第1章:忘れた雨と、魔法なき救命(ゴブリン村編) 【第1話】目覚めと装備確認、そして路上に倒れる生命
「……う、ん……っ……!?」
湿った土の匂いと、鼻を突く濃い草の匂いで透は目を覚ました。 まぶたを開けると、視界に飛び込んできたのは病院の天井ではなく、樹齢数百年はあろうかという巨木が鬱蒼と茂り、葉の隙間から木漏れ日が差し込む見たこともない深い森の中だった。
「……夢……か……?」
体を起こす。高層階から落ちたはずなのに、骨折はおろか擦り傷ひとつない。戸惑いながらも、15年の看護師生活で叩き込まれた習性で、透はまず自分が身につけている「持ち物の確認」を始めた。
首には使い慣れたゴムの感触が残る聴診器。 手元には落とさずに握りしめていた自分の水筒(冷えた茶が入っている)と、飴玉とお菓子の袋。 そして、腰にしっかりと巻きついたナースポーチのチャックを開け、中身を一つずつ手で確かめる。
手指消毒用のアルコールスプレー(残量8割)
医療用のバンパーハサミ
瞳孔対光反射を見るためのペンライト
バイタルや看護記録をつける手帳とペン
ポケットサイズの医療用辞書(看護アセスメントガイド)
清潔なハンカチとティッシュ
「よかった……いつもの仕事道具は一式揃ってる。水筒とお菓子もあるな……」
使い込んだ道具の触感に、ほんの少しだけ心が落ち着く。しかし、ここはどこなのか。自分がどうなったのかを考える暇も与えられなかった。
「……う、ぐぁ……っ! じいちゃん! しっかりしろ! 頼むから目を開けてくれよ……!」
数十メートル先の草むらの奥から、耳を刺すような切羽詰まった叫び声と、必死な泣き声が響いてきた。透は手帳とペンライトをポーチに突っ込み、水筒とお菓子を抱えて草むらを夢中でかき分けた。
そこに広がっていたのは、常識を根底から覆す光景だった。
緑色の皮膚に尖った長い耳、不揃いな牙——まさにフィクションの「ゴブリン」が2体。 1体は泥の中に倒れ伏して全身を痙攣させる老人、もう1体はパニックでその胸を叩きながら泣き叫ぶ若者だった。
「おい……何が起きてるんだ……!?」
透が思わず声をかけて歩み寄ったその瞬間、若者ゴブリンのリクが血走った目で振り返り、猛獣のような威嚇の声をあげて飛びかかってきた。
「ガアァァッ!!」
「うわっ!?」
リクは透の右手にガブリと深く噛みついた。鋭い牙が皮膚を裂き、鮮血が飛び散る。
「いっ……てぇぇぇっ!? 放せ! 俺は敵じゃない!」
激痛が走り、透の血がリクの口内へと混ざり合う。その直後、透の脳内でドクンと妙な衝撃が走り、視界が一瞬歪んだ。これまで「ギャアギャア」という言葉にならないうめき声に聞こえていたリクの発声が、噛まれた傷口を通じて急に「意味のある言語」として脳内に直接翻訳され始めたのだ。
『人間……!? 寄るな! じいちゃんを殺させないぞ! 魔法術医様も治せなかったんだ!』
「(血を混ぜて言葉が通じる……!? いや、そんな異世界の法則は後だ!)」
透は噛まれた手を強く振り払い、ポーチからペンライトを取り出して泥の中の老ゴブリン(ガルド)の脇にひざまずいた。迅速に観察を開始する。
【透のアセスメントシート:患者ガルド】
瞳孔所見: ペンライト照射。両側瞳孔径3.0mm、対光反射は緩慢。
循環・呼吸: 脈拍130回/分(頻脈・橈骨動脈で弱く触れる)、呼吸数30回/分(浅く速い呼吸)。
体温・脱水反応: 触診で強烈な熱感。腕の皮膚をつまむと元に戻らない(ツルゴール低下)。口唇・舌はカラカラに乾燥し、意識混濁。
(……さあ考えろ、橘透! 何が起きている? 熱、頻脈、ツルゴール低下、意識混濁。この身体で何が枯渇している……!?)
「高熱による……深刻な【重度脱水症】だ! 放置すれば一時間持たずに循環不全でショック死するぞ!」
『だ、脱水……!? 呪いじゃないのか!? じいちゃん、死んじゃうのか……!?』
言葉が通じたリクが、ボロボロと涙をこぼしながら手にしたナイフを震わせた。透はリクの目をまっすぐに見つめ返し、力強い声で叫んだ。
「死なせたくなかったら、俺の指示を聞け! 泣いてる暇があったら動くんだ!」
透は頭を高速で回転させる。病院なら速やかに生食の点滴を全開で落とす場面だ。だが、ここには点滴も注射筒もない。手元にあるのは自分の水筒(冷えた水)と、ポーチの中の道具だけだ。
(もし、ここでパニックになってただの水を胃に飲ませたらどうなる……? 重度の脱水状態にある胃腸に水だけを入れると、血中ナトリウム濃度が急速に薄まり、【水中毒】や【低ナトリウム血症】を引き起こして激しい嘔吐を呼び、余計に脱水が進行する! 小腸の受容体が水分を吸い上げるには、なにが必要だ……!?)
「塩分と、糖分だ! 小腸のSGLT-1(ナトリウム・グルコース共輸送体)を動かすには、塩と砂糖が絶対に要る!」
透はリクに命じ、腰袋の岩塩と、森の木々に生える甘い果汁を集めさせた。 水1リットルに対し、塩3g、砂糖40gの黄金比。秤がない中、透は水筒のきれいな水に岩塩を細かく砕き、持ち合わせていたいちご飴の糖分と甘い果汁を混ぜ合わせた。自らの舌で味を確かめる。「ほんのり汗の味がして、甘みがある」絶妙な濃度(ORS:経口補水液)へ調整した。
「頭を斜め30度に保て! 誤嚥して肺炎を起こされたら終わりだ。スプーン一杯ずつ、胃の受け入れに合わせて慎重に流し込むんだ!」
1分、1時間…。透は膝を泥だらけにし、噛まれた右手の血をティッシュで縛って後回しにしながら、一滴ずつガルドの唇にORSを流し込み続けた。
やがて——ガルドの荒かった呼吸が深くなり、カラカラだった口唇に赤みが戻ってきた。
『……り、リク……? わしは……』
『じいちゃんっ!!』
ただの水ではなく「生理学的に必要な成分」を口から正しく届ける。知識と持ち合わせた現場の道具が生んだ、異世界での最初の救命だった。




