に手をついた。
……疲れた。
大臣会議より疲れた。
アリスの毛虫目線より疲れた。
三人の視線だけなのに、これだけ消耗するのか。
エロゲと現実は違う。
分かっていたけど、こんなに違うのか。
ゲームのヒロインは、話しかけるだけで好感度が上がるのに。
現実の妻は、話しかけるたびに固まる。
攻略ルートが、全く見えない。
◇
部屋の中では、エルザが静かに息を吐いていた。
「……王妃様、大丈夫ですか」
侍女の一人が心配そうに声をかける。
「……大丈夫よ」
エルザは答えた。
でも、膝の上の手は、まだかすかに震えていた。
(罠だ、絶対に罠だ)
(あの方が突然優しくなるはずがない)
(体を気遣う言葉。食べたいものを聞く言葉。お腹の子の様子を聞く言葉)
(何かをさせようとしている。でなければ説明がつかない)
「……王妃様?」
「……なんでもないわ」
エルザは窓の外を見た。
青い空。穏やかな風。
(気をつけなければ)
(油断したら、どんな罰が待っているか分からない)
彼女はそう自分に言い聞かせた。
何度も。何度も。
それでも、一つだけ、どうしても消えない考えがあった。
(……お腹の子の様子を、聞いてくれた)
(あの方が、お腹の子のことを聞いたことは)
(今まで、一度も……)
エルザは、その考えを頭の奥に押し込んだ。
考えてはいけない。
希望を持ってはいけない。
そう決めていたから。
◇
廊下の角で、ジークシールドが静かに立っていた。
陛下が部屋を出てくるのを見た。
壁に手をついて、少しだけうなだれている。
以前の陛下は、王妃の部屋を出る時、あのような顔はしなかった。
疲れたような顔も。困ったような顔も。
ただ無表情で、廊下を歩くだけだった。
(……)
ジークは何も考えないようにした。
考えると、厄介なことになる気がしたから。
彼は音もなく、自分の持ち場へ戻った。
◇
その夜、俺は執務室で一人、紙に書き出した。
現状確認
・妻エルザ:怖がっている。怖がらせている。
攻略難易度:未知数
現在の好感度:おそらくマイナス
・娘アリス:毛虫を見る目。
攻略難易度:高
現在の好感度:マイナス(推定)
・お腹の子:まだお腹の中。
攻略難易度:未知数
現在の好感度:中立
俺はメモを見つめた。
「……我ながらひどいメモだが……このゲーム、バグってないか?」
でも現状把握は大事だ。
ゲームの基本だろ。
俺はペンを置いて、天井を見た。
童貞が王様になって、妻に怖がられて、娘に毛虫を見る目で見られている。
……詰んだ。
本妻とも話せてないのに、子供がいる。
お腹の中にも一人いる。
童貞なのに子供がいる。
……まるで聖母マリアみたいだな、俺。
いや違う。俺は父親側だ。
でも童貞なのに子供が……。
……概念が詰んだ。
窓の外に月が出ていた。
明日は、もう少しうまくやれるだろうか。
……たぶん、無理だな。
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