第十八話「ベベクロ来訪・後編」Ⅱ
その日の夕方。
パラネスが執務室に来た。
「ベベクロ殿との会談、いかがでございましたか」
「……一応、前進した」
「物流への関与は?」
「港湾都市の利用権五年と、街道の通行権で合意の方向だ」
パラネスが深く頭を下げた。
「見事でございます」
「……ただ」
「なんでございましょう」
「あの男は、十年後を計算している」
パラネスが少し間を置いた。
「アリス様のことを、ですか」
「……聞いていたのか」
「ジークから報告が」
……ジーク、早い。
「……どう思う」
パラネスが、少し考えた。
「ベベクロという男は、今の利益より将来の利益を重視します」
「だから、今の陛下より、将来のアリス様を見ているということかと」
「アリスを、どう使うつもりだ?」
「それは、まだ分かりません」
パラネスが、少し間を置いた。
「……ですが」
「アリス様が優秀であることは、今日の会談で証明されました」
「……どういう意味だ」
「陛下の対案の根拠が『娘に教わった』であることを、ベベクロ殿は知りました」
「……ああ」
「つまり、八歳の王女が外交の根拠になる分析をしている、ということが伝わった」
「……それが問題か?」
「問題でもあり、強みでもあります」
パラネスが続けた。
「ベベクロ殿のような男は、優秀な人材を早い段階で押さえようとします」
「……アリスを、か」
「今は観察しているだけでしょう。ですが、放っておけば十年後に何かを仕掛けてくるかもしれません」
俺は少し考えた。
……十年後のアリスに何かを仕掛ける。
ベベクロが、アリスを使おうとする。
それは、絶対に避けなければならない。
でも、どう避ける?。
「アリスを強くする」
「……は?」
「誰かに使われない程度に、強くする」
パラネスが、少し間を置いた。
「それは、どういう意味でございますか?」
「外交も、学問も、判断力も。誰かに利用される前に、自分で判断できるくらいに」
「陛下……」
「……そのために、今俺が教えている」
パラネスが、深く頭を下げた。
今度は、いつもより少し長かった。
「……御意」
扉が閉まった。
俺は窓の外を見た。
夕日が、王宮の庭に差し込んでいた。
……ベベクロ。
お前が十年後を計算しているなら。
俺も十年後を考える。
アリスが十八歳の時。
誰にも使われず、自分で判断できる人間になっているように。
そのために、今できることをする。
転生したまま、ここにいるかどうかも分からないけど。
足が、東棟に向いた。
今日も、授業の続きがある。
東棟の書斎。
アリスは地図を広げていた。
扉がノックされた。
「お父様? 授業の時間より早いですが」
「少し早く来た」
「どうかしましたか」
「一つ聞いていいかい」
「……はい」
俺は椅子に座った。
「お前は、将来何になりたいか?」
アリスが、少し驚いた顔をした。
「……将来、ですか?」
「……ああ」
アリスが地図を見た。
しばらく、黙っていた。
「……考えたことが、なかったです」
「……そうか」
「前のお父様は、そういうことを聞きませんでした」
「そうだな」
「お父様は、なぜ聞くのですか?」
俺は少し考えた。
「お前が自分で決められるように、知っておきたかった」
「自分で決める?」
「誰かに決められるんじゃなくて」
アリスが、俺を見た。
毛虫を見る目ではなかった。
真っ直ぐな目だった。
「分かりません」
「……まだ、分からないです」
「……でも」
「……考えてみます」
「ゆっくり考えればいい」
「はい」
アリスが、また地図に視線を戻した。
「……お父様」
「なんだ」
「一緒に考えてもらえますか」
「……ああ」
「分かった」
地図を二人で見た。
しばらく、どちらも喋らなかった。
でも、嫌な沈黙じゃなかった。
……ベベクロは十年後を計算している。
俺には、その計算は難しい。
でも。
今、この子と一緒に考えることはできる。
それだけで、十分かもしれない。
窓の外に、夕日が差し込んでいた。
その夜。
アリスは日記を書いた。
「今日、お父様が『将来何になりたいか』と聞いてきた」
「考えたことがなかった」
「前のお父様は、そういうことを聞かなかった」
ペンが止まった。
「今のお父様は、聞く」
「なぜ聞くのかと聞いたら」
「『自分で決められるように』と言った」
アリスは少し考えた。
「自分で決める、か」
繰り返した。
「前のお父様は、私が何を決めることも許さなかった」
「全部、命令だった」
「でも今のお父様は」
最後の一行を書いた。
「……私に、選ばせようとしている」
書いてから、しばらく、その一行を見た。
消さなかった。
当たり前のように、消さなかった。
日記を閉じた。
燭台の火を吹き消した。
暗闇の中で、目を閉じた。
◇
ジークシールドは、廊下の影に立っていた。
書斎の中から、地図を見る二人の気配がした。
陛下とアリス様。
二人で、何かを見ている。
(……アリス様に近づけさせない)
さっき、陛下に言った言葉を頭の中で繰り返した。
あの言葉が、なぜ出たのか。
ジークには、よく分からなかった。
ただ。
(……この二人の時間を)
(邪魔させるつもりはない)
それだけは、確かだった。
ジークは静かに、持ち場に戻った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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