第2章:エルフの隠れ里と、戦う若き姫(エルフの里編) 【第1話】なぜ重症化する? 種族の壁と解剖生理の罠
ゴブリンの村で感染症の連鎖を断ち切り、少しずつ穏やかな日常を取り戻していたある夜のことだった。
夜風が心地よい村の境界線を、透は懐中電灯代わりのペンライトを手に一人で巡回していた。静まり返った森の奥から、ふと微かな「草擦れの音」が耳に届く。振り返る間もなく、頭から粗い麻袋を被せられ、強い力で両腕を背後へ絞り上げられた。
「なっ……!? おい、誰だ! 放せ!」
抵抗する間もなく身体を持ち上げられ、がたがたと激しく揺れる馬車の荷台へと押し込められた。冷たい夜風が布越しに吹きつける中、馬車は数時間にわたって暗闇を走り続けた。やがて車輪の回転が止まり、頭の袋が乱暴に引き剥がされた。
「目隠しを外せ。……『奇跡の手当て屋』よ、無礼を許せ」
まぶたを開いた透の目に飛び込んできたのは、月光を反射して銀色に輝く巨大な樹木と、幻想的な大樹の森だった。だが、透の息が詰まったのはその神秘的な景色のためではない。足元に広がる、目をも覆いたくなる惨状のためだった。
美麗な織物の衣装を纏った無数のエルフたちが、巨木の根元や張られた天幕の周囲で横たわり、激しい呻き声をあげていた。
耳を刺すのは、途切れ途切れの苦悶の息遣い。鼻腔を突くのは、甘ったるい死臭と排泄物の強烈な異臭だった。失泄された便は、ゴブリンの村で目にしたものと同じ、白く濁った「米のとぎ汁」状の水様便だった。
「くそっ……! ゴブリンの村と同じ……いや、それ以上に病勢が早い……!?」
透の臨床眼が、暗闇の中で瞬時に患者たちの全身状態を捉えていく。だが、観察を進めれば進めるほど、透の背筋に冷たい氷を突き立てられたような戦慄が走った。
(おかしい……病原体はおそらく同じコレラ菌に起因するものだ。なのに、なぜここではこれほどの短期間で重症者が山積みになっている……!? ゴブリンの村とは一体何が違うんだ!?)
透は膝をつき、目の前に倒れている若いエルフの少女の首筋にそっと指先をあてた。
橈骨動脈の脈拍は触知できず、頸動脈の脈拍すら計測不可能なほど速く微弱だった。腕の皮膚をつまみ上げても、まるで乾燥した紙のように弾力を失ったまま元に戻らない(ツルゴール低下の著しい増悪)。眼球は眼窩の奥深くへ落ち窪み、四肢の末梢は冷たく紫っぽく変色している。すでに深刻な【循環血液量減少性ショック】に陥っていた。
透の頭の中で、15年かけて叩き込んできた解剖生理学の臨床知識が激しく交錯する。
(そうか……種族による【体構成成分】と【生体防御反応】の決定的な違いだ……!)
人間やゴブリンの場合、体重の約60%が水(体内総水分量:TBW)で占められており、そのうちの多くが筋肉や組織の中に細胞内液・細胞外液として蓄えられている。特にゴブリンは筋肉量が多く体脂肪率が低いため、体内に「水と塩分を保持するバッファー(貯水タンク)」が大きい。だからこそ、コレラ毒素によって小腸粘膜の細胞内cAMPが上昇し、大量の水と電解質が爆発的に腸管内へ排泄されても、一定時間は循環血液量を維持して持ち堪えることができたのだ。
だが、エルフは違った。
華奢で細身な体格を持つエルフは、骨格が細く筋肉量が極めて少ない。つまり、身体の中に水分を蓄えておく「貯水タンク」が元々圧倒的に小さいのだ。体内の全水分量が少ない状態から大量の下痢と嘔吐を起こせば、わずか数時間で血管内の水分(細胞外液)が完全に枯渇してしまう。
さらに、エルフは種族的に受容体が過敏であり、脱水に対する生体代償機構(交感神経の過剰緊張による血管収縮)が過剰にはたらいてしまう。その結果、急激な血圧低下と多臓器不全、さらには激しい下痢による重炭酸イオンの喪失からくる代謝性アシドーシスが、恐ろしいスピードで進行していたのだ。
現世で言えば、体内のバッファーが少ない小児や高齢者が、高熱と下痢であっという間にショック状態へ陥る病態と全く同じ構造だった。
「まずいぞ……! ゴブリンの村と同じ対処法——ただ口から経口補水液(ORS)を飲ませるだけの対症療法じゃ到底間に合わない! 腸管からの吸収スピードよりも、血管内から水分と電解質が抜け落ちていくスピードの方が圧倒的に速すぎるんだ……!」
透は冷や汗を拭いながら、この絶望的な生理学的ジレンマにどう立ち向かうべきか、己の知識と看護技術を激しく絞り出し始めた。




