第16話 熱
支えるように前から抱きつくと、シリル様の体温がさっきよりもずっと上がっていた。
「やっぱり熱があるじゃないですか!」
「…メリンダ」
「フランクを呼んできますから、座って待っていてください」
「…メリンダ、私は」
「無茶しちゃダメですよ」
近くの椅子に向かおうとするのに、シリル様が一向に動こうとしない。
まるで、そこに縫い付けられているかのように動かなくて、私は首を傾げた。
「シリル様、お辛いかもしれませんが、椅子に座ってもらえますか」
「私は、メリンダ、君が大事なんだ…」
か細い声が聞こえたかと思うと、シリル様の腕の中に抱き竦められた。
心臓が跳ねて、息が詰まりそうだった。
シリル様の部屋に行った時は支えてもらっただけだから、こんなふうに抱き締められるのははじめてだ。
荒い息が、耳元で聞こえている。
シリル様が、近くにいる…!
目の前がクラクラして、私まで熱が出そうだ。
ど、どうしよう…。
だ、だ、だ、えええぇ!?
…早く楽になってほしいのにっ。
離れたくないって、思っちゃうよ…!
シリル様の熱がシャツ越しに伝わって、自分の鼓動がドクドクといつも以上に音を立てているのがわかる。
私も、シリル様のシャツの裾をギュッと握った。
でも、ずっとこのままではいられない。
一回だけ、長い息を吐いた。
私はなんとかシリル様を押し除けて、笑ってみせた。
熱でうなされているシリル様の腕は、いとも簡単に離れた。
「シリル様に大事にしてもらっていると、ちゃんとわかっていますよ」
「…メリンダ、そうではなくて」
「ただいま戻りました、…どうかしましたか?」
そこにちょうどフェルナンド様が顔を出した。
「フェルナンド様!よかった…!すみませんが、シリル様をお部屋まで連れて行ってもらえませんか?ひどい熱なんです!」
「えっ、あ、はい。父上、肩を貸しますので、こちらへ」
「ぼ、僕も手伝う…!」
向こう側にいたアレン様もこちらに来て、2人でシリル様を抱えた。
「私はフランクを呼んできます。お医者様の手配もお願いしてきますね」
離れた熱の寂しさを感じる前に、シリル様のことは2人にお願いして、私は廊下を歩いていった。
ど、どうしよう!
私、普通にできていたかな…!?
アレン様に色々言われたあとなのに、そんなこと気にならないくらい浮き立ちそうだった。
シリル様に抱き締められた…!
その事実が、私の顔を赤くしていく。
やっぱり、医学の本を読んだ方がいいわ…。
…私、すぐ顔が赤くなるもん。
両手で自分の腕を摩るように、そっと触った。
シリル様の跡が消えちゃわないように、そっと。
たしかに、ここにシリル様の腕があって、熱があった。
シリル様も男の人だったんだな、腕の力がずっと強かった。
騎士になったかもしれない男の人の腕に、ときめいてしまった。
あああああ、絶対っ、何度も思い出しちゃうよ〜〜〜!!!
シリル様の罪作りぃ〜〜!!!
私はフランクに会う前に、顔の火照りを鎮めるのが精一杯だった。
「夏風邪ですね、熱が引くまで安静にお過ごしください」
ルース家かかりつけのお医者様はそう言うと、風邪薬を処方して帰られた。
「ただの風邪みたいで、よかったですね」
「ええ。父上が体調を崩すなんて、珍しいこともあるものです」
「…その人が、お父様に気苦労をかけているせいじゃないですか」
「アレン様っ、またそんなことをおっしゃっているのですか」
「マーサは黙っててよ!」
「アレン様」
「な、なんですかっ!」
アレン様は私を睨んだけれど、私は努めて静かな声で微笑んだ。
「お部屋を出てからにしましょう。シリル様を起こしては悪いので」
私がそう言うと、アレン様は気まずそうに頷いて、みんなで部屋をあとにした。
「それで、何故アレンはメリンダさんに失礼なことを言っているんだ?」
フェルナンド様が問い詰めるようにアレン様との距離を縮めたので、私の方が慌ててしまった。
「フェ、フェルナンド様、いいんですよっ!急に嫁いできた私に、思うところがあっても不思議じゃないんですから!」
「ですが」
「むしろ、皆さんによくされすぎなんですよ、私」
「そんなことはありません。父上とも、うちの使用人とも、ルイーゼとも、よくしてくださっているのはメリンダさんの方です」
「ルイーゼ姉様まで、この女と仲良くしているの!?」
「この女って…、アレンお前、言っていいことと悪いことの区別もつかないのか?」
「どうやって、取り入ったんですか!」
「ええぇ〜、っと、旧古代語で?」
「はあああ!?」
次々と飛んでくる言葉に、目が回りそうになりながら、そのままを答えていた。
隣でフェルナンド様が笑ったのがわかった。
「お前が知らないだけで、メリンダさんはルイーゼとは何度もお茶をする仲なんだ」
「あはは…、毎度こちらに来ていただいて申し訳ないですが…」
「それくらいいいんですよ、ルイーゼの我儘なんですから」
「いや〜、どう考えても私の我儘ですよね?」
「フェル兄まで…。その女のどこがいいんですかっ!」
「父上が選んだ女性なんだから、いいに決まっているだろう」
「ぐっ、それは…!」
アレン様は悔しそうに、唇を噛んだ。
おおぉ〜、アレン様が言い返せていない。
お兄様ってすごいのね…、私にも兄がいたらこんな感じだったのかな。
思わずフェルナンド様を見上げると、目が合った。
シリル様よりぎこちないけど、その目は優しく私を見ていた。
「僕は、メリンダさんが父上と結婚してくださって、本当によかったと思っています」
「へっ?」
「父上があんなに楽しそうなのは、あまり見たことがなかったので」
「え?シリル様って、いつも楽しそうですよね?」
私が首を傾げると、フェルナンド様は苦笑してから、マーサとフランクの方を見た。
楽しそうなシリル様をあんまり見たことないって、どういうこと?
「マーサとフランクには、どう見えている?」
フェルナンド様がそう尋ねると、2人は嬉しそうに笑った。
「僭越ながら申しますと、旦那様はメリンダ奥様が来てから、人が変わったように楽しそうでいらっしゃいます」
「ええ、ええ、そうですよ!あんなにウキウキの旦那様、本を読んでいる時以外にはじめてみましたわ!」
「それに浮かれていらっしゃいますね」
「声をあげて笑っていらっしゃいますものね!」
「ああ、それは僕も驚いたな。父上はあんなふうに笑うのだな」
「奥様がお越しになる前に、ドレスも宝石も買い込んでいらっしゃいましたもの!あの女性に疎い旦那様がですよ!?」
「マーサ、それは失礼だからやめなさい…」
「あら、それでよくヴェローニカ様に怒られていた、旦那様がですわよ!?」
「主人の悪口を言うのはやめなさい……」
と言いつつも、フランクも否定しないところを見ると、シリル様が女性ものに疎いのは本当らしい。
あれ、たしかエルウィン様も似たようなことを言っていたような…?
でも、私の部屋にはいっぱいのドレスがある。
宝飾品もしっかり揃っているし、辞書だってついこの前「新しいものはいるかい?」と訊かれて、買ってもらう手筈になっている。
お花だって、もらった。
私、相当大事にされていると思っていたけど、もしかして思っていた以上だったりするのかな。
「お仕事から早く帰ってきますしね!」
「それどころか、朝の出発が遅くなりましたね」
「そうですよっ!以前は朝食も召し上がらずに、行ってしまわれたのに!」
「えっ、毎朝、私とご飯食べてくれているよね?」
「奥様が来てからはそうなさっていますね」
「一分一秒でも、奥様から離れたくないのでございますよ!」
「旦那様は、奥様が可愛くて仕方ないですからねぇ」
「旦那様にも春が来て、使用人一同嬉しい限りにございます!」
「えっ、ええぇ…!?」
アレン様じゃなくて、私が情けない声を出してしまった。
知らなかったシリル様の情報に、頭が混乱してくる。
えっ、朝ご飯、一緒に食べているよね!?
この家に来た次の日から、そうだったよね?
お仕事の時も、フェルナンド様より随分早く帰っていらっしゃるし。
え、でも、私が来る前は、もっと遅いお帰りだったってこと?
だって、いつも夕食のあと、一緒におしゃべりする時間があるくらいなんだよ?
あと、声をあげて笑うのは、はじめて会ったレストランの時からだけどっ!?
え、ええっ?
私はプチパニックを起こしながら、頭を抱えた。
その様子に、アレン様以外が優しく見守っている気がした。
「奥様がおいでになってから、旦那様が楽しそうなのは間違いございません」
「わ、私っ、お仕事の邪魔してない!?」
「しておりませんよ。旦那様は元々仕事以外にあまり興味のない方でしたから。他にも目に入るようになって、我々はホッとしているぐらいです」
「エルウィンとアレンが寮に入ってからは、ますます仕事だけだったからな」
「そうですよ!だから、再婚したらどうかとせっついていたのですから!」
「私は正直、旦那様は再婚なさっても変わらないかと思っていましたが」
「それは僕もですよ。父上は、もう結婚は懲り懲りなのかと、勝手に思っていたくらいだし」
「ええっ!?私に結婚はどうですかと訊いてくださったのは、シリル様ですよっ!?」
私は声を上擦らせてそう言うと、全員がこちらを見た。
フェルナンド様は目を丸くして、アレン様はもっと丸くしていた。
フランクはにこやかに笑っているし、マーサはニンマリしている。
な、なんですか、皆さん、そんな顔してっ…!
「…父上はよっぽどメリンダさんを好いているのですね」
「旦那様もやりますなぁ」
「奥様を取られたくなくて、焦ったんですかねぇ〜!」
「…お父様から、結婚の申し込み…」
その、アレン様以外、ニヤニヤとこっちを見るのは、やめてもらっていいですか…!
すっかりまた頬が熱くなって、両手で隠した。
なんか、思っていたシリル様と違う。
私が見ているシリル様って、だって、もっと優しくて、柔らかくて。
あの紫の目と、ひだまりの声が、いつも私を包んでくれて。
それで、それで──っ!
「と言うわけだ、アレン。お前が認めなくても、お前以外はみんなメリンダさんがいいと思っている」
フェルナンド様は嗜めるように、キッパリとそう言った。
アレン様は、項垂れるだけだった。
すっかり話し込んだあと、私は湯浴みを済ませてシリル様の部屋を訪れていた。
まだ熱があるようで寝ていたけれど、顔が見たかった。
マーサには、すぐに戻るからと言ってある。
「奥様がおそばにいたら、旦那様も喜ばれますよ」と部屋に来るのは止められなかった。
ベッドのそばにあった椅子に座って、荒い呼吸で胸が上下するシリル様を覗き込んだ。
この部屋に一脚しかないと言っていた椅子だ。
シリル様にとって、ここは誰かが訪問してくる場所じゃないんだろう。
その部屋に、本人の許可もなく入っていることに、少しだけ罪悪感を抱く。
結局、私はまた自分の気持ちを優先してしまった。
でも、今は顔が見たかった。
ねえ、シリル様。
みんなが、シリル様は私のことを相当可愛がってくださっていると言ったんですけど、そうなんですか?
心の中で訊いても、返事があるわけではない。
苦しそうな呼吸が、静かな部屋に響くだけだった。
「…私、アレン様に悪いことしちゃいました。自分でどうにかせずに、みんなに助けてもらっちゃったし」
独り言を呟いて、シリル様のおでこに汗が流れていくのが見えて、そばにあった濡れタオルでそっと拭った。
んんっ、と苦しそうに顔を顰めるシリル様に、代わってあげられたらいいのにと思う。
「シリル様、早くよくなってくださいね」
そう声をかけて、部屋に戻ろうとすると、シリル様は呻き声をあげた。
「…ない」
「シリル様?大丈夫ですか?」
「…すまない、ヴェローニカ」
「…」
「ゆるして、くれ…」
聞いたことのない苦しそうな声に、私は動きを止めた。
それから、汗で張り付いているシリル様の前髪をそっと撫でた。
いつも、私の頭を撫でてくれているみたいに。
「…もし、話す気になったら、その時は私にも教えてくださいね」
それだけ言って、私は泣きそうに微笑んだ。
しばらくそのまま頭を撫でて、シリル様の呼吸が落ち着くまでそうしていたのだった。




