第十三話「シオン誕生・前編」
転生して三ヶ月が経った。
エルザのお腹が、大きくなっていた。
当たり前だ。妊娠しているんだから。
でも、毎日見ているのに、なぜか毎回驚く。
……大きい。
そうか、人間はこうして生まれるのか。
ゲームでは出産イベントは一枚絵で終わるのに。
現実は、こんなに時間がかかるのか。
朝食の時間。
最近、エルザと同じ食堂で食事をとるようになっていた。
「同じ部屋で食事をする」という提案を、パラネスがしてきた。
「王妃様のお体のこともありますし、陛下がお近くにいられる方が」と言っていた。
エルザは何も言わなかった。
でも、断りもしなかった。
だから、そうしている。
……沈黙の了承だ。
ゲームで言えば、好感度が一定以上になると同じ空間を共有できるようになる。
でも、今のエルザの好感度がプラスなのかマイナスなのか、まだ分からない。
「……お体の具合は」
「……ええ」
「……食欲は」
「……少し」
会話が続かない。
でも、以前は「はい」しか返ってこなかった。
「ええ」と「少し」は、進歩だ。
……好感度、0.3くらいは上がったかもしれない。
たぶん。
知らんけど。
午前の大臣会議。
ハルデン侯爵が、今日も出席していた。
五十代の大柄な男。白髪交じりの髪。
眼光が鋭い。
会議中、俺の発言を聞く顔が、他の大臣と少し違う。
怖がっているのではなく、観察している顔だ。
……値踏みをしている。
ゲームで言えば、敵対フラグが立っているキャラだ。
会議が終わって、廊下でパラネスが小声で言った。
「……陛下、ハルデン侯爵が」
「また動いているか」
「昨夜、東の三侯爵と密会をしたようです」
「内容は」
「まだ掴めておりませんが」
パラネスが少し間を置いた。
「……『王が変わった、今が好機』という動きには、間違いないかと」
……フラグが、育っている。
信〇の野望で言えば、包囲網が形成される前の動きだ。
早めに手を打たないといけないが。
「引き続き監視しろ。ただし、こちらからは動くな」
「……御意」
……今は、それどころじゃない。
エルザのことも、アリスのことも、まだ片付いていない。
シオンが生まれる前に、もう少し状況を整えたい。
パラネスが去った後、俺は廊下で一人考えた。
……やることが多すぎる。
ゲームなら優先度を設定できるのに。
現実は全部同時に動いている。
引きこもりには、荷が重い。
午後。
アリスの授業。
最近は地下室の大きな地図を使っている。
アリスが書き込みを増やしていた。
俺が教えたことを、自分なりに整理して書き込んでいる。
「ここに書いたのか」
「はい。覚えておきたかったので」
「……カーターベイの交易ルートも書いてあるな」
「前の授業で習ったので」
「こっちの矢印は何だ」
「私が考えた、アトラクトの独自交易ルートの案です」
俺は少し固まった。
「案、というのは」
「カーターベイに依存しない、自前の交易ルートです」
「お父様が、十年かかると言っていましたから」
「……今から考えておいた方がいいと思いました」
俺は地図の矢印を眺めた。
港から山岳地帯を通る道。
カーターベイを経由しない南回りのルート。
……八歳が、独自に考えたのか。
これ、割と理にかなっているぞ。
山岳地帯は険しいが、カーターベイを通らなくていい。
コストはかかるが、長期的には。
「なかなか面白い考え方だな」
「本当ですか」
「……ただ、山岳地帯の通行料が問題だ。オマールという国がそこを押さえている」
「オマールとは」
「山岳王国だ。一筋縄ではいかない国でな」
アリスが地図にオマールの位置を書き込んだ。
「……どうすればいいのですか」
「今は分からない。でも、知っておく価値はある」
「また、分からない、ですか」
「ああ」
アリスが、少しだけ口の端を動かした。
笑ったのかもしれない。
……また笑ったか?。
毎回、微妙すぎて確認できない。
授業が終わりかけた頃。
アリスが地図から顔を上げた。
「……お父様」
「なんだ」
「お母様のことですが」
俺は少し身構えた。
「……お母様は最近、夜に眠れていないようです」
「……知っている」
「……私も、知っています」
アリスが少し間を置いた。
「前から、そうでした」
「……ああ」
「……でも」
アリスが地図を見たまま言った。
「最近は、少しだけ、マシになっている気がします」
俺は少し驚いた。
「……そうか」
「はい」
「……なぜ、そう思う」
「朝食の時、お母様の手が震えていません」
「以前は、震えていたのか」
「はい。いつも」
俺は何も言えなかった。
……朝食の時、手が震えていた。
それに、気づかなかった。
アリスは、気づいていた。
「そうか」
「……はい」
アリスが地図を閉じた。
「お父様は、気づいていませんでしたか?」
「……気づいていなかった」
「……正直ですね」
「お前にはかなわないな」
アリスが、また少しだけ口の端を動かした。
今度は、確かに笑っていた。
夜。
執務室で書類と格闘していたら、侍女頭が来た。
「……陛下、少しよろしいですか」
「なんだ」
「王妃様が、明日にでも産まれるかもしれないと、侍医が申しております」
俺は書類から顔を上げた。
「……そうか」
「……はい」
「……分かった」
侍女頭が出ていった。
俺は書類を机に置いた。
……明日。
俺の子供が生まれる。
かもしれない。
なぜか、手が少し震えていた。
……落ち着け。
ゲームで出産イベントは、ほとんど見たことがない。
信〇の野望でも、三国志でも。
画面の中では、ただ新キャラとして名前が加わるだけ。
でも。
現実は。
書類を片付け始めた。
今日は早く寝ようと思った。
でも、眠れる気がしなかった。
……子供が生まれる。
俺の、子供が。
童貞なのに。
……いや、今はその話じゃない。
落ち着け、田中ひろし。
落ち着けるか。
窓の外に月が出ていた。
エルザの部屋の方向を見た。
灯りが、まだついていた。
……眠れていないのか。
そうだよな。そりゃ眠れないよな。
俺も眠れないのに。
当事者はもっと大変だ。
俺は立ち上がった。
廊下に出た。
エルザの部屋の前まで来た。
扉の向こうから、かすかな声が聞こえた。
祈りの言葉だった。
特定の神への言葉ではない。
ただ、願う言葉。
……この子が、無事に生まれますように。
そんな祈りの気配だけは感じた。
……祈っているのか?
誰に届くか分からなくても。
それでも、祈るのか。
扉の前で止まった。
……ノックするか。
でも、何を言う。
「眠れていますか」か?
眠れていないのは分かっているのに?。
「大丈夫ですか」か?。
大丈夫じゃないのは分かっているのに?
「何かできることはあるか」か?
何もできないのに?
……引きこもりが、人の役に立てることなんて。
ゲームの知識しかないのに。
立ち尽くしていた。
五分くらい、立ち尽くしていた。
結局、ノックできなかった。
執務室に戻った。
椅子に座った。
天井を見た。
……情けないな。
アリスに言われた通りだ。
大人なのに。
王様なのに。
扉の前で五分も立って、結局ノックできなかった。
引きこもりの才能だけは、転生しても健在らしい。
でも不思議と、自己嫌悪だけではなかった。
……でも。
明日は、ちゃんとそこにいよう。
廊下でいい。
ただ、そこにいるだけでいい。
それくらいなら、できる。
たぶん。
月が、窓の外で静かに輝いていた。
◇
エルザの部屋。
灯りはついていた。
でも、エルザは眠ろうとしていた。
眠れなかった。
お腹が重い。
体が痛い。
でも、体のことより、頭の中がうるさかった。
……明日。
この子が生まれる。
窓の外に月が出ていた。
廊下で、かすかに足音がした。
止まった。
しばらく、止まったままだった。
それから、遠ざかっていった。
エルザは、その足音を聞いていた。
(……陛下?)
来るかと思った。
でも、来なかった。
不思議と、腹は立たなかった。
来なかったことより、来ようとしたことの方が、頭に残った。
(……来ようとした。それだけで)
(今は、十分かもしれない)
エルザは目を閉じた。
眠れるかどうか、分からなかった。
でも、さっきより少し、体が軽かった。
ジークシールドは廊下の影で、すべてを見ていた。
陛下が、エルザ様の部屋の前で五分間立っていた。
ノックせずに、戻った。
(……来ようとした)
(でも、できなかった)
(前の陛下には、来ようとすること自体がなかった)
ジークは短くそれだけを思い、持ち場に戻った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
続きが気になった方は、ぜひ次の話もお楽しみにしてください。
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