第二十話「アリス誘拐・後編/泥だらけの救出」Ⅱ
王宮に戻った。
エルザが、門の前で待っていた。
シオンを抱いたまま、立っていた。
アリスを見た瞬間、エルザの表情が変わった。
「アリス」
「お母様」
エルザがアリスに歩み寄った。
片腕でアリスを抱きしめた。
もう片方の腕でシオンを抱いたまま。
「無事で、よかった」
その声が、震えていた。
アリスが、少し驚いたように固まった。
でも、すぐに目を伏せた。
「はい」
エルザが、俺を見た。
泥だらけの俺を見た。
「陛下、お怪我は」
「転んだだけだよ」
「お顔が」
「ただの泥だよ」
「……拭きますか」
「後でいい」
エルザが、少し間を置いた。
「ありがとうございました」
「あ、当たり前のことだ」
エルザが、視線を落とした。
その表情が、少しだけ動いた気がした。
……また、毛布をかけてもらえるかもしれない。
いや、期待するな。
童貞に優しくしないでほしい。
いや、今はそういう話じゃない。
その夜。
執務室で一人になった。
シオンは無事だった。
アリスも無事だった。
ランダが適切に動いてくれた。
ジークが誓いを立てた。
全部、うまくいった。
でも。
俺は窓の外を見た。
月が出ていた。
……皆殺しにしてやりたいと、思っていた。
本当に、そう思った。
胃が痛かった。
……転生して六ヶ月。
俺は、変わったつもりでいた。
罪のない者は巻き込むな、とランダに言った。
外交で人を駒として扱わないようにしてきた。
アリスに「人を見ている」と言われた。
でも。
追い詰められたら。
同じものが出てくる。
前の記憶が、また流れ込んできた。
父親が怒鳴っていた声。
「お前は田中家の跡取りだ」
「道具だ」
前王の記憶。
人を駒として見る視点。
「全員、殺せ」という命令。
……三つが、重なる。
父親と、前の俺と、今日の俺が。
同じ感情を、持っていた。
手が、震えた。
窓枠を、握りしめた。
……俺は。
父親と同じ種類の人間なのか。
前の俺と、同じ種類の人間なのか。
答えが出なかった。
でも、一つだけ確かなことがあった。
……感情は、あった。
でも、しなかった。
ランダに「罪のない者は巻き込むな」と言った通りに動いた。
黒い感情と、実際の行動は、別だった。
……それで、いいのか?。
感情があっても、行動が違えばいいのか?。
父親も、前の俺も。
最初は感情だけだったのかもしれない。
それが、だんだん行動になっていったのかもしれない。
俺は、そうならないと言い切れるか?。
言い切れなかった。
窓の外に、月が出ていた。
アリスの笑顔が浮かんだ。
「少しだけ」笑っていた顔が。
……あの笑顔を守るために来た。
それは本物だ。
だから。
「なりたくない」と「ならない」は、違う。
でも今の俺には、「なりたくない」しか言えなかった。
それが、正直なところだった。
……それでも。
なりたくない、と思い続けることが。
今の俺にできる、唯一のことだ。
月が、静かに輝いていた。
お母さんのことを、少しだけ思った。
……お母さんは。
父親に振り回されながら。
それでも、扉の前にご飯を置き続けた。
俺を、諦めなかった。
あの人は、あんな感情を持ったことがあったのだろうか。
俺のせいで、父親のせいで。
それでも、しなかった。
……お母さんの方が。
ずっと強かったんだな。
目を閉じた。
……なりたくない。
絶対に。
それだけを、繰り返した。
誰に聞かせるためでもなく。
自分への、誓いとして。
◇
同じ夜。
ジークシールドは、自室で剣の手入れをしていた。
今日の出来事を、頭の中で繰り返していた。
シオン様を守った。
その判断は、正しかったと思う。
でも。
(……アリス様が、攫われた)
剣を拭く手が、止まった。
「貴方のせいじゃない」
アリスの言葉が、頭から離れなかった。
(……アリス様は、そう言った)
(でも)
(俺の仕事は、護衛だ)
(どちらも守ることだ)
(今日は、片方しか守れなかった)
剣の手入れを再開した。
「次は、どちらも守ります」
自分が言った言葉を、頭の中で繰り返した。
誓いだった。
(……アリス様が、頭に手を置いた)
剣を拭く手が、また少し止まった。
(……あの温かさは)
(何だったのか?)
うまく言葉にならなかった。
ただ。
(……二度と)
(二度と、あんな目に合わせない)
それだけは、はっきりしていた。
剣の手入れを終えた。
鞘に収めた。
灯りを消した。
今夜の剣の手入れは、いつもより丁寧だった。
◇
アリスは書斎で日記を書いた。
「今日、攫われた」
「怖かった」
「でも、お父様が来た」
「泥だらけで」
「剣を逆さまに持って」
「二回転んで」
「それでも来た」
ペンが止まった。
「ジークが、膝をついた」
「謝っていた」
「でも、ジークは正しい判断をした」
「シオンは、無事だった」
「ジークは、次はどちらも守ると言った」
「……信じている」
アリスは少し考えた。
最後の一行を書いた。
「お父様は、ゲームより大事だったと言った」
「ゲームが何なのか、まだ分からない」
「でも」
「……お父様が来てくれた。それだけで十分だった」
日記を閉じた。
燭台の火を吹き消した。
暗闇の中で、目を閉じた。
(……毛虫)
(じゃない)
もう、迷わなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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