第十一話「ミルケの記憶・エルザの十年」
転生して二ヶ月が経った。
ある朝、俺は侍女に着替えを手伝ってもらいながら、今日の予定を考えていた。
……女性に着替えを手伝ってもらって、二ヶ月。
慣れてきた……と思いたいが。
心臓は毎回ちゃんとうるさい。
これが現実だ。
エロゲと全然違う。
何が違うかというと、全部違う。
「……陛下、お顔が」
「……寒いだけだ」
「今日は暖かいですが」
「……うるさい」
侍女が首を傾げながら出ていった。
俺は鏡を見た。
亜麻色の髪。茶色の目。なで肩の細身。
毎朝見ているのに、慣れない。
……やっぱり俺の顔じゃない気がする。
田中ひろしはもっと冴えない顔だったはずだ。
ちょっと太っていたはずだ。
なのにこれは。
……まあ、中身は引きこもりのままだが。
今日の予定を確認する。
午前:大臣会議。
午後:アリスの授業。
夜:財政書類の確認。
……どれも気が重い。
特に大臣会議が気が重い。
……十五人に見られる。
毎回内心で死んでいる。
引きこもり歴十年の弊害は、転生しても消えないらしい。
大臣会議が終わった。
執務室に戻った瞬間、俺は深く息を吐いた。
……疲れた。
十五人に見られただけで、これだけ消耗するのか。
コンビニで人が多いと入れなかった俺が。
毎日これをやっている。
引きこもりとしての成長を感じる。
いや、これは成長じゃなくて慣れだ。
慣れているだけで、内心は毎回死んでいる。
書類を広げた。
しばらく数字と格闘していたら、パラネスが入ってきた。
「陛下、一つ報告が」
「なんだ」
「王妃様付きの侍女頭から、話がありまして」
「……エルザの?」
「はい」
パラネスが少し間を置いた。
何かを選んでいる顔だった。
「王妃様の体調は安定しております。ですが」
「なんだ」
「夜、眠れていないことが多いようです」
俺は書類から顔を上げた。
「に、妊娠中だからか?」
「それだけではないようで」
パラネスがまた間を置いた。
「侍女頭が言うには、王妃様は夜中に起きていることが多いと」
「……何をしているんだ」
「窓の外を見ておられるか、祈りを捧げておられるか」
「……そうか」
「以前から、そうでございました」
以前から。
その言葉が引っかかった。
「以前から、というのは」
「アリス様が産まれた頃から、でございます」
俺は少し黙った。
アリスが産まれた頃。
つまり、前の俺、ミルケ・ジオがいた頃から。
「さ、下がっていい」
「……御意」
パラネスが出ていった。
俺は書類を眺めたまま、考えた。
……夜中に眠れていない。
窓の外を見ている。
祈りを捧げている。
以前から。
……祈り、か。
この世界では、神がいるかどうかも曖昧らしい。
でも、エルザは祈る。
誰に届くか分からなくても。
その夜。
前の俺の記憶が、珍しく鮮明に流れ込んできた。
断片じゃない。
一つの場面として。
夜の廊下。
ミルケが歩いている。
エルザの部屋の前を通る。
扉の向こうから、かすかな音がした。
泣き声だった。
ミルケは立ち止まらなかった。
そのまま通り過ぎた。
何も感じずに。
……。
俺は目を開けた。
執務室の天井が見えた。
いつの間にか椅子に深く沈み込んでいたらしい。
……前の俺は。
エルザが泣いているのを聞いて。
通り過ぎたのか。
次の断片が来た。
エルザがミルケに、話しかけようとしている。
「……あの、陛下」
ミルケは書類から目を上げなかった。
「用件だけ言え」
エルザが、少し間を置いた。
「……いえ、何でもありません」
頭を下げて、部屋を出た。
ミルケは書類に戻った。
……。
また別の断片。
ミルケが「子を産め」とエルザに言った場面。
そこに感情はなかった。
命令と同じ声だった。
……最低だ。
前の俺は。
この人に、これまで、それをしてきたのか。
胃が痛くなった。
書類を机に置いた。
……何年だ?
ミルケ・ジオの記憶を探った。
エルザが嫁いできたのは、十七歳の時だったらしい。
今のエルザは二十七歳だ。
……十年か。
十年間、あの扱いをしていたのか。
それで、夜中に眠れないのか。
窓の外を見ているのか。
祈りを捧げているのか。
俺は窓の外を見た。
月が出ていた。
今夜も、エルザは眠れているだろうか。
……お母さんも。
思いかけて、止めた。
似ている。
王に振り回されたエルザと、父親に振り回された母が、少し重なった。
でも今は、その先を考えたくなかった。
考えたら、動けなくなりそうだった。
……どうすればいいんだ。
謝るべきか。
でも、謝って何になる。
消えないものは消えない。
ゲームなら謝罪イベントで好感度が上がるが。
現実は違う気がする。
でも、何もしないのも違う気がする。
答えが出ないまま、夜が深くなった。
翌朝。
アリスの授業の前に、俺はエルザの部屋に向かった。
扉の前で立ち止まった。
……ノックするだけだ。
ただノックして、話すだけだ。
体が一歩前に出た。
引きこもりでも、ノックくらいはできる。
コンビニのドアは自動だから、ノックは苦手だが。
いや、関係ない。
ノックした。
「……どうぞ」
静かな声だった。
扉を開けた。
エルザが椅子に座っていた。
刺繍をしていた。
俺を見て、手が止まった。
「……陛下」
「す、少し、話せますか」
「………」
エルザが頷いた。
侍女たちが気を利かせて、部屋から出ていった。
二人だけになった。
……二人だけ。
女性と二人だけ。
童貞が女性と二人だけ。
落ち着け。
今はそういう話じゃない。
俺は椅子を引いて座った。
エルザが待っている。
何を言うつもりで来たのか、整理しながら口を開いた。
「昨日、侍女頭から聞いた」
「何を聞かれましたか」
「……眠れていないと」
エルザが少し目を伏せた。
「ご心配をおかけして、申し訳ありません」
「……心配というか」
俺は少し考えた。
……なんと言う。
ゲームなら選択肢が出るのに。
出ない。
現実には何もない。
「以前から、眠れていなかったのですか」
エルザが少し間を置いた。
「……ええ」
「……そうか」
沈黙。
「前に、色々と……」
言いかけた。
……言うべきか。
言わなければならない気がする。
でも。
「……すまなかった」
出た。
考えるより先に出た。
エルザが固まった。
「……何のことですか」
「前の俺が、お前に……いや、貴女に、ひどいことをしていたと」
「………」
「……思い出した」
エルザの表情が変わった。
怒りでも、悲しみでもない。
何か、冷たいものが閉まる音がした気がした。
「……今更、何のつもりですか」
「……謝りたかった」
「謝って、どうなるのですか」
答えられない。
「謝れば、私が許すとでも思っているのですか?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「では、なぜ今それを言うのですか?」
「言わなければならないと思って」
「………」
エルザが立ち上がった。
「……貴方は」
その声が、初めて感情を帯びた。
怒りだった。
静かな怒りだった。
「……十年間、私に何をしたか分かっていますか」
「わ…分かって、いる」
「……分かっていない」
きっぱりと言われた。
「分かっていたら、今更そんなことは言えない」
「貴方が謝っても、消えないものがある」
「……知っている」
「知っていて、なぜ言うのですか」
答えられない。
……なぜ言った。
ゲームなら謝罪イベントで関係が改善されるはずだ。
でも現実は違う。
謝罪は、相手のためじゃなくて、自分が楽になりたいだけだったのかもしれない。
エルザが続けた。
「……最初の夜から、ずっと怖かった」
声が震えていた。
「声を聞くだけで、足が震えた」
「ご飯が食べられない夜が、何度もあった」
「……貴方の足音が廊下に聞こえるたびに、今日は何をされるのかと思った」
「……それが、十年です」
俺は何も言えなかった。
「……今の貴方が変わったのは、分かります」
エルザの声が、少しだけ落ち着いた。
「……分かっています」
「……でも」
「……十年は、消えない」
「……そうだな」
「……簡単には、信じられない」
「……そうだな」
沈黙。
エルザが窓の外を見た。
「今日は、これだけにしていただけますか」
「……ああ」
俺は立ち上がった。
扉に向かった。
「……陛下」
振り返った。
エルザが、窓の外を見たまま言った。
「謝ったことは、覚えています」
「……そうか」
「……それだけです」
扉が、静かに閉まった。
廊下に出た俺は、壁に手をついた。
……詰んだ。
謝って、詰んだ。
でも。
謝らなかったら、もっと詰んでいた気がする。
これが正解だったのか間違いだったのか、分からない。
ゲームなら結果がすぐ出るのに。
現実は、結果が出るまでに時間がかかる。
引きこもっていた十年間、時間はたくさんあったのに。
使い方を知らなかっただけで。
廊下の向こうで、侍女たちが戻っていく気配がした。
ジークシールドが、廊下の影に立っていた。
いつも通り、何も言わなかった。
ただ、その目が少しだけ違う方向を向いた気がした。
エルザの部屋の扉の方向を。
◇
エルザは窓の外を見ていた。
庭に、風が吹いていた。
(……謝った)
あの方が、謝った。
十年間、一度もなかったことが起きた。
信じていいのか、分からない。
信じたくても、体が覚えている。
足音の恐怖を。
視線の冷たさを。
名前を呼ばれなかった日々を。
(……でも)
エルザは手の中の刺繍を見た。
「謝ったことは、覚えています」
自分で言った言葉が、頭の中で繰り返された。
なぜそう言ったのか、自分でも分からなかった。
許したわけじゃない。
信じたわけじゃない。
でも。
……覚えている。
それだけは、本当だった。
エルザは刺繍に視線を戻した。
窓の外で、風が止んだ。
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