第十五話「シオン誕生翌日・夢」
夢を見ていた。
懐かしい夢だった。
子供部屋の天井。
薄暗い灯り。
ゲーム機の電源ランプだけが、青く光っていた。
扉の向こうで、足音がした。
軽い足音だった。
止まった。
カチャ、という小さな音。
扉の下の隙間から、光が差し込んだ。
トレーが置かれる音。
また足音。
遠ざかっていく。
「ひろし、ご飯よ」
声だけが、扉越しに聞こえた。
それだけだった。
責めなかった。
怒らなかった。
ただ、置いて、去っていった。
毎日。
毎日、それだけをしてくれた。
……お母さん。
目が覚めた。
見慣れない天井。
王宮の天蓋。
金色の装飾。
ここは異世界だ。
俺は田中ひろしじゃない。
でも、頬が濡れていた。
……泣いていたのか。
自分でも気づかなかった。
窓の外がまだ暗かった。
夜明け前だった。
昨日、シオンが生まれた。
小さかった。
あんなに小さいものを、初めて抱いた。
嬉しかった。それは本当だ。
でも夢に出てきたのは、シオンじゃなかった。
お母さんだった。
……お母さん。
俺は引きこもりだった。十年以上。
高校を出て、専門学校に入って、人間関係に疲れて、気づいたら部屋から出られなくなっていた。
その間、お母さんは毎日、扉の前に食事を置いてくれた。
何も言わずに。
諦めながらも、諦めきれずに。
「ひろし、ご飯よ」
その一言だけで。
……俺は、
一度も、ありがとうと言わなかった。
一度も。
昨日、シオンを抱いた。
その重さが、まだ腕に残っていた。
あの重さを、お母さんも感じたのだろうか。
俺を抱いた時。
俺を育てた時。
俺が引きこもった時も、扉の前にトレーを置きながら。
……ごめん。
声に出さなかった。
出せなかった。
出したら、もっと泣きそうだった。
窓の外が、少しずつ明るくなっていた。
夜明けだ。
ぼんやりとした頭の中で、色々なことが繋がり始めた。
前の俺ミルケ・ジオの記憶。
エルザへの冷たい視線。
「子を産め」という命令。
アリスに言った「お前はアトラクトの切り札だ」という言葉。
人を駒として動かす計画。
……どこかで、見た気がする。
ずっとそう思っていた。
ミルケの記憶が「知っている感じ」がしていた。
それが、なぜなのか?
幼い頃の記憶が、浮かんできた。
ほとんど残っていない父親の記憶。
顔もよく覚えていない。
声も、あまり覚えていない。
でも一つだけ、鮮明に残っているものがある。
お母さんが泣いていた夜。
父親が怒鳴っていた声。
「会社は俺のものだ」
「お前も、田中の名前を継ぐための道具だ」
……あ。
繋がった。
ミルケの記憶と、父親の記憶が、完全に重なった。
人を駒として見る目。
自分の野望のために人を利用する発想。
エルザと、お母さんが重なった。
……そうか。
だから、既視感があったのか。
前王の記憶が「知っている感じ」がしていた理由が。
父親に、似ていたからか。
胃が痛くなった。
ミルケと父親が似ていること。
そしてこの体がミルケの体であること。
つまり今の俺は、父親に似た男の体に入っている。
……最低だな。
前の俺も、父親も。
同じ種類の人間だったのか。
でも。
……俺は?
俺は、どうだ?
シオンを抱いた時の重さが、まだ腕に残っていた。
アリスが日記に何を書いているのか、俺は知らない。
エルザが何を思っているのか、俺は知らない。
でも。
……絶対に、絶対に、同じにはならない。
シオンに。
あの父親のような背中を見せてはいけない。
アリスに。
お母さんのような諦めの目を向けさせてはいけない。
エルザに。
お母さんのような疲れた背中をさせてはいけない。
……それだけは。
絶対に。
窓の外が、明るくなっていた。
朝日が、王宮の庭に差し込んでいた。
俺は顔を拭った。
立ち上がった。
……お母さん。
心の中だけで、呼んだ。
元気でいてくれ。
俺が戻れるかどうか、分からないけど。
……ありがとう。
言えなかった言葉を、心の中だけで言った。
届かないと分かっていても。
届いてほしいと思いながら。
扉を開け、廊下に出た。
今日も、やることが山積みだ。
ハルデン侯爵の動き。
エルザとの関係。
アリスの授業。
シオンのこと。
全部、逃げられない。
……逃げ場がない時の俺は、なぜか動ける。
引きこもっていた時も、お母さんが倒れた時だけは動けた。
あの感覚に、似ている。
廊下を歩いた。
足が、昨日より少しだけ軽い気がした。
◇
同じ朝。
エルザは、シオンを抱いていた。
小さな命。
自分の腕の中にいる。
昨日から、ずっとそうしていた。
放したくなかった。
(……シオン)
名前をつけてもらった。
陛下がつけた名前だ。
「いい名前ですね」と言った。
本当にそう思った。
(……陛下が)
泣いていた。
疲れ切っていた体で、それを見ていた。
泣いている陛下を、初めて見た。
前の陛下は、泣かなかった。
笑うことも、ほとんどなかった。
今の陛下は。
(……泣いていた)
(シオンを抱いて)
(この子のために、泣いていた)
エルザはシオンを見た。
小さな顔。
亜麻色の髪の毛が、少しだけ生えていた。
陛下の髪の色に似ていた。
目は、まだよく分からない。
(……この子に)
(どんな世界を見せてあげられるだろう)
答えは出なかった。
でも、昨日より少しだけ、その問いが怖くなかった。
シオンの小さな手が、エルザの指を握った。
力強い握り方だった。
……この子は、
強い子だ。
エルザは、シオンの手を握り返した。
窓の外に、朝の光が差し込んでいた。
◇
アリスは書斎で日記を書いていた。
昨日のことを。
「弟が生まれた」
「シオンという名前になった」
「お父様が泣いていた」
ペンが止まった。
「……泣いていた」
もう一度書いた。
確認するように。
「前のお父様は、泣かなかった」
「でも今のお父様は、泣いた」
「シオンのために」
アリスは、少し考えた。
それから、続きを書いた。
「私は、廊下で聞いていた」
「入らなかった」
「でも、入れてもらわなくても、よかった」
「あの場所は、お父様とお母様とシオンのための場所だと思ったから」
ペンが、また止まった。
窓の外に朝の光が差し込んでいた。
アリスはしばらく、光を見ていた。
それから、最後の一行を書いた。
「……お父様は、毛虫ではない」
書いてから、少し恥ずかしくなった。
でも、消さなかった。
日記を閉じた。
燭台の火は、もうとっくに消えていた。
朝の光の中で、アリスは立ち上がった。
今日の授業が、少し楽しみだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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