【第2話】風と鼓動、そして忍び寄る暗雲
エルフの里から支流の森を抜け、透たちがゴブリンの村へ戻ると、集落は一瞬にして静まり返った。
「ひ、姫様……!? なぜエルフの姫様が、こんなむさ苦しいゴブリンの村に……!?」
村長ガルドをはじめ、棍棒を手に村を守っていたゴブリンたちが、目を丸くして地面に膝をついた。無理もない。これまで人間によって虐げられ、互いに距離を置いて隠れ住んできた亜種同士である。エルフの最高指導者たる姫が、粗末な木柵をくぐって自分たちの村に足を踏み入れるなど、歴史上あり得ない出来事だった。
しかし、姫はマントの裾を軽やかに揺らし、気品に満ちた笑みを浮かべた。
「頭をお上げなさい、ガルド村長。私は今日から一人の生徒……橘様のもとで『看護』を学ぶ助手として、ここへ参りました。種族の壁を超え、共に命を守る知恵を学びましょう」
姫の凛とした言葉と、その背後に立つ透の飾らない笑顔に、村人たちの緊張は一気に解け、大きな歓声へと変わっていった。
そんな中、若いゴブリンのリクが首をひねりながら歩み寄ってきた。
『なあ、橘さん。俺たち、これからなんて呼べばいいんスか? 「姫様」って呼び続けるのはなんか硬いし、俺たちみたいなゴブリンが「姫様」なんて呼ぶのも恐れ多いっていうか……。本当の名前は何ていうんスか?』
リクの素直な疑問に、姫は少し困ったように頬に手をあて、首を横に振った。
『名前……ですか? 実は、私には固有の名前というものがありません』
『えっ!? 名前がないッスか!?』
リクだけでなく、透も思わず目を丸くした。
「名前がない……って、どういうことだい?」
『はい。エルフの里におきまして、長たる血族の者はただ「姫」あるいは「姫様」とだけ呼ばれる定めなのです。個としての名は持たず、里の象徴としての役割だけを与えられて育ちましたので……』
姫は少し寂しげに目を伏せた。300年という長い歳月を、一人の人間(個人)としてではなく、ただ「姫」という役割の器として生きてきたのだ。
それを聞いたリクが、自分の後頭部をポリポリとかきながら言った。
『そりゃ寂しいッスよ! これから一緒に看護を学ぶ仲間なんだから、役割の呼び名じゃなくて、ひとりの仲間としての名前が欲しいッス! 橘さん、何か良い名前をつけてやってくれよ!』
「えっ、俺が……!?」
突然のフリに透は困惑したが、期待に満ちた目で自分を見つめてくるリクやゴブリンたち、そして何より、どこか息をのんで自分を見つめてくる姫の青い瞳をごまかすことはできなかった。
姫の胸の奥で、心臓が小さく跳ねる。
(橘様が……私に、名前を……?)
透は腕を組み、うーんと唸りながら長年培ってきた看護の思考を巡らせた。ふと、前世の看護学校で擦り切れるまで読んだナイチンゲールの著書と、今朝この森を吹き抜けていった爽やかな風の心地よさが頭に浮かんだ。
「……じゃあさ、『アリア』なんてどうかな?」
「あ……りあ……?」
姫がその響きを確かめるように、小さく唇を動かした。透は優しく微笑みながら語りかけた。
「俺が習った看護の教えの中に『新鮮な空気と風を部屋に取り入れることが、命を蘇らせる第一歩だ』っていう原則があるんだ。ラテン語で『アリア』は、風や空気、そして美しい旋律を意味する言葉なんだよ。エルフの里の重苦しい絶望を吹き飛ばして、新しい風を呼び込んでくれた姫様に……ううん、これから一人の人間として歩み出す君に、ぴったりだと思うんだ」
「アリア……私だけの、名前……」
姫——アリアは、胸に手をあててその名を反復した。
単なる「里の象徴」としての記号ではなく、一人の個人として認められ、愛を込めて与えられた世界でたった一つの名前。橘透という、心から尊敬し憧れる男性から贈られたその名前が、身体の奥深くまで温かく染み渡っていく。
「ふふ……『アリア』。とっても素敵な名前です……! 橘様、ありがとうございます! 私、アリアとして、一生この名を大切にいたします!」
アリアの顔に、パッと花が咲いたような眩しい笑顔が弾けた。その可憐すぎる笑顔に、透は一瞬胸を撃ち抜かれ、「お、おう……気に入ってくれたなら良かった」と照れくさそうに頭をかくのだった。
『よっしゃー! じゃあ今日からアリアさんだな! よろしくッス、アリアさん!』
リクが親しみを込めて拳を突き出すと、アリアも嬉しそうに頷いた。
その後、集落の中央にある巨木の木陰で、異世界初となる「第1期・看護助手育成講座」が開講された。
受講生は、やる気に満ちあふれた若いゴブリンのリクたちと、質素な旅装に身を包み、羊皮紙のノートとペンを膝の上に用意したアリア。
透は平らな木板に木炭で不器用な文字を描きながら、正面に立つ生徒たちを見回した。
「よし、それじゃあ講義を始めるよ。午後からは、患者さんの体に起きている異常を素早く見抜くための第一歩、『バイタルサインの観察』について勉強しよう」
「ばいたる……さいん……?」
リクが木片に木炭で「バイタル」と書き留める。
「そう、生きている限り体は常にサインを発している。熱があるか、呼吸が浅いか、商売道具の魔法や体力に関わらず……【脈拍】がどう打っているか、だ」
透は自らの手首を指差し、受講生たちに語りかけた。
「まずは、お互いの脈拍を測る練習をしてみよう。手首の親指側……ここに軽く二本の指の腹を当てるんだ。力任せに押すと血管を押し潰してしまうから、赤ちゃんを撫でるみたいに、優しく、そっとね」
生徒たちが一斉に自分の手首や隣の仲間の手に指を当て始めた。
『うぐぐ……橘さん、俺の手、皮膚が硬すぎてよく分からないっス……!』
『痛ぇよ、リク! 強く押しすぎだって!』
ゴブリンたちが大騒ぎする中、アリアも自分の手首に繊細な指先をあてて首を傾げていた。
「橘様……これで合っているのでしょうか? かすかな振動は感じられるのですが、正しく脈を捉えられているのか、自信が持てず……」
困り顔で透を見上げるアリア。その透き通るような青い瞳と真摯な眼差しに、透は「どれどれ」と歩み寄り、アリアの隣に腰を下ろした。
「どれ、手を見せてごらん」
透はごく自然な動作で、アリアの細くしなやかな手首をそっと自分の手で包み込んだ。15年の看護師生活で何千、何万回と繰り返してきた臨床の動作だ。透にとっては一切の他意もない、純粋な技術指導の触れ合いだった。
しかし——アリアにとっては違った。
(あ……)
自分に新しい名前と光を与えてくれた大切な人の、温かく分厚い手が、自分の肌にそっと重なった瞬間。
アリアの全身を、甘い衝撃が駆け抜けた。透の指先から伝わってくる体温、首筋からかすかに漂う石鹸の匂い、そして自分の手首を包み込む大きな手。
(な、なんでしょう……この感覚は……!?)
アリアの心臓が、跳ね上がった。ドクン、ドクンと胸の奥が激しく脈打ち、熱い血が全身を駆け巡っていく。白い頬が瞬く間に桜色に染まり、耳の先端まで真っ赤に熱を帯びていく。
「うん、ここだよアリア。親指の根元から腕に向かってなぞった、この窪み。ここに人差し指と中指の腹を優しく置くんだ。……ほら、動脈の跳ね返りが分かるだろ?」
透はアリアの指をそっと導き、適切な部位へと添え直した。
「あ……はい……っ! か、感じます……トックン、トックンと……」
声が裏返りそうになるのを必死で抑えるアリア。だが、指先から伝わってくる脈拍の触感に、透がふと首を傾げた。
「ん……? おかしいな。アリア、さっきまでショック症状から回復して安定していたはずなのに……脈拍数がかなり速いぞ? 1分間に110回以上……完全な頻脈だ。どこか気分でも悪いかい? まだ体調が戻っていないんじゃ……」
透が心配そうに顔を覗き込み、アリアのおでこに手を伸ばそうとした。
「違いますっ! 違います、橘様!! 体調が悪いのとは、違います……っ!!」
アリアは慌てて両手を振り、真っ赤になった顔を隠すように俯いた。ノートを胸に強く抱きしめながら、心の中で小さく悲鳴をあげる。
(ち、違います橘様……! 脈が速いのは……貴方が私に素敵な名前をくださって、こんなにも近くで私の手を包んでくださるからです……! 私自身の脈拍が、貴方のせいでおかしくなってしまっているのです……っ!)
300年という長い年月を生きてきて、初めて与えられた名前と、初めて芽生えた甘酸っぱい恋心。
「……? そうかい? ならいいんだけど、無理は禁物だからね」
透は少し不思議そうにしながらも、いつもの穏やかな笑顔でアリアの頭を優しく撫でた。アリアはますます顔を赤くして丸くなるのだった。
それを見ていたリクが、不敵な笑みを浮かべて割り込んでくる。
『へへん! 橘さん、俺も脈を測るコツが分かったッスよ! アリアさん、俺にも測らせて……って、うわっ!? アリアさん、なんでそんな恐ろしい顔で俺を見るんスか!?』
『リク。……私の脈拍は、橘様以外に触らせるつもりはありません』
『ヒエッ……! アリアさんの目が笑ってないッス……!』
そんなやり取りに、天幕の下にドッと大きな笑い声が弾けた。
「いいかい、みんな」
透は生き生きとした表情で受講生たちに向き直った。
「脈拍の速さやリズムは、体からのSOSの声だ。脈が速ければ熱や脱水、あるいは……まあ、緊張や感情の高ぶりがある証拠だ。言葉を話せない患者さんでも、脈に触れれば体の中で何が起きているかが必ず分かる。……みんなの手は、誰かの命を繋ぎ止める最高の道具になれるんだよ」
「「はいっ!!」」
ゴブリンとエルフの声が爽やかに重なり合う。あたたかな太陽の光が降り注ぎ、学びの青空教室は希望に満ちあふれていた。
——だが。その穏やかな時間は、唐突に破られることとなる。
ガラガラガラッ……!!
「た、助けてくれぇぇぇっ!!」
村の木柵の門を乱暴に叩く音と、絶叫が集落全体に響き渡った。
倒れ込んできたのは、ボロボロの布切れを纏った【下民街】の住民たちだった。
「橘先生……! 助けてくれ……! 下民街でも……農民たちの村でも……国が、国が民を殺しているんだ……!!」
下民の叫びが、青空教室の平和を一瞬で吹き飛ばした。




