天国への落下。
雪乃宮が血に濡れた手をそっと伸ばす。
その瞬間、佐倉の顔に浮かんだのは怒りでも憎しみでもなく、迷子のようなあまりにも幼い絶望だった。
綾目先生が俺を拘束していた手を、ふっと解いた。
血を流し、地面に這いつくばる雪乃宮を見捨てることなど教師として、一人の人間としてできるはずがなかった。
「……雪乃宮!」
俺が駆け寄ろうとした瞬間、今度は佐倉が回り込み、背後から俺の体にしがみついてきた。
細い腕が俺の胴を骨がきしむほどの力で締め上げる。
「行かせない……。先生、どこにも行かせないよ……!」
一方で雪乃宮は綾目先生によって無慈悲に髪を掴み上げられた。
「見てなさい。これが、あなたが守ろうとしたものの末路よ」
冷酷な宣告と共に雪乃宮の視線は俺と佐倉が密着し、逃れられぬ泥沼に沈んでいく姿へと強制的に向けられた。
佐倉は俺の背中に顔を埋めたまま、くぐもった声で語り始めた。
それはなぜ彼女が俺をここまでの地獄に引きずり込んだのか――その呪いの正体だった。
「ねえ、先生……。覚えてるよね?私ね、『佐倉さん』を演じるのに、もう疲れちゃったんだ」
その声には先ほどまでの狂気ではなく、底なしの虚無が宿っていた。
「学校で笑って、勉強して、誰にでも優しい『完璧な女子高生』でいること。……それがどれだけ息苦しくて吐き気がすることか、先生にはわからないでしょ? ……型に嵌められて磨かれて中身なんて空っぽなのに期待だけが膨らんでいく」
佐倉は俺のシャツを指が白くなるほど強く握りしめた。
「だから……壊してほしかったの。この偽物の私を先生の手で終わらせてほしかった。……ねえ、先生。私がこんなにひどいことをするのは、先生に私を『殺して』もらうためなんだよ」
雪乃宮が目を見開く。
佐倉の歪んだ愛。
それは俺を手に入れるための独占欲であると同時に、俺という純粋な正義によって、自分の醜悪な人生に終止符を打ってもらうための凄惨な自殺志願だった。
「私を殺して、先生。……そうすれば、先生は一生私を忘れられない。私だけの先生として、罪を背負って生きていけるでしょ? ……それが、私たちの本当のハッピーエンドなんだよ」
佐倉の瞳には狂気と純粋さが混ざり合った、暗い光が宿っていた。
俺を主人として敬うふりをしながら、彼女は俺を人殺しに仕立て上げようとしている。
綾目先生に押さえつけられた雪乃宮の瞳から一筋の涙がこぼれた。
言葉が届かなかったのではない。
届いた言葉さえも佐倉は「終わるための燃料」として飲み込んでしまったのだ。
背中のすぐ後ろで、波が岩に砕ける轟音が響く。
一歩。
たった一歩、佐倉が俺を突き飛ばすか俺が彼女に抱かれたまま後退すれば、すべては暗い海の底へと消えてしまう。
潮風が俺たちの背中を死の淵へと誘うように吹き抜けていた。
「辞めるんだ、佐倉……! まだ、今ならやり直せる。命まで投げ出す必要なんてないんだ!」
必死の叫びも、佐倉の耳には心地よい子守唄のようにしか響かない。
彼女は俺の胸に顔を寄せたまま、恍惚とした表情で自らの内に飼っていた怪物をさらけ出した。
「……最初は、私だけが死ねばいいと思ってた。この空っぽな『佐倉さん』を、先生の記憶の中にだけ遺して。……けれど、ダメだった。次第に先生の心そのものが欲しくなっちゃったの」
彼女の手が俺の心臓の鼓動を確かめるように胸元を強く掴む。
「『心が足りない』……私に心がないって言ったのは、先生だよね? だったら、最期に教師らしく足りないものを教えてよ。……ねえ、先生。命を混ぜ合わせれば、私の空っぽなところも先生で満たされるのかな?」
佐倉の瞳が月光を浴びて鏡のように無機質に光る。
「だからさ。……一緒に死のう? 誰にも邪魔されない、海の底で」
俺は彼女を抱きしめたまま、その背後に立つ綾目先生へと視線を移した。
彼女は雪乃宮さんを拘束したまま、まるで最高傑作の舞台を鑑賞する観客のように静かに俺たちを見つめている。
「……これでいいのか、綾目先生。……あんたも、俺たちがここで消えるのを望んでいるのか?」
俺の問いに綾目先生は表情をぴくりとも動かさなかった。
ただその冷徹な瞳の奥にわずかな、けれど決定的な亀裂が走る。
彼女は俺を所有し、再教育することに心血を注いできた。
だが佐倉が選ぼうとしているのは、所有でも教育でもない、完全なる破滅だ。
「……死は、究極の静止。……そして、永遠の完成」
綾目先生が一歩、また一歩と崖の縁へ近づいてくる。
雪乃宮さんを乱暴に放り出し、彼女の手は俺の首元へ、あるいは死の淵へと伸びようとしていた。
「佐倉さんの言う通りね。……壊れて直らないのなら、美しいまま標本にしてしまうのが、一番の救いなのかもしれない」
三人の狂気が、崖の上で一つの円を描く。
俺の首元に再び冷たい鎖の感触が蘇った気がした。
それは革でも鉄でもない、彼女たちの執着という名の、逃れられない運命の鎖だった。
佐倉の体が俺を巻き込むように大きく傾いた。
足元で小石が崩れ、暗い海へと吸い込まれていく。
重力に魂を引きずり出されるような浮遊感。
その瞬間、地面に這いつくばっていた雪乃宮が折れそうな腕を必死に俺たちへと伸ばした。
「――先生、思い出して! あの人が最後に言いたかったのは、そんなことじゃない!」
裂帛の気合を込めた叫びが、潮風を切り裂いた。
雪乃宮さんの指先が俺の服の裾を辛うじて捉える。
彼女は血の混じった息を吐き出しながら、狂乱する佐倉を射抜くような目で見据えた。
「佐倉さんも……先生の恋人のことを深く知らないで、そんな行動はやめて! 彼女は、あなたたちの身勝手な愛の道具にされるために、あの場所へ行ったんじゃない!」
「……っ、は? まだ喋るの? いい加減、うるさいよ……っ!」
佐倉が苛立ちに顔を歪め、俺の肩を掴む手に力を込める。
崖の淵で揺れる二人。
雪乃宮さんの言葉は、佐倉が作り上げた「先生との心中」という美しい物語のページを強引に破り捨てようとしていた。
「雪ちゃん……あなたに何がわかるの? あんな女もう死んで、いないも同然なんだよ! 記憶にさえ残らない、ただの幽霊の気持ちなんて……!」
「いいえ、わかるわ! 彼女が先生に残した本当の言葉を、あなたは自分の都合のいいように書き換えているだけよ!」
雪乃宮さんの必死の抵抗に、佐倉はついに激情を露わにした。
彼女は俺を抱きしめたまま雪乃宮さんに向かって、剥き出しの憎悪を叩きつける。
「うるさい、うるさい、うるさい! あなただって……あなただって、先生の恋人の気持ちなんて、本当はこれっぽっちも分からないでしょ! 傍観者の分際で、知ったような口を利かないでよ!」
佐倉の叫びが夜の海に虚しく響き渡る。
その矛盾。
その拒絶。
誰一人の声も重ならないまま、俺たちは崩れゆく崖の上で互いの「愛」という名の刃を突き立て合っていた。
「……いいえ、知っているわ」
雪乃宮さんの声がこれまで聞いたことのない熱量で震えた。
理知的で、常に一歩引いた場所から世界を観察していた彼女の仮面が音を立てて崩れ落ちる。
彼女は俺の裾を掴んだまま、地面を叩き、叫んだ。
「私がどれほど、あの人に焦がれていたか……! あの人は、私の……私の唯一の憧れだったのよ!」
その絶叫には単なる正義感や同情ではない、ドロドロとした執着と、純粋すぎる敬愛が混ざり合っていた。
俺を助けるための言葉ではない。
それは彼女自身の奥底に隠されていた、剥き出しの「個」の叫びだった。
俺は佐倉を腕に抱えたまま凍りついた。
佐倉もまた、自分と同じ、あるいはそれ以上に深い闇を瞳に宿した雪乃宮さんを異様なものを見るような目で見つめている。
「……は?」
佐倉の唇が戦慄に震えた。
俺と佐倉の間に、奇妙な違和感が走る。
二人の女の狂気が支配していたこの場所に、もう一つの理解を超えた「熱」が入り込んできたのだ。
「何言ってるの、……雪ちゃん。あなた、何……」
佐倉が俺を掴んでいた力を僅かに緩める。
彼女の顔に浮かんだのは怒りではなく、気味の悪いものに触れた時のような困惑だった。
「……会ったこともない癖に……っ! あなたはただの生徒で、先生の恋人のことなんて、写真か何かで見ただけでしょ!? なのに、なんでそんな……」
佐倉の声が裏返る。
自分こそが先生を一番理解していると信じていた彼女にとって、雪乃宮さんが見せたその「激昂」は、計算外のノイズだった。
「会ったこともない? ……そうね。確かに、言葉を交わしたことはほとんどなかったわ。でも、私はずっと見ていた。先生の隣で、誰よりも美しく、誰よりも孤独に笑っていた彼女を……!」
雪乃宮さんの瞳から涙が溢れ出す。
その執着の対象は俺ではなく、俺が失った「彼女」だった。
崖の淵。
三人の女の、重なり合わない三様の愛が夜の海風の中で激しく火花を散らす。
俺はただ、その不気味な均衡の中で呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
俺は雪乃宮の歪んだ表情を見つめながら、背筋に冷たい氷柱を突っ込まれたような感覚に陥った。
理知的で、どこか浮世離れしていた彼女の顔立ち。
激した時に見せた、あの切なげな眉の寄せ方。
記憶の底にある「彼女」の面影が、今の雪乃宮さんの姿とおぞましいほど完璧に重なっていく。
「……ちょっと待ってくれ。雪乃宮、君は……」
喉が渇き、声が掠れる。
雪乃宮は綾目先生に髪を掴まれたまま、自嘲気味に、けれど誇らしげに口角を上げた。
「そうよ、先生。……私は、あの人の妹。血を分けた、たった一人の肉親よ」
「……妹? 何を言って……。あの人に、妹なんて……」
「無理もないわ。私は生まれてすぐに養子に出されて、苗字が変わったもの。……でも、血は嘘をつかない。私はずっと、遠くからお姉ちゃんを見ていた。先生と幸せそうに、……そして、壊れそうに歩いている姿を」
雪乃宮さんの告白に俺の脳内はパニックを起こした。
なぜ彼女があの日俺の身辺を探っていたのか。
なぜ危険を冒してまで俺を助けに来たのか。
そして、なぜ実力に合っているとは言い難い学校へ入学したのか。
すべては姉への、憧憬ゆえだったのか。
「……へえ。お姉さんの代わりに来たってわけ? 気持ち悪い」
佐倉が吐き捨てるように言った。
だがその瞳には、自分以上の「純血な執着」を持つ存在への剥き出しの恐怖が混じっている。
「……あら。それは素敵な再会ね、先生」
綾目先生が冷酷な微笑みを浮かべた。
彼女は雪乃宮の細い体を、ゴミ袋でも扱うような無慈悲さで引きずり、俺と佐倉から距離を取らせる。
「お姉さんに続いて妹さんまで壊れてしまうなんて。……この一族はよほど先生に縁があるんでしょうか。あるいは、先生そのものが彼女たちを惹きつける呪いなのか」
「離して……! 先生、その女から離れてください! お姉ちゃんを奪った人に、あなたまで奪わせない!」
雪乃宮は綾目先生の腕の中で必死に暴れる。
その必死な形相は、もはや教え子のものではない。
姉を失った一人の少女の、剥き出しの絶叫だった。
崖の淵で、俺と佐倉。
そして、引き離された雪乃宮さんと彼女を冷笑する綾目先生
そしてついに足元が完全に消えた。
佐倉に強く抱きしめられたまま、俺たちの体は重力に身を任せ、暗い夜の海へと投げ出される。
視界が上下に反転し、吹き付ける風が耳元で不気味な咆哮を上げた。
一瞬の静寂、そして絶望。
「――先生! 待って!」
崖の上から雪乃宮さんの絶叫が響く。
彼女は俺たちが消えた暗闇に向かって、迷うことなくその身を投げ出そうとした。
姉を追い、憧れた人の背中を追い、すべてを終わらせるために。
「あなたたちが死ぬのなら、私も……!」
だがその跳躍が完遂されることはなかった。
背後で静観していた綾目先生の瞳が冷徹な光を放つ。
彼女の手から放たれたのは、先ほどまで俺を繋いでいた、あの重く冷たい鉄の鎖だった。
「行かせないわ。……死ぬことさえ、私の許可なくしてはならないの」
放たれた鎖が生き物のように雪乃宮さんの足首を打ち据え、蛇のように絡みつく。
激しい金属音と共に、彼女の細い体は崖の縁で派手に転倒した。
鋭い岩に肌を削られ、雪乃宮さんは苦悶の声を上げる。
「あ、……っ、離して! 先生が、……!」
雪乃宮さんは爪を立て、地面を這いながらなおも崖の淵へ進もうとする。
しかし、綾目先生はゆっくりとした足取りで近づき、その背中に冷たい靴底を乗せた。
逃げ場を塞ぐ、絶対的な支配の重み。
「ダメよ。あなたはまだ、私の教育を受けていないもの。……あの子たちが消えた後のこの世界で、あなたがどう壊れていくのか。……じっくりと、観察させてもらうわ」
崖の上では狂気を孕んだ静寂が支配を開始していた。
俺と佐倉の視界からは、崖の上の二人の姿が急速に遠ざかっていく。
冷たい海面が牙を剥いて迫り来る。
「けどまぁ、雪ちゃんの想い人を盗んだ事が、雪ちゃんへの最大の復讐かな」
腕の中の佐倉は俺の首に腕を回したまま、初めて唇を合わせた。その顔はこの世のものとは思えないほど美しく、満足げに微笑んでいた。
「……あは。……ようやく二人きりだね、先生」
佐倉は「鍵」を俺の眼球に突き刺す。
激しい衝撃が全身を襲う。
俺たちの意識は凍てつくような黒い飛沫の中に深く、深く沈んでいった。
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