序章:歪んだ現実(リアル)と、異界への転落
超高齢化社会へと一直線に突き進む現代の日本。膨れ上がる高齢者人口に対し、医療や介護の現場はすでに限界を迎えていた。
社会的には「尊い仕事」「エッセンシャルワーカー」と持ち上げられながらも、現場を支える看護師や介護士の労働環境は過酷を極めていた。どれだけ重労働をこなしても上がらない基本給と低い手取り。命を預かる責任の重さに見合わない待遇の一方で、同じ病院内であっても医師とコ・メディカルの間に横たわる絶望的な給料と地位の格差。さらに、現場に根強く残る古い年功序列や、派閥争い、女性社会特有の繊細でドロドロとした人間関係の摩擦——。
主人公・橘 透は、そんな医療現場で15年以上働き続けてきた30代後半の独身看護師だった。
救急・ICUの緊迫した現場から、じっくりと患者に向き合う慢性期・訪問看護まで幅広く経験し、確かなアセスメント能力を持っていた透。だが、彼が現場で正当に評価されることはなかった。
「橘さんさあ、また研修医のオーダーミス、裏でコソコソ修正したでしょ? 先生の顔をつぶさないためって言うけど、そういう『余計な気の利かせ方』が角を立てるのよ。私たちは指示通り動けばいいの」
深夜のナースステーションで、蛍光灯の白い光に照らされながら、年上の師長から冷ややかな視線を浴びせられても、透は困ったように頭をかいて愛想笑いを浮かべることしかできない。
「あはは……すみません。でも、そのまま通すと患者さんの腎機能に影響が出そうだったので、つい……」
透は「うまく立ち回らなければ自分が困る」「職場の波風を立てたくない」という思いが人一倍強かった。だからこそ、理不尽な医師の嫌味にも笑って合わせ、圧の強い先輩ナースの機嫌を伺い、頼み込まれれば断れずに二重シフトの夜勤を引き受けてしまう。
だが、彼はただの事なかれ主義者ではなかった。認知症で暴れる患者の隣にそっと座って何十分も手をつなぎ、採血に失敗して泣く新人には「俺なんて昔アザだらけになったよ」と缶コーヒーを差し出すような男だった。しかし、その「患者ファースト」な姿勢こそが、効率優先の上層部からは「無駄が多くて扱いづらい」「組織の輪を乱す」と扱われる原因になっていた。
(……うまく立ち回ってるつもりなのに、なんでこんなに息が苦しいんだろ。俺の人生、ずっと誰かに合わせて、自分を殺して……)
連日連夜の二重シフトで、透の体力と集中力は限界を超えていた。
深夜3時すぎ。シーツの匂いと消毒液の香りが混ざり合う小さな休憩室で、ようやく勝ち取った15分間の仮眠時間が終わりを告げた。アラーム音に弾かれた透は、重く鉛のように沈む身体を無理やり叩き起こし、スタッフルームを出た。
頭はぼーっと霞み、視界の端が明滅している。首には長年使い込んできたマイ聴診器をかけ、腰には仕事道具がぎっしり詰まったナース用ウエストポーチのカチリというバックル音を確かめて巻き直す。右手には水分補給用のマイ水筒、左手には小腹を満たすためにポケットから取り出した数個の飴玉とお菓子の袋を握りしめていた。
「はぁ……あと数時間で日勤帯に引き継ぎか……頑張らなきゃ……」
自分の足音だけが静かに響く病棟の廊下へ戻ろうとした、その矢先だった。
「……え?」
廊下の突き当たり。普段は強固に施鎖され、患者はもちろんスタッフも出るはずのない高層階の開かずのベランダ。その重い扉がなぜか薄開きになっており、隙間から冷たい夜風が吹き込んでいた。
そして、その欄干の外側——高さ数十メートルの虚空に足先を浮かせ、一人の謎の老人が立っていた。風もないのに老人の白い衣が不気味にゆらゆらと揺れている。
「おい……嘘だろ……!? おじいさん! 危険です、戻ってください!!」
透の頭から眠気が一瞬で吹き飛んだ。パニックになりながら扉を開け放ち、冷たい夜風が吹き荒ぶベランダへ飛び出した。手に持っていた水筒やお菓子を握りしめたまま、無我夢中で老人に手を伸ばす。
駆け寄る透に対し、老人はゆっくりと振り返り、深淵のような静かな瞳で透を見つめた。
「……着いたか、手当ての者よ」
「え……?」
「汚れた世界を……頼んだぞ」
老人がふっと細い手を差し伸べた瞬間、透の足元のコンクリートが影のように消え去った。
「橘さん!? どこ行くんですか——!?」
異変に気づいた後輩看護師たちが悲鳴を上げてベランダへ駆けつけてくるのが見えた。しかし、透の身体は夜の闇の中へ、吸い込まれるように転落していった。浮遊感と激しい眩暈、そして世界が反転するような感覚の中、透の意識は深い深い暗闇へと沈んでいった。




