第二十話「アリス誘拐・後編/泥だらけの救出」Ⅰ
王都の東。
旧倉庫街。
馬を止めて、徒歩で進んだ。
ランダが先頭。
ジークが左側。
俺がその後ろ。
「静かに」
ランダが低く囁いた。
ジークはすでに、音を消していた。
気づいたら、ジークが少し前に出ていた。
……この人、本当に人間か。
ランダが手で合図をした。
兵たちが散開した。
「あの建物です」
ランダが、一番奥の倉庫を指差した。
「見張りが三人。中にも数人いると思われます」
「アリスは」
「奥の部屋にいるはずです」
ランダが動いた。
見張りの一人が気づく前に、制圧していた。
その横で、ジークが動いた。
ランダより速かった。
残りの二人が、声を上げる間もなく崩れ落ちた。
……速い。
扉を開けた。
薄暗い。
埃の匂いがする。
奥に、光が漏れていた。
角を曲がった瞬間。
「止まれ!」
武装した男が三人、剣を構えていた。
ランダが剣を抜いた。
ジークが動いた。
音がしなかった。
一秒もかからず、ジークが二人を制圧した。
ランダが残りの一人を相手にした。
俺は後ろで見ていた。
剣を抜こうとして、また逆さまだと気づいた。
その時、横の扉が蹴破られた。
男が一人、飛び出してきた。
ランダの背後を狙っていた。
俺は考える前に動いていた。
剣を逆さまに持ったまま、男に体当たりした。
「がっ」
男が壁に叩きつけられた。
俺も一緒に転んだ。
泥だらけの床に、顔から突っ込んだ。
……痛い。
でも、ランダは無事だ。
ランダが俺を引き起こした。
「陛下、お怪我は」
「な、ない」
「お顔が」
「泥だ。気にするな」
「奥へ」
「御意」
一番奥の部屋。
ランダが扉前の最後の一人を制圧した。
ジークが扉を蹴破った。
薄暗い部屋。
隅に、小さな影があった。
銀髪。
縄で縛られていた。
でも、座っていた。
倒れていなかった。
顔を上げた。
赤い目が、俺を見た。
「お父様」
声は、震えていなかった。
俺は部屋に入った。
縄を解こうとした。
うまくいかなかった。
ランダが来て、縄を切った。
一瞬だった。
「アリス様、お怪我は」
「ありません」
アリスが立ち上がった。
足がふらついた。
俺は反射的に手を出した。
アリスの肩を支えた。
「だ、大丈夫か?」
「はい」
その瞬間だった。
胸の底で燃えていたものが、すっと冷えた。
来る途中、ずっと燃えていた何かが。
……何だったんだ、あれは。
思い返した。
馬を走らせながら、頭の中にあったもの。
アリスに何かあったら。
関わった者を、全員。
……皆殺しにしてやりたいと、思っていた。
気づいた瞬間、背筋が冷えた。
……俺、今、何を考えていた。
罪のない者は巻き込むな、とランダに言ったのは俺だ。
でも今、頭の中にあったのは。
「全員、殺す」
という感情だった。
前の記憶の断片が、流れ込んできた。
逆らった者を処刑する時の、前王の感情。
怒りではなかった。
冷たい、当然という感覚だった。
……同じだ。
俺の中にあったのは。
前の俺と、同じものだ。
手が、わずかに震えた。
アリスには気づかれないように、握りしめた。
「お父様が来ると思っていたので」
アリスが言った。
「来ると、思っていたのか」
「はい、でもなんで来たの?」
「娘が攫われたのに、来ない父親なんていない」
「ゲームでも、そう?」
「…………ゲームより、大事だった」
その言葉だけは、本物だった。
でも、本物の言葉と、黒い感情が、同じ胸の中にある。
……俺は。
どっちなんだ。
長い沈黙。
アリスが下を向いた。
「お父様」
「なんだ」
「泥だらけですね」
「転んだからな」
「何回」
「二回」
「…………そうですか」
肩が、かすかに揺れていた。
「笑っているか」
「笑っていません」
「笑っているだろう」
「…………少しだけ」
……笑えるなら、大丈夫だ。
俺は、その笑顔を見た。
さっきまで胸の底にあったものが、また少し冷えた。
……この笑顔を守るために来た。
それは本物だ。
でも、その途中で俺の中にあったものも、本物だ。
どちらも、俺の中にある。
その時、ジークがアリスの前に進み出た。
ジークは膝をついた。
アリスが、驚いた顔をした。
「護衛の失態です」
頭を下げた。
「シオン様を守ることを優先した。その判断の間に、アリス様が」
アリスが、ジークを見た。
「ジーク」
「申し訳ありません」
「シオンを守ってくれてありがとう」
ジークが、少し止まった。
「アリス様」
「シオンを守るのは、正しかった。それでいい」
「しかし」
「ジーク」
アリスが、ジークの頭の上に、そっと手を置いた。
「貴方のせいじゃない」
沈黙。
ジークは、顔を上げなかった。
その肩が、わずかに動いた気がした。
「……次は」
低い声だった。
「次は、どちらも守ります」
アリスが、手を離した。
「分かった」
ジークが立ち上がった。
また、いつもの影に戻った。
……ジークが、膝をついた。
あのジークが。
この子のために。
ランダが、部屋の外を確認して戻ってきた。
「陛下、外は制圧しました。ハルデン侯爵の手の者を、全員拘束しております」
「罪のない者は」
「一旦、判別の為、拘束しております」
「ご苦労だった」
ランダが、アリスを見た。
「アリス様、ご無事で何よりです」
アリスが、ランダを見た。
「貴方が、ランダ将軍ですか」
「はい」
「お父様から聞いています。目が真っ直ぐな方だと」
ランダが、少し驚いた顔をした。
それから、深く頭を下げた。
「恐れ入ります」
アリスが、ランダを見た。
その目が、観察するような目だった。
「信頼できる方ですね」
「左様であれば、光栄です」
アリスが頷いた。
「よろしくお願いします、ランダ将軍」
ランダが、また頭を下げた。
今度は、さっきより少し長かった。
……アリスとランダが、初めて会った。
二人が将来どうなるかを、俺は知らない。
でも。
この二人が出会ったことは。
良かった気がする。
帰り道。
馬車の中。
アリスが隣に座っていた。
しばらく、どちらも喋らなかった。
「お父様」
「なんだ」
「怖かったですか?」
「そうだな」
「どのくらい」
「頭が動かなくなった」
「ゲームの選択肢が出なかったのですか?」
「……お前、ゲームって何か知っているのか」
「知りません。でも、お父様がよく言う言葉なので」
「そうか」
「選択肢が出なくても、来てくれましたね」
「ああ」
「なぜですか」
「考える前に、足が動いていた」
沈黙。
「お父様」
「なんだ」
アリスが俺を見た。
毛虫を見る目ではなかった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
声が、少し震えていた気がした。
アリスが、また窓の外を向いた。
その横顔が、少しだけ柔らかかった。
毛虫を見る目は、もうなかった。
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