第3章:学びへの情熱、芽生える恋心、そして世界の歪み 【第1話】姫の決意と、ゴブリン村への同行
朝靄が深く立ち込めるエルフの隠れ里。巨木の隙間から差し込む銀色の光が、夜の間に湿った深い森の草葉を美しく照らしていた。
コレラの猛威が去り、劇的な死の嵐が去った広場には、少しずつ穏やかな日常の呼吸が戻りつつあった。倒れていたエルフたちが自力で起き上がり、家族と静かに言葉を交わす声が聞こえてくる。
その広場の隅で、橘 透は一人、出立の準備を整えていた。
腰に巻きつけた使い古しのナースポーチのチャックを開け、残りのアルコールスプレーの量、予備のペンライト、そしてカルテ代わりに使っているナース手帳の残白を確認する。首には、前世の日本から肌身離さず持ってきたゴムの感触が馴染むマイ聴診器。
(……アルコールも残り少ないな。消毒用石鹸の作り方はゴブリンの村で教えたし、次は水煮沸の徹底をどう定着させるか……)
透はふうと息を吐き、水筒のキャップを閉めた。
前世の病院では、毎朝この時間になると憂鬱な足取りでナースステーションへ向かっていた。今日のリーダー看護師は誰か、嫌味な医師からの理不尽な指示変更はないか、顔色ばかりを伺って自分を殺していたあの日々。
だが今、透の胸にあるのは重苦しい疲労感ではなく、泥臭くも確かに命を繋ぎ止めたという、看護師としての静かで温かい充足感だった。
「橘様……本当にもう行かれてしまうのですか」
振り返ると、回復したエルフの側近たちが、名残惜しそうな瞳で透を見つめていた。最期まで家族に寄り添い、丁寧なエンゼルケアとグリーフケアを施してくれた透に対し、彼らはかつて人間に向けていた不信感を完全に捨て去り、心からの深い敬意を抱いていたのだ。
「ええ。ゴブリンの村でも、まだ手洗いやORS(経口補水液)の作り方を定着させている最中ですから。それに、いつまた同じような感染症が周囲で広がるか分かりません。定期的に巡回して、予防の知識を広めないと」
透がいつものように困ったような苦笑いを浮かべて頭をかいた、その時だった。
「——お待ちなさい、橘様」
静かだが凛とした声が、朝の清廉な空気を切って響いた。
透と側近たちが一斉に視線を向けた先。森の出口へ続く大樹のアーチの下に、一人の可憐な人物が立っていた。
「……え?」
透は思わず目を丸くした。
そこにいたのは、いつもの純白で格式高い豪華なドレスを脱ぎ捨て、動きやすい上質な革のブーツに、深い緑色のチュニック、そして軽やかなマントを羽織ったエルフの姫の姿だった。背中には小さな革の鞄を背負い、その手には透が手帳に使っているものとよく似た羊皮紙のノートが握られている。
「ひ……姫様……!? 一体その格好は……!?」
透の驚きの声に、側近の老エルフたちが顔を青くして駆け寄った。
「姫様! いけません、そのような軽装でどちらへ!? まだお身体の魔力も完全に回復しておられぬのですよ!」
しかし、姫は周囲の制止を制するように細くしなやかな手を挙げた。透き通るような青い瞳を真っ直ぐに透へ向け、一歩一歩、確かな足取りで近づいてくる。
そして、透の目と鼻の先で足を止めると、小さな両手を胸の前で強く握りしめ、深く頭を下げた。
「橘様。お願いがございます。……私を、あなた様の『看護の助手』として、連れて行ってはいただけないでしょうか」
「……は、はいぃぃっ!?」
透は素興行したような声をあげて後ずさった。
「じょ、助手!? 姫様がですか!? いやいや、冗談はやめてください! 姫様はこの里の象徴で、みんなをまとめる大切なトップじゃないですか! 俺の行くところなんて、泥だらけの集落だし、汚物の処理だってやるんですよ!?」
側近たちも「左様です! 人間の、しかも異種族の村へ姫様が向かわれるなどあってはならない!」と大騒ぎし始めた。
だが、姫は全く揺るがなかった。長い耳を微かに揺らし、毅然とした態度で周囲を押し留めると、透に向かってその胸の内を語り始めた。
「私は冗談など申しておりません。真剣です、橘様」
姫の透き通るような声が、森の中に静かに染み込んでいく。
「今まで私は……高貴な魔法術医や回復魔法こそが、傷つき病む者を救う唯一の手段だと信じて疑いませんでした。ですが、それは私の無知と驕りでした。橘様が見せてくださった『看護』は……違ったのです」
姫の脳裏に、この数日間の出来事が鮮明に蘇っていた。
自分の命と魔力を限界まで削り、穴の開いたバケツに水を注ぐように「ヒール」を掛け続けていた自分。それを「そんなのは治療じゃない」と叱り飛ばし、身体の生理学的な仕組みを見抜き、水と塩分を補給して命の底を支えた透の姿。そして、救いきれなかった死者に対しても、決して物として扱わず、最期まで尊厳を持って温かく見送ったあの手当て——。
「病の原因を探り、予防し、体から失われた命の源を補い、最期までその人の尊厳を守る……。高価な魔法や権威に頼らず、生きようとする身体の力を根本から支えるその手当てと知恵こそ、今この世界に最も必要な医療だと確信いたしました」
姫はキュッと唇を結び、熱い眼差しで透を見つめた。
「私は、あなた様のその知恵と志を……『看護』という学問を、一番近くで学びたいのです!」
「姫様……」
透は息を呑んだ。
目の前にいる少女の姿をした姫は、御年300歳という歳月を生きてきた気品を持ちながらも、新しい学びと命の本質に対して、誰よりも純粋で貪欲だった。
そして、姫自身の胸の奥には、自分でもまだ言葉にできない甘酸っぱい感情が静かに脈打っていた。
(現世では周りの顔色ばかり伺い、うまく立ち回ろうとして擦り減っていたとおっしゃるけれど……このお方は、誰よりも熱く、誰よりも優しく、理不尽な死に対して怒り、命に向き合っていらっしゃる……)
透の飾らない人柄、ふとした時に見せる大人らしい包容力、そして現場で見せるプロとしての圧倒的な強さ。そのすべてが、300年の時を生きてきた姫の心に、これまで感じたことのない温かな風を吹き込んでいた。
(この橘様のお側で……もっとこのお方の手当てを見つめていたい。このお方が創り出す未来を、一緒に見てみたい……)
胸の奥がキュンと締め付けられるようなときめきを覚えながら、姫はさらに一歩、透へ歩み寄った。
「……それに、橘様。私も高位の魔法を使えます。貴方が仰った通り『一次蘇生』や『緊急時の状態維持』としてならば、貴方の手当ての大きな助けとなれるはずです。……私では、お邪魔でしょうか?」
上目遣いで、少しだけ不安そうに自分を見つめてくる姫。
その真っ直ぐな瞳と熱意を前にして、断れる男がどこにいるだろうか。
透は困ったように頭をかき、深々とため息をついた後、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「……ハァ、分かりましたよ。でも、言っておきますけど、俺の現場は本当に泥臭くて大変ですよ? 弱音を吐いても、前世の厳しかった先輩ナースみたいに手加減しませんからね」
「はいっ……! どのようなご指導にも耐えてみせます!」
姫の顔に、パッと花が咲いたような眩しい笑顔が広がった。その可憐な笑みに、透の胸が一瞬ドキリと跳ね上がったのは内緒だった。
こうして、御年300歳のエルフの姫は、橘透の「看護の弟子」として、共にゴブリンの村へ向けて歩み出すこととなったのだった。
朝靄が晴れ、二人の背中に温かな太陽の光が降り注いでいた。




