【第3話】生贄という名の殺処分と、水流(みず)の真実
青空教室を包んでいた和やかな空気は、破滅的な音を立てて一瞬で霧散した。
倒れ込んできたのは、泥と汗、そして嫌というほど見慣れたあの白く濁った嘔吐物に塗れた数人の人間たちだった。先頭にいた男と、その腕に抱えられた若い男が、膝からぬかるみへ崩れ落ちる。抱えられていた男の顔色は土気色を通り越して青白く、呼吸は浅く荒い。
「リク、アリア! 慌てずにORS(経口補水液)とスプーンを! 頭を少し高く保つ手伝いを頼む!」
「は、はいっ!」
透は泥の中に膝をつき、倒れた若い男には軽度の脱水症状が見られ、衰弱している。
アリアは質素なマントを翻し、透から教わった通りの手際で木筒からORSを注ぎ分けた。以前ならパニックになり、後先考えずに最大級の「ヒール(回復魔法)」を解き放っていたであろうアリア。だが今の彼女は、透から叩き込まれた「生理学的な優先順位」をその身に刻んでいた。
透とアリアは、意識が混濁しかけている若い男の体幹を起こし、誤嚥させないよう角度を保ちながら、ORSをスプーン一杯ずつ、唇の隙間から滑り込ませた。
1分、2分……。カラカラに干上がっていた小腸の細胞が、ナトリウムとグルコースを同時に取り込み、血管内へと水分を急速に引き戻していく。
「よし、 アリア、ほんの僅かでいい、『最小限の魔法』を胸にかざして!」
「はいっ……!」
アリアは震える手に意識を集中させ、男の胸元へそっと掌を向けた。 これまでの彼女なら、倒れそうな患者を救うために全身の魔力を振り絞り、生気を削り取るような蒼白な顔で光を放っていたはずだった。
だが——透の指示通り、ほんのひとさじの魔力、灯火のような小さな青い光を胸に触れさせた、その瞬間だった。
フッと、患者の全身を温かな脈動が突き抜けた。
「え……!?」
アリアは目を見開いた。
ほんの瞬きほどの、最小限の魔力。以前なら重症者の表面をかすめるだけで掻き消えていたはずの弱々しい魔法の光が、まるで恵みの雨を得た若木のように、男の体内で劇的な効果をたたえて広がったのだ。
浅く喘いでいた呼吸がすっと深くなり、触知できなかった手首の橈骨動脈に、しっかりと力強い「トックン、トックン」という脈拍が戻ってくる。土気色だった唇に、みるみるうちに血色が戻っていった。
「嘘……こんな、ほんの少しの魔力消費で……!? 魔法が、全身に届いている……!?」
アリアは自らの両手を見つめ、驚愕に声を震わせた。以前なら、このレベルの重症者をショックから引き戻すには、自身が倒れ込むほどの魔力を削り出さねばならなかったのだ。
透は男の脈拍を指先で確かめながら、アリアに向かって優しく、誇らしげに微笑みかけた。
「驚くことはないよ、アリア。これが……『看護』が命の根底を支えるということなんだ」
「手当てが……根底を支える……?」
「そうさ。いくら強力な魔法であっても、水分と塩分が枯渇して干上がった体の中では、魔法の力を受け止める細胞そのものが動けないんだ。からからに乾いた砂漠に種を蒔いても芽が出ないのと同じだよ。でもね、こうしてORSで水分と電解質を満たし、生命力の土壌を整えてあげれば……身体は自ら治ろうとする力を取り戻す。魔法はその背中をほんの少し押してあげるだけでいいんだ」
アリアの胸の奥で、カチリと何かが音を立てて噛み合った。
奇跡を起こすのは魔法の光かもしれない。けれど、その奇跡が芽吹くための『豊かな土壌』を耕し、生体が本来持つ命の輝きを底から呼び覚ます——これこそが、目立たぬ手当の中に秘められた「看護」という営みの真髄なのだと。
「橘様……私、分かりました……! 看護とは……命の土台を育む、温かな大地なのですね……!」
アリアは自らに与えられた新しい名前の響きとともに、感銘に瞳を潤ませた。
「ハぁっ……ハぁっ……! た、橘先生……! 助かった……仲間が、息を吹き返した……!」
抱えられていた若い男のバイタルが安定したのを見届け、先頭にいた男——クラックと名乗った下民街の住民が、泥の中に頭を擦り付けた。
「噂を聞いて……死に物狂いで走ってきたんだ……! ゴブリンやエルフの村で、死の祟りを消し去った凄腕の手当て屋様がいると……! お願いだ、俺たちの街を……【下民街】を救ってくれ……! 長屋の中で、何十人もの仲間が、吐いて下して干からびるように死んでいるんだ……!!」
下民街——。王都の最下層、身分も権利も持たぬ者たちが身を寄せ合って暮らす旧市街の長屋地帯。
「下民街でも、コレラが出ているのか」
透の問いに、すさかさずアリアがメモを構えながら尋ねた。
「ですが、クラック様。なぜ王都のすぐ足元にある下民街で、これほどの惨状になっているのでしょう? 王都の魔法医や、周囲の農民たちの助けはなかったのですか?」
クラックは自らの不運と理不尽さを呪うように、悔し涙を泥の中にポロポロとこぼし始めた。
「助け……? 冗談じゃねえ……! 助けなんてあるもんか! 俺たちは……最初から見捨てられていたんだ……!」
クラックは掠れた声を振り絞り、下民街で起きていた絶望の経過を語り始めた。
「下民街で最初の病人が出たのは……かなり前のことだった。最初はお腹を壊して倒れた奴が一人、二人出ただけだったんだ。元々、俺たち下民は、王都の郊外で作物を育てる【農民】たちと、互いに助け合って暮らしていた。下民が農作業を手伝い、その見返りに野菜や小麦を分けてもらう……貧しいなりに、手を取り合っていたはずだったんだ……」
「農民と協力していた……。それが、どうして途絶えたんだ?」
「下民街で病人が増え始めた途端……農民たちが手のひらを返したんだよ! 『下民の病気や呪いが、俺たちの作る作物に移ったらどうする!』『神の祟りを畑に持ち込むな!』ってな……!」
クラックは泥の地面を強く叩いた。
「農民たちは……俺たちの住む下民街との境界線に、深く巨大な溝を掘ったんだ。そこに鋭い杭の柵を打ち立てて、俺たち下民が農民の土地に足を踏み入れるのを完全に禁止した。食べ物の取引も、助け合いも……すべて断ち切られたんだよ!」
「なっ……! 溝を掘って、隔離しただと……!?」 リクが驚きに声を張り上げた。
「そうだ! 俺たちは汚れた下民街の中に完全に閉じ込められた! 病人も、まだ健康な者も、狭い長屋の中に押し込められて、ただ病気が広がるのを指をくわえて見てるしかなかったんだ! 食料も底を突き、病気で死ぬか、お腹を空かせて死ぬかの二択だった……!」
医学的な知恵も正しい知識もない人々が、恐怖ゆえに陥る最悪の過ち——【無知による差別と隔離】。
「病気=祟りや呪い」と決めつけ、感染ルートを解明しようともせず、ただ患者を物理的に排斥し閉じめる。だが、目に見えない病原体は、人間が作った溝や柵など易易と越えて広がるのだ。
透の胸の奥で、激しい怒りがこみ上げてきた。前世の現場で見た、過剰な恐怖から特定の感染症病棟や看護師たちを遠ざけていたあの理不尽な光景が重なる。
「……だがな、橘先生。下民を隔離して溝を掘り、見殺しにしたところで……病気が止まるわけじゃなかったんだ」
クラックが、さらに声を低く落とした。その全身が、底知れぬ恐怖でガタガタと打ち震えている。
「下民を追い払い、拒絶したはずの農民たちの土地でも……ついに同じ吐き気と下痢の病気が出始めてしまったんだ。自分たちが神の祟りに触れたと知った農民どもはパニックになった。そして、それを見た国と【王都魔法術医ギルド】が何をしたと思う……!?」
「何をしたって……魔法で治療しようとはしなかったのか!?」
リクが叫んだ。クラックは嘲るように唇を歪め、ボロボロと涙を流しながら首を横に振った。
「治療だと? 冗談じゃねえ! 国とギルドが送ってきたのは、薬や魔法医なんかじゃなく……武装した王都の正規兵と、炎を操る処刑魔術士どもだったんだよ!」
「国は……病気の拡大を防ぐという名目で、病人が一人でも出た農民の集落や、下民街の長屋ごと兵士で包囲したんだ。そして……生きている人間もろとも、家ごと火を放って【殺処分(全焼き・虐殺)】を開始したんだよ……!!」
「殺……処分……!?」
アリアが小さく悲鳴をあげ、両手で口を覆った。
「表向きは『世界創世の本山へ生贄を捧げ、神の怒りを鎮める神聖な儀式』と街中に触れ回っている! 『病は神の祟りであり、穢れた者を本山への生贄として捧げることで国が浄化される』とな! だが実態は違う! 高額な魔法医療代を払えない貧民や農民を、病原体ごと殺して燃やし、本山へ捧げるフリをして川へ投げ捨てて『処分』しているだけなんだ……!!」
「そんな……! あまりにも酷すぎます……っ!!」
アリアの澄んだ瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
だが、透は怒りに震えながらも、脳を限界まで高速回転させていた。 クラックの言葉、ガルド村長から教わったこの世界の地図、そしてこれまで診てきた患者たちの症状——すべての点が、頭の中で恐ろしい音を立てて一本の線へと繋がっていく。
(待てよ……。本山……本流の大川……そして支流の森……)
透はポケットからナース手帳を取り出し、ペンで水系図を素早く描き殴った。
「……クラックさん、もう一度確認させてくれ。この国の地形と身分配置は、どうなっている?」
「え……? ああ……この国の中心には、世界の魔力が湧き出るとされる聖なる大山脈【本山】がある。その麓の最上流に住むのが、王族と貴族たちだ。本山から流れる大川に沿って、上流から士族、中流に商人や町民、下流に農民、そして最下流の河口近くに俺たち下民街がある……」
「そして……俺たちがいるこの森は、本流から枝分かれした『細い支流』の先にあるんだな?」
「そうだ……支流の森は勢いが弱く、下民街よりさらに奥の辺境にあたる……」
透はペンを強く握りしめ、手帳に描いた本山の頂点から、水流に沿って線を一気に引き下ろした。
「……繋がった。すべての謎が解けたぞ」
透の静かだが鋭い声に、アリアもリクも息を呑んで透の手元を見つめた。
「なぜ、離れた場所にいるゴブリンの村でも、エルフの里でも、下民街でも、全く同じコレラ菌のような劇症感染症が同時多発的に発生したのか。……病源体の発生源は、一番上だ。【本山の麓にある貴族の街】なんだよ!」
「貴族の街……!?」
「そうだ。最上流に住む貴族たちの間で、最初にコレラが発生したんだ。貴族たちは莫大な金を払い、魔法術医ギルドの『ヒール』で自分たちの症状だけを抑え込んだ。……だが、魔法で症状を消したところで、患者の体内から排出される病原体(排泄物や汚水)が消えてなくなるわけじゃない!」
透は手帳の水流の線を指でなぞりながら、言葉を続けた。
「貴族の街やギルドは、コレラで死んだ使用人や貧民の遺体、そして感染者の排泄物を処理することなく、そのまま本流の大川へ垂れ流したんだ! 水流に乗った広大な汚染水は、中流の町民、下流の農民、そして最下流の下民街へと病気を撒き散らした! さらに、本流から分岐した細い支流を伝って、森の奥に隠れ住むゴブリンやエルフの里にまで届いたんだ!!」
「「っ……!!」」
現場に激しい衝撃が走った。
「上流の金持ちや貴族が自分たちの汚物を下流へ垂れ流し、下流で病気が広まると『神の祟りだ』『下民の呪いだ』と騒ぎ立て、最後は『生贄』という名目で弱者を虐殺して火で焼き払う……! これが、この国の感染症の真実だ!!」
透の胸の中で、怒りの炎が爆発するように燃え上がった。
前世の日本でもそうだった。組織の上層部や経営陣が保身のために現場へ過酷な負担を強いて不祥事を隠蔽し、疲弊しきった若手看護師や現場の人間を「自己責任」として切り捨てていくあの構造。
形は違えど、権力者が生み出した歪みのシワ寄せを、一番弱い立場の人間や亜種が命で支払わされている——その理不尽の極みが、いま目の前で起きているのだ。
「許せない……! そんなの、医療でも国でもない! ただの虐殺です!!」
アリアが激しい怒りと涙の声をあげ、透の袖を強く握りしめた。
「橘様……お願いです! 下民街の人々を……殺処分されようとしている農民たちを救いに行きましょう! 私たちの『看護』で、その不条理を止めなければなりません!」
透は握りしめたナース手帳を固くポケットへ突っ込み、首の聴診器を強く握り直した。その瞳には、かつて前世の病院で波風を立てないよう愛想笑いを浮かべていた「事なかれ主義のおっさん」の面影は微塵もなかった。
「……行くぞ、下民街へ」
透は周囲のアリア、リクたちを見回し、力強く宣言した。
「病気は火で燃やしても、人を殺しても止まらない! 原因を突き止め、環境を整え、正しく手当てをする……俺たちの『看護』で、国家の殺処分を止めてやる!!」




