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私の平和な日常が壊れ、もうどうしていいか分からなくなった私は、それでも放課後にいつもの喫茶店へと向かう。
日常を取り戻すためには、普段の変わらぬ生活を心がける事が大切なのだ……たぶん、きっと。
「……こんにちは……」
「おや?悠君?今日は元気がないようだけど……何かあったのかい?」
「い、いえ……少し疲れているだけです」
「そうか……いつもの席で待っているといいよ」
心配してくれているマスターに、頬笑みを返すが、どうも上手く笑えていないらしい。
マスターは少し寂しそうに笑い、それでもこれ以上は聞かずに、いつも通りの態度を貫いてくれた。
こういう気遣いいができるマスターの事が大好きだ。
マジでマスターさんカッコイイ!
自分が女ならば、この人に惚れていただろう。
しかし、私は男なので、女装をしなくていいのなら、将来はあんな紳士になりたいものだ。
でも、私を育てたのは涼さんだ。
そう、あの涼さんなのだ。
となると、私もあんなふざけた大人になってしまうのだろうか?
……いや、今はそんな事考えるのは止そう。
これ以上何か考えるはもう限界だ。
心を癒す様に、いつものテラス席でいつものようにコーヒーを片手に、文庫本を読んでいると会話が聞こえる。
ああ、いつもの初等部の子達だろうか?
つい耳を傾けると、彼らはこんな会話をしていた。
「なぁ、今日の男女で別かれてやった保健体育あったじゃん?」
「ああ、あったな。で、それがどうした?」
「いや、俺達もそんな年頃になったんだなーってさ」
「なにお前?急に悟った事言ってんの?というかそれ、昨日やってたアニメの主人公のセリフ丸パクリじゃねぇか!」
くそっ、騙された。
なんか「最近の初等部の子は結構大人びているのかなぁ」とか感心したじゃねーか!
「くそっバレたか!なんかカッコ好かったから使ったのに」
「んで、結局お前は何が言いたんだ?」
「ああ、おっぱいってさ……なんでおっぱいって言うんだ?」
これは……この子は本当にバカなのか!?
少年Aの言葉に、テラス席で優雅にコーヒーを飲む私を震撼させる。
「……また、お前は馬鹿な事を言い出したな?……え?もしかして、その問いに哲学的な意味があったりすんの?」
「いやいや。お前こそ馬鹿な事言ってないで聞けよ。いいか?おっぱい、それは女性だけ所有する事を神に認めたられた物だ。おっぱい、それは男が誰しも恋い焦がれ、いつかはそれを我が手に収める為に努力する、至高の物だ!おっぱい!それは――」
「お、おう。ま、まぁ?お前の意見は一理ある……かもしれないな」
少年Bは少年Aの「おっぱい発言」を被せる様に遮り、頬を赤く染めながらも、なんとか頷く。
「おっぱい、それは子供が出来た時に、授乳する為の物だ。しかし、おっぱい、それは女性の魅力の一つでもある訳だな」
「うん……そうだね……」
一度は止めようとした少年Bだが、更に熱く語りだす少年Aを止められないでいる。
こんな街中で大きな声で『おっぱいおっぱい』と語るせいで、ほら、君の友人である少年Bが、周りをキョロキョロ見ながら、真っ赤になっているぞ?
「そして、最初の話に戻るんだけど、おっぱいって、なんでおっぱいって言うんだ?」
「……お、お前本当……まぁいいや。う〜ん、ほら?子供や赤ちゃんが分かりやすいように作った言葉じゃねぇの?偉い人が」
少年Bは「心底どうでもいい」と言わんばかりに、適当に返事をしている。
「いいや違うね!お前、おっぱいだぞ?そんな一言で片づけていい問題な訳ないだろ?やる気あんのか?あぁん?てめぇ、少しは真面目に考えろよ!」
「あ、うん……なんかごめんな……」
少年Bは少年Aの剣幕に、首を傾げながらも謝ってしまう。
もしここで、私が口を挟めるのなら、少年Bのフォローをする様に動くだろう。
例えば、彼の言葉の最後の『偉い人』を『エロい人』に変えるだけで、きっと少年Aは納得する筈なのだ。
だって、少年Aは馬鹿だから。
そして、決して悪い訳でもないのに怒られた少年Bは、何か居心地が悪そうに下を向いているのが窺える。
どうにかしてやりたいと思いつつも、しばらくすると様子を見守っていると、この気まずい沈黙を破る存在が現れる。
そう、その存在とは――我らが少年Cだ!
「悪いなぁ〜、待たせた……って、どうしたお前ら?また喧嘩か?」
「おお!お前を待ってたんだよ!」
「マジ助かった!本当良かった!こいつをなんとかしてくれよ!」
少年Aも少年Bも少年Cを見た瞬間、表情が晴れやかになる。
私も心なしか少年Cの登場に安心感を覚えてしまう。
なぜだろう?少年Cがとても頼もしく見える。
「ん?ああ、分かったから。それで今度は何があったか話してみろ?」
そう言いながら、困った様に笑い、眼鏡をクイってするのが、悔しい事に妙にカッコいいと思ってしまった。
何この子?本当に初等部なの?
私のクラスのエロ川君よりずっと知的に見える……不思議でもないな。
うん、必然だ。
「ああ、よく聞いてくれよ?物知りのお前なら、こんな事、取るに足らない問題かもしれないが……おっぱいって、なんでおっぱいって言うんだ?」
「ほぅ……『おっぱい』についてディスカッションしていた訳か?まぁ、それなら少し熱くなる事もあるだろうな」
「え?そうなのか?」
「ああ、だから許してやれ」
「お、おう……」
少年Aの言葉を興味深いように、感嘆の息を漏らす少年C。
そして、その返答に戸惑いを見せる少年Bと、本越しに盗み聞きをしている私。
「じゃあ、結論から先に言わせてもらうと『よくわからない』が答えだ。一杯が訛って『おっぱい』となった説などもあるが、未だにどれが正しいかは語られていないんだ」
「くっ!ちくしょう!迷宮入りかよ!偉い学者が雁首揃えて何やってんだよ!」
いや少年A、お前こそ何言ってんだよ?
学者さんに謝れ!
学者さん達はおっぱいについて研究する為に、学者になった訳じゃないからな!
悔しそうに、本当に悔しそうに言葉を絞り出す少年A。
この子は本当に……余計なお世話かもしれないが、将来が不安になってくる。
そんな少年Aの姿を見て少年Cは、ニヤリと笑い両手を広げ言葉に抑揚をつけ、言い聞かせるように語りだす。
「いいかい?よく聞くんだ。確かに『おっぱい』の語源は分からない。もしかしたら、一生分からないままなのかもしれない」
少年Cの声は徐々に大きくなり、拳を握り、見る者を魅了するかの様に、心を鷲掴みするかの如く、力強く語りかける。
「だが!だがだ、諸君!よく聞け!逆にこう考えられないだろうか?言語では、いや、人如きでは『おっぱい』について全てを語る事などできない、神秘的なモノである、と」
おっぱいについて語る少年Cの姿はまるで、自由を訴える革命家の様であり、老齢の首唱の様でもあった。
少年Cが何処に向かおうとしているのは、それこそ『神のみぞ知る』なのかもしれない。
「お、おおおおおーー!!流石だぜ!俺はお前についていくぜ!」
「ふっ、この道は茨の道だぞ?」
「ふっ、望むところだ!」
「あ、うんそうだね〜」
少年Aと少年Cが硬く手を握り合いながら、修羅の道を行くと決めている横で、少年Bは冷めた目で彼らを眺めているのが、とても印象的だった。
そして、私はというと……
「なる……ほど……」
正に天啓を得たかのようだった。
「……おっぱい、かぁ」
まさか、彼らの会話で悩みの解決の糸口が見えるなんて、もう彼らを馬鹿に出来ないじゃないか。
彼らもまた、それぞれの心に信念を抱いた一人の――いや、一匹の漢なのだと。
「ふぅ……帰りますか」
これは、この気持ちをなんて表現するべきだったろうか?
ああ、思い出した。
以前の彼らの会話であってではないか。
そう、これこそ『目から鱗』だ。




