第十二話「引きこもり、再び」
転生して二ヶ月と少し。
エルザの部屋を出た後、俺は執務室に戻った。
椅子に座った。
書類を広げた。
文字が頭に入ってこなかった。
……詰んだ。
謝って、詰んだ。
「謝れば許すとでも思っているのですか」
あの言葉が、まだ頭に残っている。
羽ペンを手に取った。
書類に何かを書こうとした。
書けなかった。
……正しかったのか、あの謝罪は。
ゲームなら謝罪イベントで関係が改善されるはずだ。
でも現実は違った。
当たり前だ。
ゲームじゃないんだから。
でも、ゲームの知識しか持っていない俺には。
他に方法が分からなかった。
羽ペンを置いた。
机に肘をつき、額に手を当てた。
……引きこもっていた時は。
こういう時、ゲームをやれば忘れられた。
でも今は、ゲームがない。
書類がある。外交がある。
内政がある。家族がある。
全部、逃げられない。
窓の外を見た。
王宮の庭。よく手入れされた芝生。
何も見えていなかった。
ノックの音がした。
「……パラネスです」
「……後にしてくれ」
沈黙。
「……御意」
足音が遠ざかった。
また一人になった。
……お母さん。
思いかけて、止めた。
今はその先を考えたくなかった。
翌朝。
アリスの授業の時間になった。
俺は執務室の椅子から動けなかった。
地図は広げてある。
でも、立てなかった。
……昨日から、何もうまくいっていない。
エルザとのことが、頭から離れない。
謝って失敗した。
何をしても、前の俺の罪は消えない。
分かっていたはずなのに。
分かっていたのに、謝れば何か変わると思っていた。
ゲーム脳だ。
十年間ゲームしかやってこなかった人間の限界だ。
扉がノックされた。
「……アリスです」
俺は答えなかった。
「……授業の時間ですが」
答えられなかった。
……来てくれたのか。
でも、今は。
今日は、何も教えられる気がしない。
「……今日は、いい」
「……なぜですか」
「……俺が、そう言っているからだ」
自分でも気づかなかった。
声が、冷たかった。
沈黙。
「……わかりました」
足音が遠ざかった。
俺は椅子に深く沈み込んだ。
……やらかした。
また、やらかした。
アリスは何も悪くないのに。
前の俺みたいな声で言った。
胃が痛かった。
でも、動けなかった。
◇
廊下を歩きながら、アリスは考えていた。
「今日は、いい」
その声が、頭から離れなかった。
冷たい声だった。
前の父の声に、少し似ていた。
……やっぱり。
同じなのかもしれない。
根っこのところは。
書斎に戻った。
椅子に座った。
本を手に取った。
でも、開かなかった。
机の隅に、ルビーが置いてあった。
窓から差し込む光を受けて、深い赤が輝いていた。
アリスはそれをしばらく見た。
……娘だからだ、と言っていた。
幸せになってほしい、と言っていた。
地図の続きを、一緒に考えようと言っていた。
でも今日は。
「今日は、いい」
また声が蘇った。
アリスはルビーから視線を外した。
本を開いた。
文字が、頭に入ってこなかった。
毛虫を見る目が、静かに戻っていた。
毛虫を見る目・MAX。
でも、今回は今までと少し違った。
傷ついた目だった。
◇
ジークシールドは、アリスが書斎に戻るのを見ていた。
いつもより足が遅かった。
いつもより背中が小さかった。
(……陛下が、何かをした)
ジークは執務室の方向を見た。
扉は閉まっている。
中から物音はしない。
(……引きこもっている)
その言葉が、なぜか頭に浮かんだ。
ジークには意味が分からなかった。
ただ、扉の向こうの気配が、妙に小さかった。
王の気配ではなかった。
何か、別のものの気配だった。
◇
二日目。
俺はまだ、執務室から出なかった。
パラネスが書類を持ってきた。
「……陛下、本日の——」
「置いておけ」
「……御意」
足音が遠ざかる。
書類が積み上がっていく。
……引きこもりの再発だ。
転生しても、結局これか。
環境が変わっても、俺は俺だ。
追い詰められると、閉じこもる。
十年間、それをやってきた。
お母さんが扉の前にご飯を置いてくれていた。
俺は受け取るだけで、ありがとうも言わなかった。
……また同じことをしている。
パラネスが書類を置いていく。
俺は受け取るだけだ。
自己嫌悪が、胃の底に溜まっていった。
……情けない。
王様になっても、引きこもりは引きこもりか。
その夜。
執務室の扉が、静かにノックされた。
パラネスの時間ではなかった。
「……ジークです」
珍しかった。
ジークが自分から来ることは、ほとんどなかった。
「……なんだ」
「……一つ、報告が」
「……入れ」
扉が開いた。
ジークが静かに入ってきた。
いつも通りの無表情。
いつも通りの、感情の読めない目。
「……アリス様が、書斎で本を読んでおられます」
「……そうか」
「……いつもより、ページをめくる音が速いです」
俺は少し黙った。
……ページをめくる音が速い。
それが何を意味するのか。
ジークは、なぜそれを俺に言いに来たんだ?
「……それだけか」
「……はい」
「……分かった」
「……失礼します」
扉が閉まった。
俺は天井を見た。
……ページをめくる音が速い。
アリスが、本に集中できていない。
それは、俺のせいだ。
胃が、また痛くなった。
でも今度は、少しだけ性質が違った。
自己嫌悪じゃなかった。
何か別のものだった。
……引きこもっている場合じゃない、という感覚。
でも、動けなかった。
まだ、動けなかった。
翌朝。
パラネスが入ってきた。
「……陛下」
「……後にしてくれ」
「……少しだけ」
いつもと違う声だった。
引き下がらない声だった。
「……なんだ」
パラネスが、少し間を置いた。
「……アリス様は、五歳の頃から一人でいることに慣れておられます」
「……そうか」
「……慣れておられますが」
また間を置いた。
「……慣れていることと、望んでいることは、違います」
それだけ言って、出ていった。
扉が閉まった。
俺は、しばらく動かなかった。
……慣れていることと、望んでいることは、違う。
アリスは、一人でいることに慣れている。
でも、一人でいたいわけじゃない。
当たり前だ。
俺だって、引きこもっていた時。
一人でいることに慣れていた。
でも、一人でいたかったわけじゃなかった。
ただ、外に出る方法が分からなかっただけだ。
窓の外に、朝の光が差し込んでいた。
俺は椅子から立ち上がった。
ゆっくりと。
足が重かった。
でも、立てた。
……逃げ場がない時の俺は、なぜか動ける。
引きこもっていた時も、お母さんが倒れた時だけは動けた。
あの感覚に、似ている。
執務室の扉を開けた。
廊下に出た。
東棟に向かった。
アリスの書斎の前に立った。
扉をノックした。
返事がなかった。
「……アリス」
「………」
「……一昨日は、悪かった」
沈黙。
「……俺が、その……色々と詰まっていた」
「………」
「……お前には関係のないことで、冷たくした」
「………」
「……すまなかった」
長い沈黙。
扉が、少しだけ開いた。
アリスが、隙間から俺を見た。
毛虫を見る目・強だった。
でも、閉めなかった。
「……詰まっていた、とは」
「……うまくいかないことがあって」
「……何がですか」
「……お母様のことだ」
アリスが、少し黙った。
「……お母様が、どうかしたのですか」
「……俺が、昔お母様にひどいことをしていたと知った」
「………」
「……謝りに行ったが、うまくいかなかった」
アリスが、俺を見た。
毛虫を見る目だった。
でも、さっきより少し弱かった。
「……それで、部屋に閉じこもっていたのですか」
「……そうだ」
「………」
アリスが少し考えた。
「……情けないですね」
「……そうだな」
「……大人なのに」
「……そうだな」
「……王様なのに」
「……そうだな」
三回連続で同意した。
アリスが、少しだけ目を細めた。
毛虫を見る目が、わずかに弱くなった気がした。
「……地図の続きを、してもいいですか」
長い沈黙。
扉が、ゆっくり開いた。
毛虫を見る目・弱。
「……どうぞ」
俺は部屋に入った。
地図を広げた。
アリスが隣に座った。
しばらく、どちらも喋らなかった。
地図を見ていた。
「……カーターベイの南の話、覚えているか」
「……内海の向こうの大陸ですね」
「ああ」
「……まだ、分からないんですか」
「……まだ分からない」
「……お父様とお父様が知らないことが、一つ増えましたね」
「……そうだな」
アリスが、また少しだけ目を細めた。
今度は、毛虫を見る目ではなかった。
ただ、見ていた。
静かな目で。
◇
その夜、アリスは日記を書いた。
「お父様が謝りに来た」
「情けないとは言ったが」
「……本当は、少し安心した」
ペンが止まった。
「来なかったら、もっと嫌だったと思う」
「なぜかは分からない」
「でも」
最後の一行を書いた。
「……来てくれてよかった」
日記を閉じた。
燭台の火を吹き消した。
暗闇の中で、目を閉じた。
……来てくれてよかった。
その言葉が、自分の中でまだ温かかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
続きが気になった方は、ぜひ次の話もお楽しみにしてください。
【作者からのお願い】
もし「設定が面白そう!」「続きを読んでみたい」と少しでも思っていただけましたら、画面下部にある【ブックマークに追加】をポチッと押していただけると非常に励みになります!
あなたのブックマーク一つが、この作品がランキングに載るための大きな力になります。
どうぞ応援よろしくお願いいたします!




