【第3話】謎の病——感染経路を探れ
翌朝、薄暗い霧が立ち込める中、透はガルド村長とリクを伴い、集落の全戸訪問を開始した。
木と泥でできた粗末な住居の扉をくぐるたび、立ち込める死臭と、鼻を突く糞尿の臭いに透の鼻腔がツンと刺激される。暗がりの中、藁床の上に何十体ものゴブリンたちが倒れ伏していた。どの者も顔は土気色に落ち窪み、うわ言を漏らしながら、激しい嘔吐と米のとぎ汁のような白い下痢(水様便)を絶え間なく撒き散らしていた。
「ひどい……昨日よりも悪化している患者が増えてる……」
リクが口元を押さえ、恐怖に声を震わせた。透はすかさずナースポーチからアルコールスプレーを取り出して自分の両手に吹き付け、患家の中に足を踏み入れた。
(安易に病名を決めつけるな。まずはアセスメントだ。なぜ、この村でこれほど一気に広がった? 患者たちの共通点は何だ……!?)
透はナース手帳を開き、ペンを走らせながら観察ポイントを一つずつ確認していった。
発症の分布: 集落の中心部、特に特定の井戸を共有している長屋状の住居に患者が集中している。
排泄物と水回り: 井戸のわずか数メートル隣に排泄物を捨てるための浅い穴が掘られており、そこから溢れた汚水が雨水と共に井戸の周囲へ染み込んでいた。さらに、その汚物には無数のハエが集まり、家々の食べ物へと飛び交っている。
看病をする家族が、患者の吐瀉物や便を素手で拭き取った後、手を洗わないまま食事の準備や子供への授乳を行っていた。
(典型的な fecal-oral route……経口・水系感染だ! 井戸水が病原体で汚染され、それを飲んだ人間が発症し、排泄された菌が手やハエを介してさらに食べ物へ移っている。この悪循環が断ち切られていない!)
「ガルド村長、リク、よく聞いてくれ」 透は二人に向き直り、きっぱりと言い切った。
「これはやっぱり『神の祟り』なんかじゃない。」口から体に入った悪いもの——おそらく・・・コレラに近い劇症性の腸管感染症だ。病気の正体と入ってくるルートが分かれば、魔法がなくても絶対に防げる!
『本当か……!? 魔法術医様すら「悪魔の毒」だと匙を投げた病なんだぞ!?』 ガルド村長が驚きに目を見開く。
「ああ、防げる。やるべきことはシンプルだ。【一病者一手洗い】と【ゾーニング(感染エリアの分離)】、そして【水源の管理】だ!」
透はすぐさま村の若者たちを集め、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
まず、汚染されている井戸の使用を即座に禁止し、少し離れた上流の沢から水を汲んで必ず一度鍋で「煮沸」してから使うことを徹底させた。次に、木灰と油を混ぜ合わせた簡易石鹸を作らせ、患者に触れた前後は必ず沸騰させて冷ました水で手を洗うルールを定めた。
さらに、集落の奥に日当たりの良い大きな天幕を張らせ、感染者を隔離する「臨時病棟」を設置。排泄物は井戸から遠く離れた場所に深い穴を掘って埋め、灰を撒いて消毒させた。
「透さん! こっちのじいさんがまた激しく吐いたっス!」 「慌てるな、リク! 吐瀉物を喉に詰まらせないよう、身体を横向き(回復体位)に保て! 汚れた服はすぐに取り替えて、汚物は素手で触らずに葉っぱや灰を使って処理するんだ!」
透自身、汚物の処理も吐瀉物の片付けも一切嫌な顔を見せず、率先して手を動かした。泥と排泄物に塗れながら、苦しむゴブリンたちの汗を冷たいタオルで拭き、背中をさすり続ける。
その泥臭くも真摯な姿に、最初は人間を疑っていた若いゴブリンたちの目の色が変わっていった。
『人間……いや、橘の兄ちゃん……。なんで俺たちみたいな「緑の害虫」のために、そこまで汚いマネができるんだ……?』 作業の合間、汗を拭いながらリクがぽつりと尋ねてきた。
透は一瞬手を止め、自嘲気味に苦笑いを浮かべた。
「前世での俺はさ……周りの顔色ばかり気にして、嫌われないように、うまく立ち回ろうと無理ばかりしてたんだ。でもさ、そうやって自分を殺して誰かに合わせるのに、もう疲れちゃってね。……ここではもう、誰の顔色も伺いたくない。ただ目の前の命に向き合いたいんだよ」
透の飾らない本音の言葉に、リクは胸を打たれたように黙り込み、やがて力強く頷いた。
『……分かったっス! 俺たちにもっと手当てを教えてくれ! 俺たちの手で仲間を救いたい!』
さらに、透は看護を続ける中で重要な生物学的局面に気づく。
(そうだ……! ゴブリンたちは人間より遥かにタフで、生命力と基礎免疫力が格段に高い! 人間なら一発で重篤なショック死に至るような脱水症状でも、頑丈な体質のおかげで軽症から中等症のところで踏みとどまっている者が大半だ!)
「これならいける……! 高度な医療機器や点滴がなくても、正しい手洗いで二次感染を防ぎ、ORS(経口補水液)で脱水さえ補正し続ければ、彼らの自力免疫で菌は自然排出される!」
透の確信は、確実な成果となって現れ始めた。
朝から晩まで、透とリクたち「第一期看護助手」は村中を駆け回り、スプーン一杯ずつのORSを休むことなく患者たちの口へと流し込み続けた。
そして——対策開始から一週間が経った朝。
『橘さん! 橘さんっ!!』
リクが集落の広場を叫びながら走ってきた。その手には最新の患者記録が握られている。
『新しく倒れた奴が……ゼロっス! 今日は一人も出ていません! それに、最初から重症だったバアさんも、今朝自分の足で起き上がってお粥を食べました!』
広場に一瞬の静寂が訪れ、直後、割れんばかりの歓声が集落全体を揺らした。
藁床から起き上がった患者たちが、太陽の光の下へ続々と姿を現す。互いに抱き合い、無事を確かめ合うゴブリンたち。この一週間、村から出た死者はゼロだった。魔法術医が見捨てた「死の呪い」は、完全に収束したのだ。
『おおお……おおお……!』 ガルド村長が大粒の涙をこぼし、杖を投げ出して地面にひざまずいた。
『生贄など捧げずとも……魔法など使えずとも……村が救われた! 橘様、あなたは我が一族の真の恩人じゃ……!』
村中のゴブリンたちが、次々と透の前にひざまずき、深く頭をこすりつけた。
現世の病院では、いくら現場で奮闘しても「出しゃばり」「余計な気の利かせ方」と嫌われ、虚しさを抱えていた透。だが今、目の前にいる人々が、自分の知識と「看護」によって救われ、心からの感謝と信頼を寄せてくれている。
(……ああ。そうか……) 胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。 (無理して誰かに合わせる立ち回りなんて、最初からいらなかったんだ。俺がずっとやりたかったのは……目の前の命を救う、この看護だったんだ……!)
透は照れくさそうに頭をかき、ひざまずくゴブリンたちを立ち上がらせた。
「みんな、顔を上げてくれ。病気を退治したのは、俺の指示を信じて手を洗い、仲間を支え続けたみんなの力だ」
透は隣に立つリクの肩をポンと叩いた。
「リク、これからこの村の健康と衛生を守るために……俺と一緒に、本格的に『看護』を学んでみないか?」
リクは一瞬驚いたように目を見開いた後、袖で涙を雑に拭い、太陽のような最高の笑顔で答えた。
『はいっ!! よろしく頼むっス、橘さん!!』
貧しく差別されていたゴブリンの集落は、こうして「異世界初の衛生・看護モデル集落」へと生まれ変わり始めたのだった。
……そして数日後。「魔法術医すら見捨てたゴブリンの村で、死の呪いが消え去った」という噂は、静かに、しかし確実に風に乗って、広がっていくのだった。




