第十四話「シオン誕生・後編/主人公初めて泣く」
朝が来た。
俺は執務室の椅子で目を覚ました。
眠れなかったわけじゃない。
いつの間にか、寝ていたらしい。
書類が顔の横に積み上がっていた。
顔にインクの跡がついているのが、鏡を見なくても分かった。
……また書類に突っ伏して寝たのか。
引きこもりは姿勢が悪い。
十年間、ゲームチェアで丸まって寝ていた弊害だ。
立ち上がろうとした時、扉がノックされた。
「……陛下」
侍女頭だった。
その声のトーンが、昨日と違った。
「……始まりました」
俺は立ち上がった。
廊下を歩いた。
エルザの部屋の前に、侍女たちが数人集まっていた。
全員がこちらを見た。
……視線が多い。
胃が痛い。
でも今は、それどころじゃない。
「……中には入れるか」
「……侍医から、少々お待ちいただくようにと」
「……分かった」
廊下に立った。
待った。
……待つのが苦手だ。
引きこもりは待つのが苦手だ。
ゲームなら早送りできるのに。
現実には早送りがない。
侍女たちが出入りしている。
扉の向こうから、時々声が聞こえる。
エルザの声だった。
……痛いのか。
そうか、出産というのは痛いのか。
ゲームでは一枚絵で終わっていたから、分からなかった。
現実は、こんなに時間がかかるのか。
廊下の壁に背をつけた。
ずり落ちそうになるのを、なんとか堪えた。
……立っていろ。
せめて、廊下くらいはちゃんと立っていろ。
それくらいはできるはずだ。
気づくと、アリスが隣に立っていた。
いつ来たのか、気づかなかった。
銀髪。赤い目。
「……アリス、お前も」
「……ここにいていいですか」
「……ああ」
二人で、廊下に立った。
どちらも喋らなかった。
扉の向こうの声を、聞いていた。
……アリスも、心配しているのか。
当たり前だ。
自分の母親なんだから。
「……怖いか」
声をかけた。
アリスが少し考えた。
「……少し」
「……そうか」
「……お父様は」
「……俺も、少し」
アリスが、俺を見た。
毛虫を見る目ではなかった。
「……正直ですね」
「……お前には、嘘をついても仕方がない」
「……そうですか」
「……見抜くだろう」
アリスが、また少しだけ口の端を動かした。
笑ったのかもしれない。
……確認したいが、確認する方法がない。
二人で、また黙った。
時間が経った。
どのくらい経ったか、分からなかった。
……早送りがほしい。
本当に早送りがほしい。
でも、ここを早送りしてはいけない気もする。
こういう時間が、大事な気がする。
ゲームでは絶対に学べなかったことだ。
それは、突然来た。
扉の向こうから、小さな声が聞こえた。
産声だった。
俺は、その瞬間、足がガクガクになった。
壁に手をついた。
アリスが俺を見た。
「……お父様?」
「……なんでもない」
なんでもなくなかった。
膝が、笑っていた。
……生まれた。
お腹の中の子が、生まれた。
産声だ。
これが産声か。
ゲームで何度も見ても、こんな気持ちにはならなかった。
侍女頭が扉を開けた。
「……陛下、どうぞ」
俺は部屋に入った。
エルザが、寝台に横たわっていた。
顔が、疲れ切っていた。
でも、その腕の中に、小さなものがいた。
俺は近づいた。
「……抱かれますか」
侍女が聞いた。
「……ああ」
答えた。
でも、手が出なかった。
……どうやって抱くんだ。
ゲームでは、抱くという選択肢を選ぶだけだったのに。
現実は、どうやって……。
「……こうして、頭を支えて」
侍女が教えてくれた。
その通りにした。
小さなものが、俺の腕の中に収まった。
小さかった。
……小さい。
こんなに小さいのか。
手のひらに収まりそうだ。
でも、温かい。
生きている。
赤くて、しわしわで、目を閉じていた。
でも、確かに動いていた。
呼吸していた。
生きていた。
「……お前が」
声が出た。
「……お腹にいた子か」
小さなものは、何も答えなかった。
当たり前だ。
生まれたばかりなんだから。
……生まれたばかり。
この子は、今日初めて世界に出てきた。
怖かっただろう。
いや、まだ怖いとか分からないか。
でも。
頬が、濡れていた。
気づかなかった。
……泣いているのか、俺。
なんで。
嬉しいのか。
嬉しいのは、本当だ。
でも、それだけじゃない気がする。
これは何だ。
ゲームで何度見ても、こんな気持ちにはならなかった。
現実は、ゲームと全然違う。
声を出さないようにした。
でも、涙が止まらなかった。
……情けない。
王様が、廊下に聞こえるくらい泣くな。
でも、止まらない。
エルザが、俺を見ていた。
疲れ切った顔で。
でも、何も言わなかった。
ただ、見ていた。
「……名前を、決めなければならないな」
しばらくして、俺は言った。
声が、少し震えていた。
エルザが、かすかに頷いた。
「……シオン、というのはどうだ」
エルザが、少し間を置いた。
「……シオン」
繰り返した。
「……いい名前ですね」
その声は、穏やかだった。
疲れていたけれど、穏やかだった。
「……シオン」
俺は、腕の中の小さな命に言った。
「……よろしくな」
小さな手が、少しだけ動いた。
握り拳のような手が。
……動いた。
今、動いたよな。
返事をしたのか。
してくれたのか。
また涙が出た。
今度は、こらえなかった。
◇
扉の外。
廊下でアリスが聞いていた。
産声。
それから、しばらく。
父の、かすかな声。
嗚咽ではなかった。
産声が聞こえた瞬間、動けなかった。
(……生まれた)
その事実が、じわじわと染み込んできた。
泣きたいのか、笑いたいのか、分からなかった。
どちらでもある気がした。
どちらでもない気もした。
父の声が聞こえた。
震えている声が。
アリスは、壁に手をついた。
(……お父様が、泣いている)
その瞬間、アリスの目にも、何かが滲んだ。
気づかれないように、拭いた。
アリスは、扉を見た。
入ろうか、と思った。
でも、今は入らない方がいい気がした。
理由は分からなかった。
ただ、そう思った。
廊下に立ったまま、アリスはしばらく動かなかった。
窓の外に、朝の光が差し込んでいた。
……毛虫。
じゃないかもしれない。
アリスは、その考えを頭の中で確認した。
前から、うっすら思っていた。
でも、今日初めて、少しだけはっきりした。
……毛虫じゃないかもしれない。
(まだ、分からないけれど)
(でも)
アリスは、扉の方向を見たまま、静かに思った。
(……いてくれて、よかった)
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
続きが気になった方は、ぜひ次の話もお楽しみにしてください。
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