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居残りの時間

 崖の上には、ただ荒れ狂う波の音だけが残された。


 彼と佐倉の姿を飲み込んだ暗い海面は何事もなかったかのように黒い口を開けている。


 雪乃宮は地面に伏したまま足首に絡みついた鎖を握りしめ、背後に立つ影を激しく睨みつけた。


 その瞳には肉親を奪われた憎悪と、それ以上に深い絶望が混じっている。


 「……どうして。どうして、綾目先生まで、そんなに……っ!」


 雪乃宮の声が潮風に震える。


 彼女にとって綾目先生はただの教師ではなかった。


 孤独に、知性という殻に閉じこもっていた入学したての彼女を丁寧に、優しく指導してくれた恩師。


 誰よりも尊敬し、その理知的な振る舞いに時々茶目っ気のある行動にある種の理想を抱いていた対象だったのだ。


 「先生はもっと……正しくて、時折冷徹だけどとても温かい人だと思っていました。勉強で詰まっている時、私を支えてくれたじゃないですか! なのに、どうしてこんな……狂ったことに加担しているんですか!」


 綾目先生は雪乃宮の絶叫を、まるで春のそよ風でも受けるかのような穏やかさで受け止めた。


 彼女はゆっくりと屈み込み、泥と血に汚れた雪乃宮の頬をかつて見せたのと同じ慈愛に満ちた手つきで撫でる。


 「……雪乃宮さん。私は、今でもあなたの良き理解者でありたいと思っています」


 その声は驚くほど澄んでいた。


 狂気など微塵も感じさせない、あまりにも教師らしい響き。それがかえって雪乃宮の背筋を凍らせる。


 「教育とは対象を理想の形へ導くこと。……私は先生を『完成』させたかっただけ。そして今、彼は佐倉さんと共に永遠という名の完成を手に入れた。……これは、一つの教育的救済なのよ」


 「そんなの……どんなに言葉で包もうが、ただの人殺しです……!」


 雪乃宮は自分を撫でるその手を振り払おうとした。


 だが、綾目先生の指先はまるで吸い付くように彼女の顎を固定する。


 「あなたは賢い子ね。お姉さんよりも、ずっと。……だから、わかるはずよ。失ったものを嘆くより、残された者がどう生きるべきか。……さあ、帰りましょう。あなたの再教育もこれからじっくりと始めなくてはいけないもの」


 綾目先生の瞳の奥には底知れない暗闇が広がっていた。


 彼と佐倉を失ってもなお、彼女の教育という名の支配欲は、微塵も揺らいでいなかった。


 雪乃宮さんは尊敬していた師の変わり果てた、あるいはこれが本性だったのかもしれない姿を前に声も出せずに絶望の涙を流した。


 崖の上には主を失った鎖が月光を浴びて虚しく横たわっていた。


 「そんなものは、間違っている……!」


 雪乃宮の悲痛な叫びが夜の崖に響き渡った。


 尊敬していた師の狂気を真っ向から否定し、彼女は鎖を握りしめたまま震える足で立ち上がる。


 綾目先生はその言葉を静かに、けれどどこか満足げに受け止めていた。


 「間違っている、か。……ええ、そうね。それが正常な反応だわ、雪乃宮さん」


 綾目先生は微笑みを絶やさないまま、上着のポケットに手を伸ばした。


 取り出されたのは月光を浴びて無機質に光る冷たい鋼鉄――拳銃だった。


 雪乃宮の息が止まる。


 銃口が自分に向けられることを直感し、彼女は逃げることもできずただ強く、強く目を閉じた。


 教え子に手をかける。


 それがこの狂った教育の最終段階なのだと、彼女は絶望と共に悟った。


 だが。


 待てど暮らせど、死の衝撃はやってこない。


 代わりに耳に届いたのはこれまでで最も優しく、そしてひどく遠い綾目先生の穏やかな声だった。


 「私は愛する人の所へ行くけれど。……あなたは来ちゃダメよ。……湊くんと、幸せにね」


 「……え?」


 雪乃宮は弾かれたように目を開けた。


 そこには自分ではなく、自らの右側頭部に銃口をピタリと当てている綾目先生の姿があった。


 「先生、待って――!」


 雪乃宮が手を伸ばすよりも、叫びが空気を震わせるよりも。


 引き金が引かれる方がわずかに早かった。


 乾いた銃声が夜の海を引き裂く。


 火花が一瞬、綾目先生の微笑みを照らし出した。


 次の瞬間、糸の切れた人形のように彼女の体は崖の縁へと倒れ込んだ。


 光に照らされた地面に、暗い赤が急速に広がっていく。


 あんなに素敵で、あんなに優雅だった支配者の亡骸がそこにはただの物として横たわっていた。


 「…………ぁ」


 雪乃宮は声も出せずにその場に崩れ落ちた。


 理解が追いつかない。


 先生。


 私の姉を奪い、先生を奪い、そして自分自身の命さえも教育の幕引きとして投げ出した、最愛の憎むべき恩師。


 雪乃宮の心はあまりの理不尽さに粉々に砕け散った。


 「あああああああああっ!!」


 夜の断崖に少女の慟哭が響き渡る。


 誰もいない。


 誰も答えない。


 雪乃宮は冷たくなっていく綾目先生の手を握り、そして真っ暗な海を見つめた。


 波の下へと消えた、もう一人の大切な人の姿を求めて。


 「……お義兄、さん」


 その呼び声は激しい波音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。

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